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聖書の学び
Title
第22課 まことの信仰と永遠のいのち
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2008-05-30
読むみことば: ヘブル11:1-3、マタイ7:21
覚えるみことば: ヘブル11:1
教育目標
信仰の定義を知って、肉の信仰を霊の信仰に変える聖徒になるようにする。
「信仰の章」と呼ばれる[ヘブル人への手紙11章]では、信仰がなければ神に喜ばれないことがわかります。信仰があってこそ救われて、みことばどおり行なえます。信仰は信仰生活の基本要素であり、答えの必須条件だからです。信仰は二つに分けられます。すなわち、肉の信仰と霊の信仰です。それでは、永遠のいのちが持てるまことの信仰とは、はたしてどんな信仰でしょうか?
1. 肉の信仰
「肉の信仰」とは、目で確かめられ、自分が知っている常識や知識と一致するので信じる信仰です。このような信仰を「知識的な信仰」、または「理性的な信仰」と言います。木で机を作ったことを聞いて、見てそれがわかったとすれば、疑うことなく信じられます。このように有から有の創造、すなわち、存在するものから何かを作り出すという事実を信じることが、まさに肉の信仰です。
人は生まれてから脳の中にある記憶装置にいろいろな知識を入力させます。目で見たこと、耳で聞いたこと、両親や兄弟、隣人を通して得た知識や、学校で学んだ知識を記憶します。そして、必要なとき、取り出して活用しますが、その中には真理でない知識もたくさんあります。聖書に記された神のみことばは永遠に変わることのない真理ですが、この世で学んだ知識には変わるものが多くて、真理もあって、真理に逆らうものもあります。
進化論は神のみことばと違うので、真理ではありませんが、多くの人が学校で進化論を学ぶので、真理だと思っています。また、有から有の創造だけを学んできた人は、無から有の創造を信じようとしません。生まれてから入力された知識と違うので、創造論を疑って、信じられないのです。
[ヨハネ3:1-15]にイエス様とニコデモとの対話が出てきます。イエス様が「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」と言われます。つまり、肉の信仰を持っていれば、神のみことばを聞いて知っていても、信じられなくて疑いが起こるからです。
[マタイ7:21]に「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」とあります。[マタイ3:12]には「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」とあります。私たちがいくら神のみことばを聞いて知っているといっても、信じられなくて神のみこころのとおり行なわなければ、肉の信仰にすぎないし、救われることもできません。
2. 霊の信仰
目に見えないし、人間的な思いや知識に合わなくても信じられる信仰を「霊の信仰」と言い、これは無から有を創造することを信じる信仰です。[ヘブル11:1]に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させ」とあるように、霊の信仰をもって望めば、実際に保証され、人の目では見えないものも実現されるのです。
たとえば、モーセが信仰の目で望んで、神が命じられたとおり行なうと、葦の海が分かれて乾いた地が現れ、イスラエルの民が葦の海を陸地のように渡ることができました(出エジプト14:21-22)。また、ヨシュアとイスラエルの民が信仰の目で望んでエリコ城を七日間回り、ときの声をあげると、城壁がくずれ落ちました(ヨシュア6:12-20)。信仰の父アブラハムは、死んだ者をよみがえらせる神を信じたので、約束の子、ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげよという神の命令に聞き従えました(創世記 22:3-12)。
このように霊の信仰は行ないのある信仰であり、生きている信仰です。それで、[ヘブル11:3]に「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」とあるように、霊の信仰を持てば、見えないものでも求めるものはすべて答えられます。したがって、無から有を創造して、求めるものはみな答えられるためには、肉の信仰を霊の信仰に変えなければなりません。
3. 肉の信仰を霊の信仰に変えるには
それでは、私たちはどうすれば肉の信仰を霊の信仰に変えられるでしょうか?
1) 神のみことばを熱心に読んで聞いて、教えられなければなりません。
「信仰は聞くことから始まる」とあるので、ひとまず頭の中に知識として入れられて、知識的な信仰になれば、その次には霊の信仰に変える作業をしなければなりません。間違って入力された世の知識は、霊の信仰を持つことを妨げます。疑いをもたらすすべての肉の思いは、火のような祈りによって上から強くされて打ち砕き、間違って入力された知識は、取り出さなければなりません。
2) 神のみことばどおり行なっていかなければなりません。
いくら礼拝に熱心に参加して、説教を聞いて教えられたとしても、実際に行なわなければ、何の役にも立ちません。立派なピアニストになろうとする人がピアノ教本を百回、千回読んだからといって、ピアノがよく弾けるでしょうか? 理論を勉強したら、練習をしなければなりません。血のにじむような練習によってこそ立派なピアニストになれるように、神のみことばを読んで聞いて教えられたら、行なってこそ霊の信仰が持てます。
私たちが神のみことばを聞いて理解するほど、霊的な知識が入ります。不思議としるしと聖徒たちの証しによって生ける神の証拠を体験するほど、疑いが捨てられて霊の信仰が育ちます。霊の信仰が育つほど、神のみことばに従って生き、神と交わって祈りに答えられます。疑いが完全に捨てられれば、信仰の岩の上に立って、どんな試練や患難が迫って来ても、勝利を得る信仰が持てます。
[ヤコブ1:6-7]に「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」とあります。[ヤコブ2:14]には「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」とあります。
したがって、すべての疑いを捨てて、信仰の岩の上に立って行ないのある信仰を見せるとき、霊の信仰と、救われるまことの信仰を持つのです。
3. まことの信仰と永遠のいのち
[マタイ25章]にある十人の娘のたとえは、私たちに多くの教訓を与えてくれます。ともしびを持って花婿を出迎える十人の娘のうち、賢い五人の娘たちは、油を用意して花婿を迎えました。一方、愚かな五人の娘たちは、油を用意しなかったので花婿が迎えられなかったのです。これは、神を信じる人々の中でも、油を用意した五人の娘たちのように、熱心に信仰生活をしながら、霊の信仰を持って再び来られる主を迎える用意をした人々は救われるけれど、そうでない人々は救われないという意味です。つまり、行ないが伴わない信仰は死んだ信仰なので、救われません。
いくら「主よ、主よ」と言いながら、主の御名によって預言をし、主の御名によって悪霊を追い出し、主の御名によって奇蹟をたくさん行なっても救われないことが、聖書に書かれています(マタイ7:22-23)。それはまさに神のみこころのとおり行なわなくて、不法をなして罪を犯した人々は「殻」だからです。
それでは、どのように「麦」と「殻」が見分けられるでしょうか?
「殻」は皮はあるけれど中身がないので、行ないとしては神のみことばのとおり生きているようでも、心は真理に変えられないで、相変わらず悪を行なう人を言います。つまり、教会に通って十分の一献金と祈りの生活をして、忠実に奉仕をしているようでも、神の御前にするのではなく、人に見せようとするので、まことの信仰を持った「麦」の聖徒ではありません。
「麦」は、神のみことばである真理によって変えられた御霊の人で、左右にそれません。揺れ動かない信仰を持って、すべてのことを信仰によって行ないます。断食をしても、祈っても、信仰によって求めるので、答えられる信仰生活をします。他人を意識して無理にするのではなく、喜びと感謝をもって行ないます。このように、ただ神に喜ばれるために聖霊の声に従って信仰によって行なうので、結局、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である祝福を受けていくのです。
したがって、まことの信仰を持つためには、神の御前に礼拝をささげるとき、霊とまことによって礼拝をしているのか、ひょっとして居眠りしたり雑念にふけっていたり、神のみことばをさばなかったのか、振り返ってみなければなりません。また、神の御前に献金をささげる時も、喜んでささげたのか、それともいやいやささげたのか、他人が見ているから無理にささげなかったのか、自分を顧みなければならないでしょう。
愛する聖徒の皆さん、神は人間ではないので偽りを言うことがなく、言われたことをなさる方です(民数記23:19)。私たちが霊の信仰を持つと、聖書六六巻に記された祝福のみことばがそのとおり臨みます。
もし熱心に礼拝をささげて、祈って、忠実に働いたのに、心の願いがかなえられなかったとすれば、自分の信仰を点検して、ただ神のみこころのとおり行なおうと努めなければなりません。このように肉の信仰を霊の信仰に変えて、救いと永遠のいのちを得ることはもちろん、この地上でもすべてにおいて栄える幸いな聖徒になりますように、主の御名によって祈ります。
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