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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第7課 「悪を憎み、善に親しみなさい」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2009-02-13


読むみことば: マタイ23:13-33
覚えるみことば: ローマ12:9
参考にするみことば: マタイ11:20-24


教育目標

苦しみと滅びに導く悪を憎み、善に親しまなければならない理由を知って、神の嫌われる悪の姿を徹底的に捨てる。

今日、親子の間や夫婦、兄弟、隣人の間にいろいろな悪の姿が発見できます。家族間で財産の問題で告訴するかと思えば、自分の利益のために裏切る場合もあります。これは多くの人の眉をひそめさせ、自分にとっても大きい苦しみになります。神は善であられるので、ご自身の子どもたちも善に親しむことを切に願われます。本当に私たちが神を愛したら、神が嫌われる悪を憎み、善に親しむ者にならなければなりません。


1. 苦しみと滅びに導く悪を憎みなさい

世では道徳的で良心的な人を「善良だ」と言いますが、道徳や良心も、神のみことばに照らしてみれば、善でなかったり、神のみこころと正反対であることもあります。善の絶対的な基準はただ神のみことばであり、これに外れたことはすべて悪です。
心に悪があれば、いつ、どんな姿で現れるかわかりません。たとえ小さい悪であっても、その悪が育てばサタンが働いて、自分でもどうしようもない罪の中に落ち込みます。悪は自分と相手にとって苦しみと痛みになるので、悪はどんな悪でも憎まなければなりません。悪を憎めば自然に遠ざけるようになり、考えることもないし、行なうこともないので、神は「悪を憎みなさい」と言われるのです。
私たちに病気が入って来たり、試練や患難がやって来るのは、心の悪が行ないとして現れる「肉の行ない」をするからです。心が治められなくて肉の行ないをするのは、神がご覧になって獣にすぎないので、神が怒られて、人の本分を取り戻すように懲らしめられるのです。しかし、心にある真理に逆らう思いや「肉的なこと」のためでは試練や患難はやって来ません。ただし、「肉的なこと」があれば、いつでも「肉の行ない」に発展する可能性があるので、これも必ず捨てなければなりません。


2. かたくなな心を捨てて善に親しむ者に

もし神の現されるしるしを見ても信じないならば、これはとても大きな悪です。<マタイ11:20-24>で、イエス様が奇蹟を最も多く行なわれたコラジンとベツサイダが悔い改めないので、「そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」と責められ、カペナウムに対しては「そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」と言われました。イエス様はここで目の見えない者の目が見えるようにされ、麦のパン五つと魚二匹で五千人を食べさせる、大きいしるしを現されました。イエス様を信頼できるほどの驚くべき神の力を見たのですから、その教えに従って悔い改めて悪を捨てるべきなのに、むしろ彼らは排斥しました。
それなのに、<マタイ12:38-39>で、律法学者とパリサイ人たちのうちのある者がイエス様に「しるしを見せていただきたい」と言います。イエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。」と言われます。たとえば、「神様を見せれば信じる」とか、「死んだ者を生かせば信じる」と言う人のように、純粋な心で信じようとするのではなく、どうすればけちをつけて排斥して、捕らえて殺そうかと思いめぐらしながら、信じようとしなかったのです。
今日も、神のしもべと働き人たちを用いて数多くの不思議としるしが現れるのを見ながらも、信じないでさばいて罪に定める人々がいます。彼らは自分の心に悪があることも悟れません。なぜなら、肉的なことを捨てないで、肉の行ないをたびたびするので、ますます心が鈍ってかたくなになるからです。結局、良心が鈍って、麻痺するのです。このような人は悟れないので、悔い改めることもできなくて、イエス様を受け入れることもできないのです。
したがって、神を愛するなら、悪を憎み、善に親しまなければなりません。何よりまず肉の行ないを断ち切って、その次は、心にある肉的なことを捨てなければなりません。このように罪と悪を捨てていくと、神と交わりを保ち、愛されるようになります(第一ヨハネ1:7、3:9)。このような人の顔には喜びと感謝があふれ、どんな病気もいやされて、家庭や職場、事業の場など、どんな問題でも解決されることができます。


3. 私たちが憎まなければならない悪

それでは、善に親しむ者になるために、具体的にどんな悪を憎まなければならないのか、<マタイ23:13-33>を中心に調べてみます。

1) 人々から天国をさえぎっている場合
私たちは、福音を聞いて真理を知り、神のみことばを守り行なうことによって天国に入ります。ところが、みことばを教える律法学者とパリサイ人たちは、外側ではみことばを守るふりをしましたが、心がかたくなで、神のみこころとは反対に行ないました。彼らは見えるところは敬虔であっても、中は不義と悪に満ちていたので、バプテスマのヨハネとイエス様がわからなくて、あらゆる策略を巡らして殺すことまでしました。今日も、律法学者とパリサイ人たちのように、神を信じていると言いながら後ろ指を指されるような人がいると、自分はもちろん、相手も救われないようにするのです。

2 )改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にする場合
ひどくいびられた嫁がいざ自分が姑になれば、もっとひどく嫁いびりをすると言います。自分も知らないうちに学んで、そのとおりまねをするのです。このように、誰に学ぶかということは非常に大切です。教える人の心がけと考え方、言葉と行ないが大いに影響を及ぼすからです。それで、律法学者やパリサイ人のような人に出会って信仰生活をすれば、盲人が盲人を手引きして、ふたりとも悪に落ち込むようになるのです。
たとえば、教会に来ていくらも経たないのに、導いた人の言葉と行ないのせいで出席しなくなったり、主イエス様を信じない場合があります。また、リーダーである働き人が模範にならなくて、教区や区域、セルグループのリバイバルを妨げる場合などがあります。

3) むさぼり、偽り、欲のために神のみこころを誤って伝える場合
神に何かを誓ったり、誓願を立てたことは当然守るように教えるべきなのに、自分のむさぼり、欲に従って教える人がいます。彼らが追い求めるのは御霊に属するものでなく、朽ちる肉です。たとえば、教会で教える人が霊的な意味をみことばをもって教えないで、献金だけを強調したら、その人は盲人の導き手です。どのようにすれば罪を悔い改めて、神の義を実現して、天国に入るのかを教えなければなりません。

4) 律法の中ではるかに重要なもの、すなわち、正義もあわれみも誠実もおろそかにしている場合
律法学者とパリサイ人がおろそかにした「正義、あわれみ、誠実」とは何を意味しているのでしょうか? 「正義」とは、罪を捨てて神のみことばのとおり行ない、信仰によって聞き従うことです。「あわれみ」とは、暮らしの中で人としてすべきことをすることです。人がどのように生きるかによって、獣にもおよばないことにもなり、法律なしに生きることもできます。「誠実」とは、ここでは信仰によって神のご性質にあずかる者となることです(第二ペテロ1:4)。悪を捨てて命令を完全に守ってこそ、神のご性質にあずかる者となることができます。
律法学者やパリサイ人たちは、正義もあわれみも誠実もおろそかにして、ささげ物だけを重要に思ったので、非難されました。神はささげ物よりも砕かれたたましい、すなわち、悔いた心を喜ばれます(詩篇51:16-17)。教える人はまず罪が何かを教えて、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにし、十分の一献金やその他のことを教えて、救いを達成するようにしなければなりません。

5) 外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいな場合
透明なクリスタルのグラスに何を入れるかによって、美しく輝くこともあり、醜くて汚れたものにもなります。神を信じると言いながら、心の中に憎しみ、そねみ、ねたみなどの悪がぎっしり満ちているなら、どうして聖なる神の子どもと言えるでしょうか。神は心を見られる方なので、みことばで自分を照らして、強奪と放縦など心の悪を捨てなければなりません。心がきよめられれば、外側の姿は自然にきよめられます。

6) 白く塗った墓のような場合
いくら派手に飾った墓でも、中は虫がうようよして、死体があるだけです。このように、心には汚れた悪がありながらも、外側は清くて美しいふりをする忌みきらうべき人を「白く塗った墓」と言います。つまり、心には憎しみ、そねみ、ねたみ、姦淫など多くの罪がありながら、善良で賢く、完全なふりをして、相手を諭して指摘する人々がいます。

7) 自分は相変わらず正しいと思う場合
偽善の律法学者とパリサイ人たちは「私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。」と言います。しかし、彼らは先祖より心が良くもなく、正しくもなかったのです。彼らがどれほど悪いか、救い主としてこの地上に来られたイエス様を十字架につけて殺し、真理を聞いて心に引っかかっても、相変わらず自分は正しいと思って、悔い改めなかったのです。
したがって、イエス様が律法学者とパリサイ人たちを責められた言葉に自分を照らして、引っかかることがあるならば、すみやかに捨てなければなりません。


* まとめと適用

1. <ローマ12:9>をみんなで覚えてみましょう。

2. 悪を憎んで善に親しむために、最も先にすべきことは何でしょうか?

3. 自分の中に、イエス様に責められた律法学者とパリサイ人たちのような姿はないでしょうか?


* 今週の課題
「いのちを与える義」とはどんな義でしょうか? 次回までに考えてきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!
「罪」と「悪」の違い
「罪」とは、心の悪が具体的な形として現れたもので、「悪」とは、心の中にある「罪の属性」のことである。だから、「悪」は目に見えない土の中にある根で、「罪」は目に見える幹と葉、実のようだと言える。根がなければ幹と葉と実がありえないように、悪によって罪が成り立つのである。

 
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