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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第43課 天の御国は激しく攻められています  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2008-10-24


読むみことば: マタイ13:31-32、第一ヨハネ2:12-14
覚えるみことば: マタイ11:12

教育目標

父の信仰を持って、最もすばらしい天国、新しいエルサレムを激しく攻める聖徒になる。


1. からし種のたとえ

[マタイ13章]には、天国についての多くのたとえがあります。そのうちにからし種のたとえがあります。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」と記されています。イエス様は目で見られない霊の世界について教えるために、多くのたとえで語られました。からし種のたとえでは、天国について教えてくださったのです。
からし種はやっとボールペンで点をつけたぐらいの、非常に小さい種です。初めて主を受け入れて聖霊を受けた人々の信仰を「からし種ほどの信仰」と表現します。ところが、種を蒔かないでそのまま置いておけば、枯れて生命力を失うので、種を蒔いて芽が出るように育てなければなりません。霊的に説明すれば、聖霊を受けた神の子どもたちは、心を一つにして集まり、霊とまことによって礼拝をささげ、真理のみことばを糧として、祈って賛美しなければならないのです。
種を蒔いて芽が出れば、木に生長していく過程を踏まなければなりません。これはつまり、神のみことばを糧にして、火のように祈って、世を求めずに完全にみことばを守り行なって、揺るがない信仰を持っていくことです。そうして大きい木になれば、陰ができ、空の鳥が来て休み、巣を作って宿るようになります。これは、みことばを守り行なってイエス・キリストに似せられ、また、熱心に使命を果たして、祈って大きい信仰を持つと、多くの人がやって来て、恵みに満たされることを言っています。
このように信仰は成長するものなので、[マタイ17:20]に「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」とあるのです。つまり、からし種ほどの信仰であっても、芽が出て育って大きい信仰になれば、山に命じて「移れ」と言っても移るほど、できないことがないことを言われたのです。
もしヨシュアがからし種ほどの信仰を持っていたら、はたしてエリコ城を落とせたでしょうか? ヨシュアも初めはからし種ほどの信仰でしたが、40年間モーセと一緒にいながら、モーセの信仰を見て、また、直接神のみわざを体験する過程があったので、大きい信仰に成長できました。それで、神のことばに聞き従ってエリコ城を回ったので、エリコ城が崩れたのです。それだけでなく、日と月に「動くな」と命じたとき、日と月が動かなかったのですから(ヨシュア10:12-13)、どれほど大きい信仰でしょうか。このように、木が生長するように信仰にも成長過程があることを悟って、大きい信仰を持つために努めなければなりません。


2. 天の御国は激しく攻められています

旧約時代は神のみことばである律法の行ないによって救われましたが、バプテスマのヨハネがこの地上に来て、イエス様について証言した後からは、信仰によって救われる恵みの時代になりました。したがって、バプテスマのヨハネの時から主が再び来られる時まで、天の御国は信仰によって持つのであり、激しく攻める人だけが入れるようになったのです。
それでは、天の御国はなぜ激しく攻められているのでしょうか? 天の御国は神が公義によって治められる国だからです。神様は天の御国を信仰によって持つようになさいますが、この地上での行ないに応じて報いてくださいます。すなわち、この地上でどれほどみことばどおり行なって、使命をよく果たしたかによって、天国の場所が変わるということです。
たとえば、やっと救われるような信仰を持っただけの行ないのない人と、この上なく神を愛して、神に喜ばれた人とははっきり報いが違うので、天国の場所も変わるのです。これは、同じ国であっても、首都と地方が違って、郡と町が違うように、天国でも確かに場所の差があるということです。
それで、聖書を詳しく見れば、イエス様が十字架につけられたとき、ひとりの強盗が死の直前にイエス・キリストを救い主として受け入れて入ったパラダイス(ルカ23:43)だけでなく、新しいエルサレム(黙示録21章)など、とどまる場所がたくさんあるのです。そのうち、神の御座のある新しいエルサレムは、長さも幅も高さも一万二千スタディオンの都であり、みことばどおり生きて、与えられた使命を完全に果たし、全家を通じて忠実な聖徒だけが入れます。
もちろん、天国はいくら端でもこの地上とは比べられないし、美しくて幸せなところです。しかし、神の御座のある新しいエルサレムに近いほど、その美しさと幸せが大きくなります。このように信仰の量りに応じてそれぞれ違う天国を持つようになるので、よりすばらしい場所を得るためには、激しく攻めて入る人にならなければならないのです。それで、「激しく攻める人が奪い取る」と記してあるのです。


3. どのように天の御国を激しく攻めるのか

それでは、天の御国を激しく攻めるためには、具体的にどうしなければならないでしょうか?

1) 従順でなければなりません
[ピリピ2:12]に「いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」とあるように、救いは自然に達成されるのではありません。種を土の中に植えなければ、すぐ枯れるか、鳥が飛んで来て食べてしまうように、みことばどおり行なわないで何もしないでいたら、敵である悪魔・サタンにからし種ほどの信仰さえも奪われるようになるからです。
したがって、真理であるみことばを純金よりも好ましく、蜜より甘く思い(詩篇19:10)、いつも従順であって、完全に真理にとどまってこそ、行ないのある信仰になって、全き救いに至ることができるのです。

2) 神のすべての武具を身に着けなければなりません
私たちが主にあって強められ、悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなければなりません。すなわち、私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものなので、神のすべての武具を身に着けなければなりません。
そのためには腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取り、それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消さなければなりません。また、救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取って、すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈り、そのためには絶えず目をさましていなければなりません(エペソ6:10-18)。私たちがどれほど神の武具を身に着けて、信仰によって戦って勝ったかによって、心が聖められることと信仰の量りが違ってくるので、天国で住む場所も変わるのです。

3) 愛がなければなりません
信仰があってこそ天国に行けて、希望があってこそ天国を望んで真理にとどまることができます。また、愛があってこそ聖められて、全家を通じて忠実な者になれて、新しいエルサレムに入れる資格を得るようになります。神は愛ですから(第一ヨハネ4:8)、愛がなければ新しいエルサレムに決して入ることができないのです。いつまでも残るものは信仰と希望と愛であり、その中で一番すぐれているのは愛なので(第一コリント13:13)、愛を追い求め、天の御国を激しく攻めて行きますように。天国は、愛を心に耕した程度によって、場所も変わるのです。


4. 信仰の量りに応じて与えられる天国の場所

天の御国を激しく攻めて行けば、信仰の量りに応じて与えられる場所が変わります。天国には、神の御座のある新しいエルサレムだけでなく、救われた強盗が入るパラダイスもあるので、大きく五つに分けて説明します。

1) 子どもの信仰
[第一ヨハネ2:12]に「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」とあります。イエス・キリストを受け入れて、すべての罪が赦され、聖霊を受けて神の子どもになれば、天のいのちの書に名が記されます。この時はからし種ほどの信仰であって、パラダイスに入る資格が与えられます。

2) 小さい者の信仰
[第一ヨハネ2:14]に「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」とあります。イエス・キリストを受け入れて神の子どもになった後は、子が育って親を知るように、神を知って神を御父と呼べるようになります。このような段階の信仰は、種からやっと芽が出た状態の信仰です。したがって「小さい者たち」とは、霊的には乳を飲む信者を意味し、彼らは一天層に入る資格を得ます。

3) 若い者の信仰
[第一ヨハネ2:13]に「若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。信仰が成長して御父の心がわかるので、世を見つめないで神のことばどおり生きていこうと、悪い者に打ち勝って真理にとどまる信仰の段階です。「若い者たち」とは、霊的には、堅い食物を食べる信者を示し、彼らには二天層に入る資格が与えられます。

4) 父の信仰
[第一ヨハネ2:14]に「父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」とあります。彼らは信仰が成長したので、御父について知り、その初めを知っている段階です。それで、聖書を読めばそのとおり悟れて、御霊に感じて悟れる段階の信仰です。彼らは大きい木に生長した聖められた聖徒であって、三天層に入る資格が与えられます。さらに全家を通じて忠実であり、使命をよく果たした人には、新しいエルサレムに入る資格が与えられます。

イエス様の一番弟子ペテロも、聖霊を受ける前はイエス様を三度も否認しました。他の弟子たちもイエス様が捕えられると怖くて逃げましたが、聖霊を受けてからし種ほどの信仰が成長して大きい信仰になると、イエス・キリストから受けた恵みの福音を伝えるために、いのちも惜しまないで殉教する人々になりました。
したがって、私たちが全き救いに至るためには、どんな信仰生活をしなければならないかを明らかに悟って、熱心に天の御国を激しく攻めて、神の御座のある新しいエルサレムに入らなければなりません。

 
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