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メッセージ >
聖書の学び
Title
第1課 「心を一つに」
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2009-01-02
読むみことば: ヨシュア記1:6-9
覚えるみことば: ヘブル10:38
教育目標
すべての聖徒と働き人が一つになって神の国を大いに実現し、霊肉ともに豊かな祝福の実を刈り取る。
祝福の新年を迎えて、神が教会とひとりひとりに下さったビジョンを実現するためには、神と平和をつくって、自分と平和をつくるだけでなく、すべての人と平和をつくらなければなりません。モーセがヨシュアに託したように、強く、雄々しくあって、神の律法を守り行ない、これを離れて右にも左にもそれなければ、どこででも栄える祝福を受けることができます。人は誰でも家庭や学校、教会、職場、社会など、いろいろな共同体の中で一つの構成員として生きていきます。互いに心が一つになって平和をつくるなら、神に喜ばれて、あふれる祝福の道に導かれます。主にあって心が一つになって、豊かな実を結ぶには、具体的にどうしたらよいでしょうか?
1. 同じ目で望まなければなりません
1) すべてのことを信仰の目で望む
乳と蜜の流れるカナンの地を征服したイスラエルの民は、ヨルダン川を渡ってエリコ城を陥落させるとき、皆が一つになって信仰の目で望みました。ヨシュアが祭司たちに、あふれるヨルダン川の中に立ちなさいと言ったとき、彼らは死を恐れませんでした。急で激しい水の流れではなく、神のみわざを望んで足を踏み出しました。このように一つの心で、祭司たちの足の裏がヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられました(ヨシュア3章)。
神の働きを進めるとき、何人かが不信の目で見れば、全体的な士気に大きい影響を及ぼします。それで、鉄壁のようなエリコの町を回っているとき、イスラエルの民はみな沈黙を守りました。「敵軍が矢でも射たらそのままやられるだろうに、こんな危険な状況で町の周りを回ればどうするのか」と不平を言ったり、不満も持ちませんでした。ただ神を仰いで、一つの心で従いました。すると堅固な城壁がくずれ落ちました(ヨシュア6章)。
「信仰で望む」とは、現実や世の常識を知らずに、人がするべきことをしないで、天だけを仰ぐという意味ではありません。もし信仰がそんなものなら、神が十二人の斥候を遣わして、カナンの地を探らせるようになさる理由がありません。エリコを占領する時も、ヨシュアは斥候を遣わして、状況を偵察させました。現実は不可能でしたが、神が命じられたことなので、信じてそのみこころを求めていったのです。モーセが十二人の斥候をカナンの地に遣わしたとき、ヨシュアとカレブだけが信仰の目で望みました。残り十人の斥候は信仰の目で望むことができず、現実を見たので、不平を言うしかありませんでした。その結果、イスラエルの民もモーセとアロンに対してつぶやいて、神に対してつぶやき、40年の荒野の生活が始まりました(民数記13、14章)。神は荒野の生活を通して出エジプト第二世代の信仰が成長するようにされ、ヨシュアを中心に乳と蜜の流れるカナンの地に入れる祝福を下さいました。
このように神が備えられた祝福を受けるには、人が最善を尽くして、信仰の受け台を作らなければなりません。開拓以後、私たちの教会も、このように信仰の目で望んで行なってきました。神がなしてくださることだからといって、何もせずにいなかったのです。使徒パウロが「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」(第二コリント11:28)と告白したように、神の栄光を現すために務めに務めてきました。ヨルダン川があふれるように難しい現実に直面した時も、最後まで揺れないで、変わらない信仰の告白と行ないで、神のみこころを実現していきました。
2) 希望をもって新しいエルサレムを望む
私たちが神の働きをするのは、この地上で栄光を受けたり、ほめられたりするためではありません。もちろん、神は私たちが忠実に仕えるとき、この地上でも祝福してくださいますが、もし何の報いがなくても、将来受ける天国の報いを望んで、喜んで果たさなければなりません。
神は皆が全く聖なるものとされて、最も美しい天国の新しいエルサレムに入ってくることを願っておられます(黙示録21章、『天国』参照)。これは父なる神の最も大きな願いであり、本当の意味で主の血の恵みに報いることでもあります。<ヘブル10:38>に「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」とあります。先立つ何人かの働き人だけでなく、皆が新しいエルサレムを望んで、その希望をもって心を一つに集めなければなりません。
信仰は望んでいる事がらを保証します。新しいエルサレムを望んで努力していくとき、自分の心の器が変えられたことがわかります。ただの希望で終わるのではなく、実際に新しいエルサレムが心の中に臨むのです。
2. 心を善なるものに向けなければなりません
いくら同じ目的を持って働いても、互いに善を心にいだく時でこそ、本当に一つになれます。どれほど善で一つになったかによって、事が簡単に解決することもあり、そうでないこともあります。
イスラエルがカナンの地を征服したとき、互いに心が一つになったように見えましたが、そうでない人がいました。アカンは物質への欲をいだいて罪を犯し、結局、彼のためにイスラエルもアイを征服することができなかったのです(ヨシュア記7章)。
したがって、神の働きをする時は、ともに善を心にいだかなければなりません。ひとりひとりが善をいだいたのか、欲をいだいたのか、また、神の栄光のためなのか、自分の名誉を求めるためなのかによって、心が一つになることもあり、ばらばらになることもあるからです。
私たちが神の働きをするとき、神の国のために、教会と主のしもべを愛してすると言います。しかし、いくら熱い心でしても、心を善なるものに向けなければ、神に認められることができません。いつも譲歩と赦し、平和と仕え、犠牲と忍耐など、善の心を基にしなければならないのです。
たとえば、目上の人が熱心にある行事を進めているとき、目下の人は「教会の力になろうと思うから、私もできるだけ協力しなければならない」と思うでしょう。ところが、ある時は「この行事が成功しても、リードしている人たちだけが認められてほめられるのに、なぜ私はあえてつらい事をしなければならないのだろうか」と思ったことはなかったでしょうか? また、目上の人としては全体のために事を進めているのに、働き人たちの心があまり一つにならないとき、感謝と喜びをもって「私がもっと祈って、神様に頼らなければ」と思ったでしょうか? それとも、「教会と全体のためにしている事なのに、なぜこんなに気を遣ってくれないのだろうか」「当然、秩序にそって従うべきなのに、なぜ従ってくれないのか」と気を悪くして、相手に腹を立てたことはなかったでしょうか? 「働き人たちが自分に任された分野だけ考えて、自分の利益を求めるから、私を助けてくれる人がいなくて本当に大変だ。次は苦労しないで、それぞれ自分でやるように放っておこう」とふてくされなかったでしょうか?
秩序は守らなければなりませんが、秩序を主張する時も、相手の立場をもう一度思いやることが善なのです。また、もっと良い意見があって提案しましたが、他の働き人や目上の人がその意見を受け入れません。この時、いつも善を追い求めている人ならば、へりくだって全体の意見を受け入れるでしょう。自分の意見のほうが良くても、あるいは全体の意見のとおりすれば自分が犠牲になるとしても、従います。真理に逆らうことでなければ、決定された事項について、できるだけ心を一つにします。
このように神の働きを進めることにおいて、最も大切なのは善です。誰がもっと正しくて間違っているか、もっと実を結んでいるのか、あまり結んでいないかが重要なのではありません。神は私たちが互いに尊重して理解し、仕えて赦すことを願っておられます。このように、神に似せられた子どもたちが良い心で一つになって働くとき、その実は神が責任を負われるのです。聖霊の声を聞かせてくださって、できないことはできて、できることはもっとできるように導いてくださいます。神の働きは人の力でなされるものではなく、聖霊の力によってなされるのです。
したがって、新年はすべてのことを信仰と希望の目で望んで、善をいだいて心を一つにして神の国を大いに実現し、霊肉ともに豊かな祝福の実を結びますように。
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