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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第6課「最高の善と愛を備えた使徒パウロ」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2016-01-21


読むみことば: ローマ9:1_3
覚えるみことば: 第二コリント12:1
参考にするみことば: 第二コリント11:28_29
教育目標: 神が喜ばれる最高の善を備えた使徒パウロの心と行いを見習って、神の御前に尊く用いられる聖徒になるようにする。

使徒パウロは主に出会う前、絶えず探求する性格で、答えを得る時まで執拗に探り窮めながら悩みました。これによって自我が固く形成されました。豪放な気性もありましたが、いつも計算とはかりごとが先立ちました。
ところが、主に出会って自分が正しいと思っていたことがまことではないと悟ると、これを一気に打ち砕いてしまいました。主に出会って変えられた後は、ただイエス・キリストを知っていることをすばらしいと思って、一度受けた主の恵みに対する感謝がどんな状況でも変わりませんでした。むごい苦しみといのちの脅威を受けるとしても、むしろ主に感謝する心の香をさらに濃くささげました。

1. 自分のいのちまで渡せる愛を備えた使徒パウロ

主を愛していれば、日が経つほど、主のように魂を愛するようになります。使徒パウロは主の心で魂を愛し、自分を迫害する者たちのためにも、いのちを渡せる愛がありました。イエス様がこの地上に来て十字架を負われた理由が、罪人になった人類を救うためであると心の奥から悟ったからです。
イエス様はご自身を十字架につける人々のために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られました(ルカ23:34)。また、「わたしは渇く」と言われて、魂の救いへの切実な心を訴えられました(ヨハ19:28)。ですから、まことに主を愛していれば、罪によって死に向かっていく人々を憐れみと愛の目で見るしかありません。
使徒パウロは魂への愛がどれほど大きかったのか、<ピリピ1:8>で「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。」と告白しているほどです。彼は福音を伝えながらひどい迫害と患難にあう時も、自分についての心配と憂いではなく、ただ教会と聖徒たちに心を遣って、彼らのために祈りました。
<第二コリント11:28_29>に「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」と、その心がよく記されています。そして、聖徒たちが神のみこころに逆らえば、「私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」と悲しんだのです(ピリ3:18)。また、いくつかの地域の教会を回りながら、何としてでも聖徒たちが真理の中を歩むように、夜も昼も、涙とともに訓戒し続けました。このすべては主の血で代価を払った魂をあまりにも愛していたからでした。
使徒パウロの愛は福音を受け入れた聖徒たちに限られたのではなく、福音を排斥して迫害する人々に対しても同じでした。それで、使徒パウロはいつも負債を負っている人の心で、どうすれば福音を排斥して迫害する人々も救いに導けるだろうかと考えたのです。
このような使徒パウロの心情が<ローマ9:1_3>によく記されています。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」とあります。
ここで「私の同胞、肉による同国人」とは、使徒パウロの肉的な一家親戚を示しているのではありません。ユダヤ人たちとパリサイ人たち、すなわち、パウロを迫害して妨げた人々を示しているのです。ユダヤ人の中にはパウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った者たちもいました(使23:12~13)。それでも、パウロは自分が救われられなくても、彼らが救われることを切に願いました。
このようにパウロは自分を迫害して妨げる人々のために、いのちまで渡せる最高の善を備えました。彼は心から「この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と告白しました。誰よりも地獄の残酷さについてよく知っている彼が、魂が救われることさえできれば、自分が代わりに地獄に行くことを願うと言っています。これを通して、魂への彼の愛がどれほど大きいのかわかります。

2. すべての栄光を主に帰す心を持っていた使徒パウロ

使徒パウロは大きい神の力と深い啓示を受けても、すべての栄光を完全に主に帰しました。このように良い心を持っていたので、神は使徒パウロの信仰を認められて、大きい神の力を与えて祝福されたのです。彼は生まれつき足のなえた人を歩くようにするかと思えば、まむしにかまれても何の害を受けませんでした。また、パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行く驚くべき奇蹟が現れました。
このような神の力を行いながらも、彼は決して自分を現したり高くしたりしませんでした。<第一コリント15:10>に「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」とへりくだって告白します。
このようにへりくだった心を持っていたパウロは、毎日が死の連続である生き方を通して聖められました。それだけでなく、神と明らかに交わって、天の霊的なことを体験しました。天国のパラダイスを見たし、霊的な深い啓示を受けて神と主と聖霊様、そして天国について明らかに知るようになりました。
しかし、自分が霊的なことを体験して聖霊に満たされているからといって、自慢しようとしませんでした。深い霊的なみことばを心に秘めておいて、恵みを受けるにふさわしい人には主をさらに愛せるように聞かせてあげて、理解できない人々には伝えませんでした。
心に悪があれば、ある霊的なことが悟られたり、幻を見て秘密なみことばを聞いたりすれば、自分を現そうとします。「私はこのように神様に愛されている人だ。特別な人だ」と自慢するのです。
しかし、心の良い人は祈っているうちあることを悟ったら、それを心に秘めて「なぜこのような霊的な奥義を知らせてくださったのだろうか」と自分に適用します。霊の目が開かれて何かを見ても、神に感謝して、さらに霊的に成長しようとします。深くて奥義である霊的なみことばを聞けば、そのみことばを持って何としてでも自分が変えられようと努力します。
使徒パウロは「私は神様に愛されていて、このように深い啓示を受けて、神様と深く交わっている」と言いませんでした。良い心の土台の上に、寛容と自制の実が結ばれていたからです。受けられない人には話さなかったし、いくらでも言えることも、ひょっとしてつまずく人がいるのではないかと思って自制しました。天国について知らせて、聖徒たちに希望を与えようと思うだけで、自分を自慢する心は少しもありませんでした。また、彼は聖霊に対する心が格別でした。いろいろな賜物と恵みは自分が祈って得たのではなく、ただわがうちにおられる聖霊の働きによるものだと、いつも心から認めました。
ひょっとして皆さんは「私が祈ってみたら聖霊がこのように言われた。」と簡単に言ってはいないでしょうか。もちろん、聖霊の声を聞いて、働きかけられて、導かれるのは神の子どもとして当然のことです。しかし、まるで自分だけが特別であるかのように、自分を現そうとする心で行動しなかったのか、振り返ってみますように。
心が良い人は神の栄光を横取りしません。決して自分の力ではないと心から認めるので、完全に神にだけ栄光を帰します。使徒パウロも、自分の義を徹底的に打ち砕いた後は、いくら大きい驚くべきわざを行っても、いつも心から「私は何もできませんが、神の力によってできました」と告白しました。ですから、神の力を行うほど、自分はさらに低くなって、神の栄光は大きくなる一方でした。
神はこのように良い心の人を見つけて、賜物も与えられ、神の力も授けて大いに用いられます。<第一コリント11:1>で「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」と言った使徒パウロの告白のように、最高の善を備えて、終わりの時、栄光の道具として尊く用いられますように。


* まとめと適用
( )の中に正しい言葉を入れてください。
1.使徒パウロは主の心で( )を愛し、自分を迫害する者たちのためにも( )を渡せる愛があった。
2.使徒パウロは大きい( )と深い啓示を受けても、すべての( )を完全に主に帰した。神は使徒パウロの信仰を認められて、大きい神の力を授けてくださった。


* 今週の課題
次回はモーセの善について学びます。モーセはどんな器を備えたので、出エジプトという大きい使命を与えられたのでしょうか。出エジプト記2章全体を読んできましょう。


* 知って力にしましょう
「イエス様が「わたしは渇く」と言われた霊的な意味
神の摂理にあって何の罪もなく木の十字架にかけられたイエス様は、血を全部注ぎ出して気力が尽きておられる状態だったので、激しい渇きを感じられた。しかし、渇きに耐えられなくて「わたしは渇く」と言われたのではなく、「わたしは血を注ぎ出して渇くので、わたしの血の代価を返して、渇きを解消してくれ」という切実な叫びである。イエス様は今も魂を取り戻すための渇きを神の子どもたちに訴えておられる。イエス様の十字架の尊い血によって救われた聖徒たちは、当然主の血の代価をお返ししなければならない。イエス様の血の代価をお返しして、渇きを解消して差し上げるとは、まさに死の道に向かっていく人々を救って、天国に導くことを意味する。

 
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