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メッセージ >
聖書の学び
Title
第47課 神の願われる祈り
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2008-11-21
読むみことば: ルカ22:39-44
覚えるみことば: ルカ22:44
教育目標
イエス様の祈りの姿を通して、正しい祈りの姿と神の願われる祈りは何かを知って、求めることすべてに答えられる聖徒になる。
1. イエス様が見せてくださった祈りの姿
今回は、イエス様ご自身が模範を示してくださった祈りの姿を通して、正しい祈りの姿と神の喜ばれる祈りについて調べます。
1) いつものように祈りました
神はご自身の子どもたちに「絶えず祈りなさい。」(第一テサロニケ5:17)と神のみこころを知らせてくださり、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)と約束されました。したがって、当然、神にいつも祈り求めるべきなのに、多くの人が祈りたい気持ちになるとき、あるいは、解決されなければならない問題がある時になって、ようやく祈ります。
しかし、聖書を見れば、イエス様はいつものようにオリーブ山に行って祈られて(ルカ22:39)、預言者ダニエルはエルサレムに向かって日に三度祈り(ダニエル6:10)、ペテロとヨハネも時間を決めて祈りました(使徒3:1)。私たちもイエス様をみならって、時間を決めて、うまずたゆまず毎日祈る習慣を身につけなければなりません。
2) ひざまずいて祈りました
ひざまずけば心が引き締まり、相手に対して恐れる心を表現することなので、神に祈る者ならば、当然ひざまずいて祈らなければなりません。
神の御子であられるイエス様も、全知全能の神の御前にへりくだった姿でひざまずいて祈られて、ソロモン王も(第一列王8:54)、使徒パウロも(使徒20:36)、殉教者ステパノ執事も(使徒7:60)、ひざまずいて祈りました。
私たちが両親やこの世の権威ある人の前で何かを求める時も、もしかして失礼はないかと身を慎むのに、まして被造物として、創造主である神に求めるのだということを心に刻んだなら、どうして乱れた姿で祈れるでしょうか。
したがって、神の御前にひざまずくのは、神を恐れてその力を信頼するという心を表現することなので、祈る時は当然姿勢をきちんとして、へりくだってひざまずいて祈らなければなりません。
3) 神のみこころに合わせて祈りました
イエス様は「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と祈られました。[第一コリント10:31]にも「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」とあるように、ただ神のみこころに合わせて、神の栄光を現すために祈らなければなりません。
[ヤコブ4:2-3]に「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。祈りの答えがないとき、もしかして自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で祈っているのではないのか、調べてみなければなりません。
4) 苦しみもだえて祈られました
[ルカ22:44]には「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」と、イエス様が祈られた姿がよく現れています。イエス様が祈られたゲツセマネは、夜は気温が低くて汗が出ない気候なのにもかかわらず、どれほど苦しみもだえて、いよいよ切に呼んで祈られのか、「汗が血のしずくのように地に落ちた。」と書いてあります。
私たちは、イエス様がどれほど身と心と思いと力を尽くして切に祈られたかを心に糧として、まことに神の願われる祈りをささげて、何を求めようとも答えられて、神に栄光を帰さなければなりません。
2. 神の願われる祈り
1) 心を尽くして祈らなければなりません
[創世記32章]には、ヤコブがヤボク川を前にして、母の兄ラバンとの契約があるので後ろに退くこともできないし、彼を捕らえようと待っている兄エサウのために前に進むこともできない状況で、神に祈る場面があります。
このような切迫した状況にあったヤコブは、今まで自分を頼みとする高ぶりと自我を徹底的に砕いて、もものつがいがはずれるような切なる祈りをして、ついに答えられました。神の心を動かして、自分を捕らえに来た兄エサウと和解する奇蹟が起きたのです。
また、エリヤは火をもって祈りに答えられて、神に大いに栄光を帰しました。彼が地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめて、切なる心で祈ると、三年半のひどい日照りの後、大雨を降らせるように神が働かれました(第一列王18:41-45)。
このような切なる心の祈りでこそ、神の心を動かして直ちに答えられ、神に大きい栄光を帰すことができます。
2) 神を呼んで祈らなければなりません
[エレミヤ33:3]には「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」とあります。神を呼んで祈れば、自分の考えが断ち切れるので、雑念や疲れ、眠気が入らなくて、心を込めて祈れます。
エリヤはツァレファテのやもめの息子が死んだとき、主に祈って生き返らせ(第一列王17:17-24)、魚の腹の中に入ったヨナも、叫んで祈って生き返りました(ヨナ2:2)。イエス様も「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」と、神を呼び求めて祈りなさいと教えられました(ルカ18:1-8)。
このように、神を呼んで祈るのは神の命令です。汗を流して産物を得ることが神の法則なので、汗を流して神を呼んで祈れば、答えられるのです。
ある人は「求める前に求めることをご存じの神様なのに、うるさく呼び求めてはじめて与えてくださるのか?」 また、「聖書には『奥まった部屋にはいって戸をしめて、隠れた所におられる父に祈りなさい』とあるのに、なぜ声を出して祈らなければならないか?」と反問することがあります。しかしこれは、奥まった部屋に入って戸をしめると、外部と遮断されるように、私たちのすべての考えと雑念、世の憂いと心配も断ち切って、心を込めて祈りなさい、という意味です。
イエス様も、奥まった部屋に入って祈られたのではなく、山で祈りながら夜を明かされて(ルカ6:12)、預言者ダニエルは窓を開けて祈り(ダニエル6:10)、ペテロも屋上に上って祈りました(使徒10:9)。このように心を込めて主を呼んで祈れば、空中の権威を持つ敵である悪魔の陣を突き抜けて、祈りが天の御座に届き、それで聖霊に満たされて大小の問題が解決されるのです。
3) 信仰によって祈らなければなりません
私たちがイエス様を受け入れて心を開けば、聖霊を受けて、神の子どもとして証印を押されます。この時は、からし種ほどの小さい信仰です。徐々に主日を守り、祈っていきながらみことばのとおり行なおうと努めれば、信仰が育ちます。しかし、信仰の岩に立つ前までは、試練や患難がやって来たら、神の力を疑って気を落としたりします。しかし、信仰の岩の上に立てば、どんな環境にあっても倒れないで、信仰によって望んで祈るようになります。
このように祈りをますます積み上げると、天からの力を受けて強くされ、罪と戦って罪を捨てるので、主の姿に似せられていくようになります。主のみこころを明らかに知って、そのみこころに従って神に喜ばれる信仰になるので、求めるとおり答えられます。
信仰は大きく二つに分けられます。自分で持つ「肉の信仰」と、神が下さる「霊の信仰」です。自分で持つ信仰は行ないと一致しませんが、神が下さる信仰は必ず行ないが伴う、生きた信仰です。
私たちが信仰によってみことばに従い、行ないとして実践しながら祈っていけば、神は心に信じられる生きた信仰を下さいます。自分が持っている信仰を神に見せれば、神が与えてくださる霊の信仰によって、何でも直ちに答えられるようになります。
したがって「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。」(マルコ11:24)というみことばのように、心に確信が持てる時まで祈って、何でも信じて求めることは答えられて、神に栄光を帰されますように。
4) 愛の祈りをしなければなりません
「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)というみことばどおり、神を信じるので自分の祈りが答えられ、天国で報いになるということを信じたら、決して祈ることが疲れたり、難しく感じられたりするわけがありません。
イエス様がすべての人々を救うために切に祈られたように、私たちも魂を愛する心で求めると、切に祈ることができます。「愛する心で求める」とは、相手の心と立場になって、その人の問題を自分の問題のように感じて、切に求めることです。
たとえば、聖殿建築のために祈ったとしたら、自分の家を建てるような心で祈り、病人のために祈ったら、病人の立場になって、その人の苦しみが自分の苦しみであるように愛の心で切に祈るのです。
イエス様が見せられた祈りの姿と、神の願われる祈りに照らして、自分の祈る姿と心を顧みて、祈って求めるものは何でも答えられますように。
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