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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第19課「死ぬ一粒の麦になろう」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2015-11-13


読むみことば: ヨハネ12:24_26
覚えるみことば: ヨハネ12:24
参考にするみことば: ヘブル12:2
教育目標: イエス様のように死ぬ一粒の麦になって、太陽のように輝く栄光に至る聖徒になるようにする。

一粒の麦が死んで実を結ぶ過程を見ると、種は芽が出て根を下ろすために死んで、すべての部分を養分として渡します。たとえ形はなくなっても、新しい生命体を生んで、豊かな実を結びます。しかし、種が死ななければ何の実も結べません。このような自然の法則は霊の世界でも同じように適用されます。

1. 死ぬ一粒の麦になられたイエス様

<ヨハネ12:24>に「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」とあります。ここで「一粒の麦」とは、この地上に来られ、十字架につけられて死なれることによってすべての人に救いの道を開いてくださったイエス様を意味します。
それでは、イエス様はどのようにして死ぬ一粒の麦になられたのでしょうか。創造主の神の御子として人となってこの地上に来られたイエス様は、何の罪もなく被造物によってはずかめられてののしられ、言葉で表現できない苦しみを受けられました。つばきをかけられ、むちに打たれ、いばらの冠をかぶってあらゆるあざけりを受けられました。しかし、イエス様ははずかしめをものともされませんでした。
結局イエス様は人類の罪を代わりに負って木の十字架にかけられ、水と血をすべて注ぎ出して死なれ、三日目によみがえられました。それで、誰でもよみがえられたイエス・キリストを信じれば、救われて天国で永遠のいのちと祝福を受けられる道が開かれたのです。
<ヘブル12:2>に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。ここで「ご自分の前に置かれた喜び」とは何を意味するでしょうか。死の道に向かっている罪人たちを救えるという愛と、父なる神のみこころを成し遂げることができるという喜びを意味します。また、神の摂理を成し遂げて、王の王、主の主になれるといううれしさを意味します。私たちも神の働きをしながら、イエス様のようにどんな苦しみにあうとしても、いつも喜んで感謝して徹底的に死ぬなら、豊かな実が結べます。

2. 死ぬ一粒の麦になって豊かな実を結ぶには

1) 自我が死ななければなりません
人は生まれてから親、兄弟、学校、友だち、隣人など、多様な環境を通して見て聞きながら、経験を積んでいきます。このように積んだ知識と教養で自我を形成するようになります。ところが、イエス・キリストを受け入れて神のことばを聞いて学びながら、罪との戦いが始まります。これまで自我を形成したものはほとんど真理に背くので、ぶつかることが生じるからです。
このような時、「自分のはかりごとや思弁より神のことばのほうが正しいです」と自分を捨ててこそ自我が死ぬことができます。神のことばに背くはかりごとや思弁を徹底的に打ち砕いてこそ、自我が死ぬのです(第二コリント10:5)。それで、<ヘブル12:4>に、罪と戦って血を流すまで抵抗してこそ捨てられると説明されているのです。
罪は適当に悔い改めるからといって捨てられるのではありません。火のように祈って、罪を捨てるために罪と戦って、血を流すまで抵抗して捨てる努力が必要です。そうするとき、神が聖霊の火のバプテスマを下して罪の性質を焼いたり、罪を捨てられるように強くしてくださったりなさるのです。また、心におられる聖霊が、罪が何か悟るようにされ、捨てられるように助けてくださいます。
一粒の麦が死ぬとき、その中の内容物が養分となり、皮も朽ちてなくなります。このように私たちが死ぬ一粒の麦になるには、自我を形成しているものが真理に変えられて、自我という枠そのものもなくならなければなりません。この世に生まれて成長しながら、真理でないもので作られた自分の義と枠を打ち砕いてこそ、新しい被造物になることができるのです。

2) 家庭で死ななければなりません
もし夫が主を信じないで、妻だけが主を信じる家庭ならば、妻はどうすべきでしょうか。夫が救われるように祈って福音を伝え、真理にあって従って仕えて愛さなければならないでしょう。妻が夫のために死ぬ一粒の麦になれば、夫が変えられて救われることができます。夫だけが主を信じる家庭であっても、そのようにすればよいのです。
家族を完全に福音化して、愛で一つになる家庭になるには、信仰のある人がまず死ななければなりません。家族は最も近くですべてを見守っているので、手本にならなければ、実を刈り取ることができません。「教会に通ったら優しくなった。まめになった」と認められなければなりません。
ですから、家庭で死ぬには、自分の「以前の生活」を脱ぎ捨てなければなりません。「以前の生活」とは、神を信じる前、古い人であったとき、自分の身についた良くない習慣のことを言います。育ってきた環境で悪口が日常の言葉になったり、憤りが多くて些細なことにもすぐ怒って手を上げたりすること、また、部屋が汚くても片づけないで放っておくことなどです。このような悪い以前の生活を捨てて、誠実に手本になって家族に仕えたら、家庭福音化はもちろん、いつも笑顔の花が咲く和やかな家庭を作れるのです。

3) 教会の中で死ななければなりません
聖徒は血縁で結ばれた兄弟よりさらに近い神の子どもであって、この地上でだけでなく、天国でも永遠にともに生きていく家族です。それなら、教会の中で聖徒のそむきの罪を暴いて、他人に伝えることがみこころにかなっているでしょうか。
<箴言17:9>に「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。」とあります。神は互いに愛して理解して赦すことを望んでおられます。「自分」が生きている人は相手のそむきの罪が許せません。自分の義で相手を指摘して、相手のせいで被害をこうむれば、ムッとして赦すのが難しいのです。
自分がどれほど死んだのかは「平和」の分野だけを見てもわかります。自分の義を主張して自分の枠にこだわる人は他の人と平和を保ちにくいです。枠は固くてぶつかれば音がするので、平和が壊れやすいものです。もし「A執事」とはうまくいっているのに「B執事」とは気まずいなら、平和を保っているのではありません。自分によくしてくれる人だけでなく、そうでない人とも平和を保たなければなりません。
教会の務めの上下関係でも同じです。秩序に従って、従順と仕えによって平和を追い求めたのか、所属している所で愛によって一つになったのか、チェックしてみなければなりません。死ぬ一粒の麦のような人は、どこに行こうが平和を保つことができます。

4)神の国のために死ななければなりません
神の国が実現されることにおいて、最も大切なのは魂の救いです。イエス様が十字架につけられて死なれたのも、数多くの魂を救うためでした。それで、主は天に昇りながら「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われたのです(使徒1:8)。このように主の証人となって、福音を伝えながら多くの人を救いに導くとき、神の国が大いに実現されるのです。
人々を伝道することにおいても多くの愛の労苦が伴います。良い行いで神の栄光を輝かせてこそ、彼らが恵みを受けて、光である神を捜すからです。私たちがひとり伝道するためにも、多くの時間と物質と誠意を投資しなければなりません。伝道された魂を顧みるのも同じです。このような献身と愛の労苦を惜しまないとき、多くの魂が霊的に成長して、教会がリバイバルできます。
主の十字架の愛を悟った人はこの愛を借りのある者の心で伝道して、魂を顧みることを苦労と思いません。自分のものをすべて渡しても喜んで、自分から進んで献身するのが見られます。<ローマ8:17>に「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」とあるように、私たちも主のように神の国のために死ななければなりません。そうして死にかけている多くの魂を救って、太陽のように輝く栄光の座に至りますように。


* まとめと適用
1. ( ) の中に正しい言葉を入れてください。
<ヨハネ12:24>に「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」とある。ここで「一粒の麦」とはこの地上に来られ、十字架につけられて死なれることによってすべての人に救いの道を開いてくださった( )を意味する。

2. 私たちが死ぬ一粒の麦になって豊かな実を結ぶには、どうすべきでしょうか。
①( )が死ななければならない。
②( )で死ななければならない。
③( )の中で死ななければならない。
④( )のために死ななければならない。


* 今週の課題
ヨハネ19章に、よみがえられたイエス様がペテロに三度「わたしを愛するか」と問われ、ペテロが「愛します」と答える場面が記されています。それにイエス様はどうお答えになって、その霊的な意味は何でしょうか。次回までに考えてきましょう。


* 知って力にしましょう
「古い人」vs「新しい人」(コロサイ3:9、エペソ4:24)
「古い人」とは、罪によって死ぬしかない、主にあって新しく生まれず、真理でないことを行う人のことを言う。一方、「新しい人」とは、イエス・キリストを受け入れて、賜物として聖霊を受けて、新しく生まれた人のことを言う。古い人が新しく生まれるためには「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべき」である(エペソ4:23_24)。

 
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