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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第52課 小さいことに忠実な人  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2008-12-26


読むみことば: ルカ16:10
覚えるみことば: ルカ16:10

教育目標

小さいことに忠実な人になり、主に「よくやった」とほめられるだけでなく、最も美しい天国、新しいエルサレムに入る幸いな聖徒になるようにする。

[マタイ25章]を見ると、ある人が自分のしもべたちにおのおのその能力に応じてタラントを与えました。そのうちひとりは五タラントを預かった者は熱心に商売をし、五タラントもうけました。もうひとりは二タラントを預かって、二タラントもうけました。すると主人はふたりに「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言って、ほめました。このように、使命が大きくても小さくても、自分の出来る限り最善を尽くせば、神から「忠実な人」と認められます。それでは、使命を果たすことにおいて「小さいことに忠実な人」と認められるには、具体的にどうしたら良いでしょうか?


1. 神が下さった小さい使命一つでも尊く思わなければなりません

確かに、神を愛する人は小さい使命であってもおそろかにしません。愛する父なる神のためにできることなら、どんな使命でも尊いのです。地獄に行くしかなかった自分の魂を救ってくださったことだけでも感謝なのに、使命をよく果たした時は、天国で栄えある報いまでいただくようになさるのですから、どんなに感謝なことでしょうか。
ところが、ある人は、教会の中で今すべき任されたことはおろそかにしていながら、「もっと大きい使命をくれない」と不満をいだくこともあります。こういう人は神のために使命を受けようとするのではなく、自分のために受けようとする人です。神に栄光を帰すのでなく、自分が認めらたいと思って、人前で目立とうとして務めを願うのです。このような場合、忠実であること自体よりは認められてほめられることに価値を置いているので、良い実を結びにくいし、大きい事を任せることができません。[ルカ16:10]に「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」とあるとおり、小さい使命をよく果たす人でこそ、神も大きい使命を任すことがおできになるからです。
[創世記37-41章]を見れば、神がヨセフひとりを通してイスラエルの家が一つの民族に成長するまで、エジプトに入って住む道を開かれます。まずヨセフが強大国エジプトに入って、全国を治める統治者の座に上るようにされました。かといって、初めから幼いヨセフを統治者に立てられたのではありません。初めはエジプトのある侍従長の家に奴隷として入り、卑しいことから始めるようになさいました。徐々に主人の信望を得るようになると、全財産を管理する地位に立てて、次には王の監獄に入るようになさいました。その監獄は、一般の囚人でなく、高い地位の人々が王に罪を犯したとき収監される監獄で、ヨセフはそこでいろいろな人に出会いながら、国全体を治められるように広い見識と能力を育てることができました。このように13年を過ごして、全国を治める統治者になれました。
ヨセフは持って生まれた誠実さと神が下さったビジョンによって、そのすべての訓練の過程をよく通り抜けられました。もしヨセフが侍従長の家に奴隷として売られたとき、自分の務めをいい加減にしていたならば、彼は奴隷として一生を終えていたでしょう。しかし、ヨセフはいくら卑しいことでも主人の心をもって最善を尽くし、責任以上のことをやり遂げたので、主人から完全に信頼されることができました。ヨセフはもっと高い務めを任されるようになった後も、私心と自分を叫ぶ心がなかったし、「どうすれば主人に益になるだろうか」という心で、家の中を最善を尽くして顧みました。小さい事から大きい事まで忠実を尽くすヨセフだったので、結局、国全体を任されても立派に治められる力を持つようになったのです。


2. 悪はどんな悪でも避けなければなりません

私たちが使命を尊く思って、「どうすれば使命をよく果たせるだろうか」と心を配ってみると、自分の限界を感じてもどかしいことがよくあります。自分にゆだねられた聖徒が試練や患難にあうのを見れば、敵である悪魔・サタンを退けてあげたいし、信仰が持てない聖徒を見れば、霊の信仰を持つように助けたいのです。
しかし、いくら努めに努めても、自分の力だけではうまくいかないとき、大変もどかしいのです。神の国は人の力と知恵で実現されるのではありません。ただ神が与えてくださる知恵をいただいて強くされ、御霊に導かれて進まなければなりません。そうできない時は、熱心に最善を尽くして忠実であり、相手に仕えているようでも、思うように実が結べません。
肉的な愛を与えるからといって聖徒が力づけられるのでなく、聖霊に働きかけられて行なう時でこそ、彼らが新しい力を得て、恵みに満たされるのです。人間的な思いと方法で聖徒を訪問すれば人は変えられませんが、聖霊の声を聞いて訪問すれば、まるでかゆいところをかいてもらうように、正確に聖徒の問題を解決することができて、相手が恵みを受けて心の戸をあけることもできます。
ですから、自分の方法と力には限界があることを悟ると同時に、神の力を受けなければと切に望むようになるのです。こうなれば自然にへりくだった心になり、祈って断食しながら切にすがるようになります。
したがって、使命をよく果たすことは、すなわち、たましいに幸いを得ている祝福の道でもあります。私たちが使命のために神の力を受けることを求めて祈るなら、何より自分が聖められるべきだということを骨身に凍みるほど感じるようになります。聖められて、力を受けて、実を結ぼうという熱い望みがあれば、ただ真理を喜びながら、かんしゃくやわだかまり、自分の益を求める姿など、悪はどんな悪でも敏感に悟って、避けていけます。それで、きよい器を作っていくほど、より強められて、多くの実を結んで神に喜ばれながら、忠実な者と認められるようになるのです。


3. 主の愛の心をもって、牧者の心をもって魂を愛さなければなりません

使徒パウロは[ピリピ1:8]で「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。」と告白しました。イエス様が十字架のむごい苦しみにあいながら「彼らの罪を赦してください」と祈られたように、使徒パウロは主の愛の心を持って、ゆだねられた羊の群れに心を配りました。
ですから、魂の救いのためならば、飢えと渇き、寒さと暑さ、疲れることも意に介さず、荒波と高い山、荒野などのすべての危険も、ものともしませんでした。主の福音を伝えたために体験しなければならないすべて侮辱と、肉と骨がつぶれるようにむちで打たれる苦しみ、はなはだしきは死の脅威までも、いくらでも耐え忍べたのです。すべての犠牲は自分を愛して血を注ぎ出された主のためでしたが、同時に主が血の代価として買い取られた すべての魂のためでもありました。[ローマ9:3]に「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と告白するほどだったのです。
このように、与えられた使命を尊く思い、全うしようと祈りながら聖められるほど、魂のためにご自分のいのちも惜しまなかった主の愛の心が臨むようになります。また、魂への愛が育つほど、人生のすべてを魂のために渡す牧者の心を悟るようになります。牧者の心は、肉の親が遠い所にいる子どもをいつも心にいだいて、「息子は今何をしているだろうか?」「ちゃんと食べているだろうか?」と心配することよりもっと切なるものです。それで、使徒パウロが[第二コリント11:28]で「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」と言っているように、昼も夜も聖徒を心にいだいているのです。
したがって、聖徒を養う使命を任された働き人も、主の愛の心で聖徒をいだくと、熱心に聖徒を訪問するようになるだけでなく、いつでも彼らの状態を思い出して祈るようになります。ひょっとして、とげとげしい言葉で刺してぶつかってくる聖徒がいても、気を悪くしないのです。牧者の尊い聖徒なので、彼らがみな自分に割り当てられた尊い魂だと思って、愛するようになるだけです。赤ちゃんがかんしゃくを起こしても、お母さんは良いものを与えるように、顧みている聖徒が安らぐことなら条件をつけずに仕えて、相手の利益を求めるようになります。それだけでなく、「どうすればその人のたましいに幸いを得ているようにできるだろうか?」と、霊肉ともに犠牲になることをいといません。聖徒たちが罪を犯して、試練や患難にあう時は、自分がもっと悲しんで、主を呼び求めて祈るようになります。ゆだねられた聖徒の問題のためにいつも祈って、彼らの信仰が成長できるように求め、自分の子どもや家族以上に愛して仕えるのです。
このような愛をもって熱心に聖徒を顧みて仕えてみれば、彼らは真実を感じて感謝するようになります。子どもたちが成長して親になれば、まことの親の愛を悟って感謝するように、自分が魂を顧みる立場になってみると、牧者の心を感じて、さらに主にも、父なる神にも感謝するようになるのです。
主の愛の心と牧者の心をもって聖徒をいだいて愛すれば、必ず実を結ぶようになります。多くの聖徒をいだける大きい器になるので、神がさらに多くの聖徒を送ってくださり、リバイバルにリバイバルして、より大きい使命を任せられるようになるのです。したがって、主が来られる時まで変わらない姿で、小さいことに忠実な人になり、主にほめられるだけでなく、最も美しい天国、新しいエルサレムに入りますように。

 
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