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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第11課「花嫁の用意をよくしよう」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2015-09-18


読むみことば: マタイ25:1_13
覚えるみことば: 第一テサロニケ5:23
参考にするみことば: 第一テサロニケ5:4
教育目標: 十人の娘のたとえを通して、花婿なる主を出迎える花嫁の資格について悟るようにする。

マタイの福音書25章には、天の御国はともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようだとあります。ここで十人の娘とは、神を信じて再臨の主を待っている聖徒たちを意味します。イエス様はこのたとえを通して、聖徒の中には、花婿を出迎える用意ができなかった愚かな五人の娘のような人と、花婿を出迎える用意をよくした賢い五人の娘のような人がいる、ということを教えてくださいました。

1. 十人の娘のたとえ

十人の娘のうち五人は愚かで、五人は賢かった、とあります。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておきませんでした。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていました。
このように十人の娘みながともしびを持って花婿を待っていましたが、夜は次第にふけて、花婿は現れる気配もありません。まぶたがしょっちゅう閉じてきて、眠気に勝とうと努力しても力及ばずでした。十人の娘みながうとうとして眠っているとき、突然「そら、花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ声がしました。
夜中に十人の娘たちはみな起きて、あたふたと身なりを整えて、自分のともしびに火をともしました。ところが、愚かな五人の娘は油を用意していなかったので、ともしびが消えていきます。賢い娘たちに「油を少し私たちに分けてください。」と頼みましたが、賢い娘たちは「それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」と言います。そこで、愚かな五人の娘は油を買いに行き、その間に待ちに待っていた花婿が来ました。賢い五人の娘は婚礼の祝宴に行き、戸がしめられました。
愚かな娘たちが戻って来て、いくら「ご主人さま、ご主人さま。あけてください。」と叫んでも、戸はあけられませんでした。むしろ「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」という恥ずかしい答えだけ聞きました。
このように、愚かな人は「救われる機会は明日もあるし、あさってもある」と言いながら、相変わらず目を覚ましていないで、花嫁の用意に努めません。花嫁の用意の機会は目を覚ましている人にだけ許されていて、救いの戸は一度しめられれば入れません。霊的に眠っている人は、油がなくなっても感じられないからです。
神は十人の娘のたとえを通して、いつも目を覚ましていて、主が来られる前に完全に花嫁の用意を終えなさいと勧めておられます。<第一テサロニケ5:23>に「主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」とあるように、教会を行ったり来たりして世と友になって快楽を楽しんだら、主の来臨を待っているのでなく、救いともほど遠いということを悟らなければなりません。

2. 主の花嫁の資格を備えるには

聖書では、私たちの主を「花婿」、主を信じる聖徒を「花嫁」にたとえています。罪を犯したアダムがエデンの園から追い出された後、この地上で始まった六千年の人間耕作が終われば、まことに驚くべき事が起こります。花婿なる主が空中に下って来られ、花嫁の用意に努めた聖徒たちとともに七年間婚宴をします。
この後に起こる事が書き記されたヨハネの黙示録19章9節に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」とあります。花婿なる主の婚宴に招かれて行くとは、救われて永遠のいのちを得るようになったという意味なので、まことに幸いなことなのです。一方、主の婚宴に行けなければ、この地上に残って七年の大患難に遭うようになります。ですから、再び来られる主を出迎えるために、いつも目を覚ましていて花嫁の用意に努め、七年の婚宴に行ける資格を備えなければなりません。
はたして、私たちが花婿なる主の婚宴に行くために必ず備えるべき花嫁の資格とは何でしょうか。
第一に、どんな試練や患難にも揺るがない信仰を持たなければなりません。
<ヘブル11:6>に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。神がアブラハムを信仰の父としてお立てになったのには、それだけの理由があります。人の思いではとうてい理解できない状況でも、アブラハムは信仰が全く揺るがず、完全に従って信仰の行いを証拠として見せたからです。つまり、約束の種である息子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたとき、アブラハムはどんな肉の思いも働かせないで、完全な従順の行いを見せました。
それでは、ダニエルの三人の同僚はどうでしょうか。死の前でも信仰を堅く守ったので、神は彼らの信仰を非常に喜ばれました。ネブカデネザル王は金の像を造って、ダニエルの三人の同僚、すなわち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに金の像を拝めと命令しました。もし拝まないなら、火の燃える炉の中に投げ込むと脅かしました(ダニ3:15)。それでも彼らは神が嫌われる偶像を決して拝みませんでした。かえって「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」と大胆に告白します。
結局ダニエルの三人の友だちは金の像を拝まなかったということで、炉の中に投げ込まれました。しかし、神がその頭の毛一つも焦げないように守ってくださったので、神の生きておられることを証しながら、大いに栄光を帰したのです。

第二に、心をきよくして、責められるところがあってはなりません。
「心がきよい」とは、教養と知識でうわべを聖にするという意味ではありません。「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」とあります(第一サム16:7)。心を見る神は何よりきよい心を望んでおられます。<マタイ5:8>に「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」とあります。心を汚す罪と悪を完全に捨ててこそ心がきよくなり、自分の身と周りもきよくします。
聖書では、心をきよくすることを「自分の着物を洗う」と表現しています。<黙示録22:14>に「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。」とあります。もし着物に汚れがついたらどうするでしょうか。きれいに洗って着るでしょう。心についた汚れも同じです。霊的な水である神のことばできれいに洗い落とさなければなりません。争って憤っていた人は憤りを捨てなければならないし、高ぶる人は低くなって仕え、憎しみとねたみとそねみがある人は敵をも愛する心に変えられなければなりません。それで、心がきよくなれば、誰とも引っかからないで、かえって抱くようになります。

第三に、油を用意して目をさましていなければなりません。
賢い五人の娘のように婚礼の祝宴に行く花嫁になるには、油をよく用意しなければなりません。この時、油は祈りと聖霊に満たされていることを意味します。油があってこそともしびの火をともせるように、火のように祈って聖霊に満たされてこそ、たましいの光を明るくできるのです。聖霊を受けて神の子どもとされても、祈らなければ聖霊に満たされなくなります。次第に世と妥協するようになり、罪と悪の中で生きて、結局は救われることができません。
もし愚かな五人の娘がうとうとしないで目を覚ましていたとすれば、いくらでも油を用意できました。目を覚ましていて花婿が来るのが遅れるのを知っていたとすれば、油を充分に用意して、婚礼の祝宴にも行けたでしょう。ですから、このたとえを通して、いつも目を覚ましていなければならないことを悟らなければなりません。
花婿なる主がいつ再び来られるのか、その日、その時は誰も知りませんが、目を覚ましている人には主の日が盗人のように襲うことはありません(第一テサ5:4)。しかし、目を覚ましていなければ、ノア時代に洪水のさばきで全部滅ぼすまで人々が悟れなかったように、愚かな者になってしまうことがあります。
油の用意は一日、二日でできるのではありません。霊の信仰も自分で得られるのではなく、神が下さってこそいただけます。賢い五人の娘のように油の用意をよくして、主を出迎えますように。


* まとめと適用
( )の中にふさわしい単語を入れてください。
1.賢い五人の娘のように婚礼の祝宴に行く花嫁になるには油の用意をよくしておかなければならない。この時、油とは( )と( )を意味する。油があってこそともしびの火をともせるように、火のように祈って聖霊に満たされてこそ、たましいの光を明るくできる。

2. 私たちが主の婚宴に行くために備えるべき花嫁の資格は何でしょうか。
①どんな試練や患難にも揺るがない( )を持たなければならない。
②心をきよくして、( )があってはならない。
③油を用意して( )なければならない。

3. <第一テサロニケ5:23>を覚えて書いてみてください。

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* 今週の課題
<マタイ11:12>に「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」とあります。なぜ平和な天の御国が激しく攻められなければならないのでしょうか。聖句を読んで、次回までに考えてきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう
「小羊の婚宴」(黙19:9)
主が空中に来臨されるとき、救われた人々が花嫁の資格をもって七年間、花婿なる主とともにする宴会のことを言う。主が空中に来臨されれば、救われたすべての人々が花嫁として花婿なる主を出迎える。この時、救われた子どもたちを慰めるために、神は七年間空中で婚宴を催される。将来白い御座の大審判を通して、この地上で行ったとおり天国の場所と報いで返してくださるが、その前に婚宴を催して、主とともに幸せな時間を持つようになさる。

 
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