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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第36課 「義人は信仰によって生きる」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2009-09-04


読むみことば: 創世記22:1-13
覚えるみことば: 創世記22:12
参考にするみことば: ヘブル11:19


教育目標

信仰の父アブラハムと神との信頼関係を通して、義人と信仰について学ぶ。

互いに完全な信頼関係を持つようになれば、まなざしや素振りだけ見ても、相手の心が感じられます。仮に理解できないことを言ったり行なったりしても、誤解しないで相手の立場から理解しようとします。しかし、互いに信頼関係を持っていなければ、いくら親しいようでも、ささいなことでも気まずくなって別れることが見られます。このように、私たちが神の御前にどれほど真実をもって信頼を積み重ねたかによって、もっとうるわしい関係になることもあり、反対に一瞬にして崩れることもあります。


1. うるわしい信頼関係

私たちはこの世に生きながら、他の人にお願いしなければならない時もあり、お願いされる時もあります。もしそれが悪いことなら、神が喜ばれないと悟って、決してそれを引き受けてはなりません。しかし、貪欲な人は自分の利益を求めて引き受けますが、その結果はまことに惨めになることが見られます。これとは違って、良いことを頼まれた時は、自分のすべてをかけて、はなはだしきは命も惜しまずに喜んでするなら、まことにうるわしいことです。
たとえば、エステルは両親のいない自分を娘のように養育したモルデカイの頼みを聞いてあげるために、命をかけて王の前に出て行き、結局、自分の民族ユダヤ人を滅びの危機から救います。エステルが善をもってモルデカイの頼みを聞いてあげたので、その過程でまことに神がすべてのことを働かせて益としてくださり、その結果も幸いなものになりました。このように、人が互いに信頼して愛を分かち合えば、まことにうるわしくて完全な結果をもたらすようになります。
神と人の間も同じです。全知全能であり造り主である神との信頼関係が完全になるなら、誰でも神に愛されて祝福され、いつも栄光をお帰しする人生になるのです。


2. 神とアブラハムの信頼関係

<創世記12章>を読むと、信仰の父アブラハムと神との信頼関係がどれほど完全だったのか、よくわかります。神がアブラハムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と仰せられました。当時、神はアブラハムにはっきりした目的地を知らせないで、これから示す地へ行きなさいとだけ命じられました。それでも彼は神を信じたので、すべてを信仰によってゆだね、おことばに聞き従って、何の理由も聞かずに出発しました。
ここで私たちが悟るべきことは、神のみこころに聞き従っていく人は、神が責任を負ってくださるということです。神が導かれるとおり、アブラハムがカナンの地に入った時は、すでにカナンの人々が住んでいました。それでも神が「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられると、アブラハムはそのとおりに信じました。それだけでなく、神が「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる」と約束された時も、そのおことばを完全に信じて、より頼みました。その地は飢謹がひどくて、エジプトに住まいを移さなければならない苦しみを経験しながらも、神を少しも恨まないで、ただ耐え忍んでそのみこころに従ったのです。このように、アブラハムは神との信頼関係が非常に厚かったのです。


3. アブラハムの義と信仰

神のことばを信じて聞き従ったアブラハムの持ち物がますます多くなり、おいのロトも、アブラハムとともにいて祝福されて豊かになったので、ふたりはこれ以上一緒に住むことができなくなりました。すると、アブラハムはロトに「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と優先権を与えました。
このようにアブラハムは自分の権利を譲っただけでなく、ロトが苦境に陥った時も、決して放っておけなかったのです。家で生まれたしもべ三百十八人を召集して行き、ロトと捕虜にされた人々と財産を取り戻してきたりしました。
私たちも、アブラハムのようにすべてのことに義を追い求めて行なう信仰の人になってこそ、神に喜ばれます。神はアブラハムに「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる」と約束され、「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」と仰せられました。そして、天の星のように子孫が数えることができないほど多くなると仰せられた時も、アブラハムはそのおことばを心から信じました。すでに自分と妻は年を取って子どもを持つことができなかったけれど、彼は変わらず神を信じました。
神はこのようなアブラハムをかわいく思われて、その信仰を義と認められました。ところが、アブラハムの妻サラが、神の約束を待てなくて、人間的な方法を使いました。アブラハムに自分の女奴隷ハガルを与えて、子どもを得るように勧めたのです。彼はサラの意見を無視しないで、ハガルのところにはいりました。後日、これは大きい問題を起こす火種になってしまいます。ハガルが、自分がみごもったとわかると、自分の女主人を見下げるようになったのです。すると、かえってサラはアブラハムを恨みます。
この時にも、彼はどちらにも偏ることなく、公平に事を処理しました。たとえハガルがアブラハムの子どもをみごもったとしても、秩序の上ではサラの女奴隷なので、サラの好きなとおりにさせます。<創世記16章>には、このような過程を通して、ハガルが息子イシュマエルを産むことが書かれています。アブラハムが八十六歳の時のことです。
アブラハムが九十九歳になった年、神は翌年、彼が息子を生むと言われます。神の約束どおり、アブラハムは約束の子であるイサクを百歳で得ます。ある日、サラは女奴隷ハガルが産んだイシュマエルがイサクをからかうのを見ます。彼女はこれに耐えられなくて、ハガルとイシュマエルを追い出してくださいとアブラハムに言います。年を取ったアブラハムは、イシュマエルも自分の息子なので、非常に悩みます。
しかし、アブラハムはすべてにおいて正しい道だけを求めて行ないます。神がさばいてくださる時を待ち、神が指示してくださった時は、少しもためらわなかったのです。神はアブラハムに、サラの言うとおりに聞き入れなさいと仰せられて、イシュマエルも一つの国民とすると約束されます。アブラハムはそのおことばを信じて、直ちに聞き従って、朝早くハガルとイシュマエルを送り出します。
このように、信仰の人は神のみこころなら、ただ「アーメン」と従い、そうでなければ背を向けるのです。もし、このような自分の肉をさまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまわなければ、神がご覧になって完全でないのです。もちろん、このような信仰はすぐ与えられるのではなく、毎日、従って祈っていく時に、毎瞬、毎瞬、与えられるのであり、そのうちに完全になるのです。


4. 神が喜ばれる信仰

このように聞き従うアブラハムをご覧になって、神は祝福を与えるために、最後の試みを受けることを許されます。それは、愛するひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい、ということでした。人間の思いを働かせるなら、本当にあきれるほどのことですが、アブラハムは神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えたので、少しもためらわなかったのです(ヘブル11:19)。
彼は神を全面的に信じたので、イサクを全焼のいけにえとしてささげるために、妻と相談しないで出て行きます。神はないものもあるように、あるものもないようにすることがおできになるので、イサクを全焼のいけにえとしてささげても、よみがえらせることもできると信じました。これがまさに、行ないのあるまことの信仰であり、全き信仰です。
このようにアブラハムの心は、神の言われるとおりに行なって、そのとおり信じて進んでいく心でした。アブラハムのように神を全面的に信じて頼り、神に働きかけられることのできる心が、まさに義人の心です。神の御前に従順の行ないができる心は正しい心であり、このような心を持った人を義人と言います。また、義人が行なうことがすなわち信仰であり、まことの信仰は必ず行ないとして現れます。
信仰の父アブラハムは「神の友」と呼ばれるほど、神がご覧になってうるわしい義になり、いつも信仰によって神に喜ばれました。私たちもアブラハムの信仰にならって、いつも義人として生きて、神に栄光を帰さなければなりません。


* まとめと適用

1. <創世記22:12>をみんなで読んでから、□の中に適当な単語を書いてください。
「今、わたしは、あなたが□を□れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分の□□□□さえ惜しまないでわたしにささげた。」

2. アブラハムがおいのロトとの問題、妻サラとハガルの問題を解決した方法を具体的に調べて、自分が学ぶべき姿は何か話し合ってみましょう。


* 今週の課題
「聞き従うことは、いけにえにまさる。」という聖句はどこにあるでしょうか? 探してきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!
「義人」とは?
私たちがイエス・キリストを受け入れて、すべての罪を悔い改めれば、賜物として聖霊を受けて、神の子どもとされる特権を得るようになる。このように、信仰によって罪の赦しを受けて、義と認められれば、義人と呼ばれる。しかし、まことの義人になるには、御霊によって霊を生みながら罪を捨てることはもちろん、悪はどんな悪でも避けて、罪の性質まで捨てなければならない。

 
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