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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第44課 それぞれのしわざに応じて報いよう  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2008-10-31


読むみことば: 黙示録22:10-12
覚えるみことば: 黙示録22:12

教育目標

それぞれのしわざに応じて報いてくださる神を信じて、救いの確信を持ち、物質の祝福、天国の報いが受けられる聖徒になる。


1. 救いの確信はどのように得られるのか?

教会に通っていると言いながらも、救いの確信がない人がいるかと思えば、救われない人なのに、救われたと勘違いしている人もいます。公義の神は必ずしわざに応じて報いてくださるので、私たちが確かに救われる道を知って行なってこそ、救われることができます。それでは、救いの確信はどのように得られるのでしょうか?

1) 心に信じられる信仰がなければなりません。
[ローマ10:9-10]に「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。
イエス様が全人類の罪を贖ってくださるために、人となってこの地上に来られた神の御子であることを認め、十字架につけられて死なれたが、死の力に打ち勝ってよみがえられたことを心に信じなければなりません。イエス様の復活が心に信じられてこそ、再臨も信じられて(使徒1:11)、天国も信じられて(ヨハネ14:1-3)、救いの確信を持つようになります。
心に信じられる信仰は、神のみことばを聞いて知ることでよいのではなく、ただ神のみこころのとおり行なうとき、神が上から与えてくださいます。このような信仰があってこそ、全き救いに至ることができます。

2) 行ないのある信仰がなければなりません。
信仰は行ないによって全うされ(ヤコブ2:22)、行ないのない信仰は、死んだ信仰なのです(ヤコブ2:26)。心に信じられる信仰があれば、口で告白するようになります。また、神のみことばを聞いて悟ったほど、みことばどおり生きていく行ないが伴うからです。このように行ないのある信仰を見せたほど、神は救いの確信を下さり、聖霊によって心に証印を押してくださいます。
したがって、心に割礼を受けて、行ないのある信仰によって義と認められてこそ救われるのです。形式的に礼拝に参加して、教会に忠実であるからといって、救われるのではありません。救われない人が自分で救いの確信を持ったからといって、救われるのでもありません。
[ヘブル6:4-6]に「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」とあります。つまり、死に至る罪を犯して堕落した人は、自分が救われると思っても、救われないのです。
したがって、救いの確信がある人は、行ないのある信仰をもって罪と血を流すまで戦って捨て、義と認められて全き救いに至らなければなりません。また、まだ救いの確信がない人は、熱心に祈って、神のみことばのとおり行なっていけば、心に信じられる信仰が与えられ、救いの確信を得ることができます。


2. 物質の祝福はどのように得られるのか?

神はしわざに応じて報いて下さる方なので、神の霊的な主権を認めて主日を守る人には、霊的な祝福を下さいます。また、神の物質的な主権を認めて十分の一献金をささげる人には、物質の祝福を下さいます。
したがって、物質の祝福を受けたいなら、完全な十分の一献金をささげて、物質で蒔かなければなりません。十分の一献金は神が命じられたものです。[マタイ23:23]には「正義もあわれみも誠実もおろそかにしないで、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めなさい。」とあります。[マラキ3:9-10]では、十分の一献金をささげないのは、神様のものを盗んでいることだと言われ、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」と勧められました。
私たちは蒔かないところから刈り取ることができないので、神は物質の祝福を与えるために十分の一献金をささげるようになさったのです。このような神が信じられない人は、十分の一献金をささげればむしろ物質が減ると思いますが、実はそうではありません。
神は天地万物とすべての人の子らの生死禍福をつかさどる全知全能の方なので、十分の一献金をささげた聖徒に祝福を下さいます。そして、一粒の麦が地に落ちて豊かな実を結ぶように、家庭と職場、事業の場に物質の祝福が臨むようにして、試練や患難を防いで、物質が浪費されないように守ってくださいます。
また、神は十分の一献金だけでなく、感謝のささげ物や例祭のささげ物も喜んで受けられて、あふれるばかりの祝福を下さいます(第二コリント9:6-8、ガラテヤ6:7-9)。[第一列王17:8-16]に出て来るツァレファテのやもめは、長い間の日照りで食べるものがないとき、最後に残った一握りの粉と 少しの油を預言者エリヤを養って、主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない祝福を受けました。預言者を養ったことにもこのように驚くべき祝福で報いてくださった神が、どうして行なったとおり報いてくださらないでしょうか。また、三十倍、六十倍、百倍に刈り取るようになさらないでしょうか。
したがって、まことに信仰があるならば、完全な十分の一献金と奉納物をささげることはもちろん、さまざまなささげ物を熱心に蒔きます。それで、思う存分物質の祝福が受けられるのです。


3. 天国の報いはどのように与えられるのか?

神を信じる聖徒の行ないは、信仰によってそれぞれ違います。しわざに応じて報いて下さる神は、どれほど神に栄光をささげたかによって、天国で報いてくださいます。
私たちがこの地上で賞を受ければ、それほど認められたという証拠になります。すると、自分にとって光栄なことであるだけでなく、人々の応対が変わってきます。まして善と義と愛だけがある天国で、父なる神が下さる報いを受けたら、どれほど輝いて尊いことでしょうか。しかも、聖められて神に栄光を帰して新しいエルサレムに入ったら、この上ない栄光になります。したがって、救いの確信を持って、熱心に罪と戦って捨てて聖められ、天国に報いをたくさん積んで、神に思いきり栄光をささげられますように。
私たちが天国で最も大きい報いを受ける方法は、魂を救うことです。熱心に伝道して福音を伝え、神に力の限り感謝のささげ物や建築献金をささげて、神の国を実現して聖殿を建築すること、また、神を見つけて変えられた証しをして、聖なる行ないでキリストの香りを放って隣人からほめられれば、神に栄光をささげることになり、魂を救うようになります。
それで、使徒パウロは結婚もしないで、日夜神の働きをして、死に至るまで忠実でした。預言者モーセも、エジプトの王子という地位を捨てて、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました(ヘブル11:24-25)。彼らはしわざに応じて報いてくださる神を信じるまことの信仰があったので、ただ天国を望んで忠実でありました。
イエス様も、神の御子でしたが、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました(ヘブル12:2)。ですから、私たちも天国を望んで、心と思いと力と最善を尽くして忠実であり、また献身して、父なる神から報いをたくさん受けなければなりません。
ある人は「魂の救いが天国で最も大きい報いならば、主のしもべは完全に魂の救いのために力を尽くして働けるから、報いが本当に多いだろう」と思うかもしれません。しかし、主のしもべは教会で神から給料をもらうので、それだけでは報いになりません。
主のしもべにとって報いになるのは、任された以上に犠牲になって仕え、多くの働きをして、羊の群れをよく顧みて、教会を大いにリバイバルさせた時です。つまり、神の力を受けて、あふれるばかりに行なってこそ報いになるのです。同じ内容の説教でもその力が違います。ですから、主のしもべは火のような祈りによって力を受けるべきであり、その力をもって働くとき、多くの報いが受けられます。
聖徒も同じです。当然するべきことをみなしたからといって、天国で報いを受けるのではありません。救われた神の子どもとして神に礼拝して、十分の一献金をささげることは基本的にすべきことなので、報いになりません。
聖徒としてすべきことの他に、教師や部長、聖歌隊、セルグループのリーダー、案内委員、献金委員などで忠実に働くことが報いになります。世で熱心に集めた物質で、当然ささげなければならない十分の一献金、感謝のささげ物のほかに、神の国のために力の限りささげるとき、報いになるのです。また、伝道して、教会と主のしもべに仕えて、各分野で献身することも同じです。たとえ誰も認めてくれないし、目に見えないことであっても、喜んで忠実に働く時に天国の報いになるし、神の栄光を現すことになります。
このように、神はしわざに応じて報いてくださるすばらしいお方です。ですから、みことばを守り行なって救いに至るだけでなく、伝道して魂を救い、教会でも忠実に奉仕して、天国に報いをたくさん積まれますように。

 
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