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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第13課「主の道を備えたバプテスマのヨハネ」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2016-03-10


読むみことば: ヨハネ3:28_30
覚えるみことば: ルカ3:16
参考にするみことば: ルカ1:13_17
教育目標: 自分の本分を変わらず守り行って、終わりの時、主の道を完全に備える道具になるようにする。

エリヤは非常にへりくだっていたので、自分の義がなくて、誰ともぶつかりませんでした。行いと真実をもって神を愛したので、とうてい従えないことにも従いました。すべての使命を完全に果たした後はたつまきに乗って天へ上って行きました。主への愛が火の燃えるようで、彼は再びこの地上に降りて来て、バプテスマのヨハネとして主の道を備え、結局は殉教します。
それでは、主の道を備えたバプテスマのヨハネの善は果たして何でしょうか。

1. 自分の本分を変わらず守る心

祭司ザカリヤと彼の妻エリサベツは年をとっていましたが、子がありませんでした。ある日、御使いのかしらガブリエルがザカリヤに現れて、将来男の子を持つようになることを知らせます。「あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。……彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(ルカ1:13~17)
その後エリサベツがみごもって男の子を産みましたが、彼がまさにバプテスマのヨハネです。<ルカ1:80>に「幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」とあります。バプテスマのヨハネが「荒野にいた」ということは、世と区別された生き方をしたということを意味します。それとともにいつも神と霊的に交わって、世に公に出現する時を正確に働きかけられました。
それでは、バプテスマのヨハネは自分がエリヤだと知っていたでしょうか。<ヨハネ1:21>でユダヤ人たちが「あなたはエリヤですか。」と聞いたとき、「そうではありません。」と答えたことを見ると、自分がエリヤだとは知りませんでした。彼はエリヤの心が入れられた霊は受けましたが、親の気質によって遮られていたからです。
イエス様は聖霊によって宿られて親の気質を全く受け継がれなかったので、幼い時からご自分が誰なのか、なぜこの地上に来たのかよくご存じでした。これはイエス様が十二歳の時にあったことを通してもわかります。
過越の祭りを迎えて、マリヤとヨセフはまだ幼いイエス様とともにエルサレムの宮で祭りの期間を過ごしてから、帰路についていました。ところが、一日の道のりを行ってはじめて、一行の中にイエス様がいないということに気づいてびっくりします。道を引き返して宮に来てみると、イエス様は話をしておられました。マリヤがこれまで心配してイエス様を捜し回っていたと言うと、イエス様はかえって「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)と答えられます。
幼い時からご自身についてよく知っておられたイエス様と違って、バプテスマのヨハネは自分が誰なのか正確に知りませんでした。しかし、彼の霊の中にエリヤの心が入れられていたので、ぼんやりではあっても自分がどんな生き方をしなければならないのか働きかけられることができました。自分から世と区別されて自制する生き方をして、いつも神と交わりながら自分の使命について悟っていきました。自分が主の道を備るべきことと、何を叫ばなければならないのかを働きかけられて、世に公に出現する時を待ちました。
ついに時になると、バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と叫びました。するとエルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、彼からバプテスマを受けました(マタ3:5_6)。
このようなバプテスマのヨハネを見て、民の中にある人たちはもしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていました(ルカ3:15)。この時、バプテスマのヨハネは「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と告白しました(ルカ3:16)。
彼は自分の本分は主の道を備える使命であることを明確に知っていたので、それ以上の線を越えませんでした。いつも「私よりもさらに力のある方がおいでになります。」と伝えるので、人々が将来おいでになる方を慕う心がどれほど加わったでしょうか。人々にはバプテスマのヨハネも神の大預言者なのに、「私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」と言うので、「果たしてその方はどんな方だろうか」と大いに期待するようになりました。「バプテスマのヨハネがその方のくつのひもを解く値うちもないと、自分を徹底的に低くして証言するその方は、どれほど高い方だろうか」と思うようにしたのです。
このような状況でイエス様が働きを始められると、バプテスマのヨハネについていた多くの人がイエス様のほうへ行きました。すると、ヨハネの弟子たちが「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」と言います(ヨハ3:26)。
それでは、バプテスマのヨハネは「もう私の時代は終わったんだなあ」と悲しんだでしょうか。違います。むしろ弟子たちに「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。……あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と言いました(ヨハ3:28_30)。主の道を備える者の本分を再確認して、イエス様の現れを心から喜びました。このように真理を喜ぶ彼の姿から、イエス様に対する愛がどうなのか感じることができます。
このようなバプテスマのヨハネの心は殉教するまで変わりませんでした。神は、彼が主の道を備える者として自分の本分を変わらず守ったことを喜ばれて、これを善と認められました。

2. へりくだって自分を低くして、ただ主の栄光を求める心

主が再び来られる日がはなはだ近い終わりの時に生きている私たちにも、主の道を備える使命があります。主の道を備えたバプテスマのヨハネのように、私たちもさらに多くの人々がイエス・キリストを信じて、再臨の主をともに迎えられるように努めなければなりません。務めを受けた者ならば、自分に任された使命を忠実に果たすことがまさに主の道を備えることです。
仮に務めがなくても、誰にでも伝道の使命があって、ひとりひとりがいる所で光と塩になる使命があります。どんな使命を任されたとしても、バプテスマのヨハネのように変わらず自分の本分を守れば、主の道をよく備えた働き人だと認められます。ひょっとして自分の本分をよく守っていないなら、自分で心が高くなってはいないのか省みますように。
先に説明したとおり、バプテスマのヨハネはイエス様について伝えながら「私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」とへりくだって自分を低くして、主の栄光だけを求めました。
私たちがバプテスマのヨハネのように尊い働きに用いられるには、私心がなく、へりくだって自分を低くして、主だけを高くしなければなりません。神に栄光を帰すと言いながら、それとなく自分も栄光を受けようとする私心があってはなりません。
また、主の働きをしている同労者が自分より大いに栄光を帰せるならば、心から喜びと感謝をもって自分の既得権まで渡せなければなりません。心の芯から神を愛する人は「自分がどれほど多く働くのか」より「どうすれば神の栄光をさらに大いに現そうか」を重要だと思います。これが、自分はなくて、ただ主の栄光だけを求める人の心です。
このような人は自分の地位にこだわるより、神の国のために自分よりすぐれた人がかしらに立てられることを願うだけです。これは主の働きに対する熱心がないとか、後ろに退くこととは次元が違います。仮に自分より劣っている人がかしらに立てられたとしても、その人が使命をよく果たせるように、自分を現さないで助けられる心なのです。他の人が愛されてほめられても、そねんだり気を悪くしないで、ともに喜んでうれしく思います。
本当に再臨の主を慕って待っているなら、エリヤのように自分を完全に無にして、自分の本分を変わらず守り行えるのです。そうしてバプテスマのヨハネのように主の道を完全に備える道具として出て来ますように。


* まとめと適用
1. 神はバプテスマのヨハネのどんなところを喜ばれて、善だと認めてくださったのでしょうか。

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2. ( )の中に合う言葉を入れてください。
バプテスマのヨハネはイエス様を伝えながら「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」とへりくだって自分を低くして主の栄光だけを求めた。私たちがバプテスマのヨハネのように尊い働きに用いられるには、( )がなく、へりくだって自分を低くして( )だけを高くしなければならない。


* 今週の課題
次回はマグダラのマリヤについて学びます。イエス様に出会う前と後では、マグダラのマリヤの人生はどう違ったでしょうか。<ルカ7:36_50>と<ルカ:8:2>を読んで来ましょう。


* 知って力にしましょう
「ザカリヤ」とは誰か
バプテスマのヨハネの父であって、ヘロデ王の時のアビヤの組の祭司である(ルカ1:5)。彼の妻エリサベツはおとめマリヤと親戚だ。この夫婦は神の律法を正しく守る、心の良い人たちだった。ザカリヤが、自分の組が当番で祭司の務めをしていたとき、御使いガブリエルから妻エリサベツが男の子を産むことと、彼はすぐれた者となり、多くの子らを主に立ち返らせることを聞く。しかし、ザカリヤは御使いの言葉を信じなかったので、口がきけなくなって、男の子が生まれて割礼を受けるまでものが言えなかった。後に御使いの言ったとおり幼子にヨハネという名をつけたとき、舌が解けた。

 
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