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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第8課「食卓から落ちるパンくずはいただきます」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2014-10-24


読むみことば: マタイ15:21_28
覚えるみことば: 箴言18:12
参考にするみことば: マルコ7:24_30
教育目標: スロ・フェニキヤの女のように、自尊心を捨ててへりくだった心と信仰の告白で、どんな問題でも解決される聖徒になるようにする。


一言が相手に感動を与えるとき、その実は想像できないほど大きい祝福として帰ってきます。良い感動的な言葉はどんな宝より尊く、幸せをもたらすので、宴会場の陽気な音楽より楽しいと言えるでしょう。世には良い言葉で感動を与える人もいますが、悪くて愚かな言葉を口にして相手の心を傷つける人もいます。軽率で無責任な言葉で他人に害を及ぼしたり、その言葉によって自分も災いにあったりする場合もあります。
それでは、スロ・フェニキヤの女を通して、どれほど善なる信仰の告白が感動を与えて、答えと祝福を受ける問題解決の鍵になるのか調べてみましょう。



1. 多くの人の前で無視されるスロ・フェニキヤの女

イエス様がツロとシドンの地方にとどまっておられた時のことでした。イエス様についてのうわさはその地方にもあまねく広まっていたので、あっという間に多くの人が詰めかけて来ました。他の誰からも聞けなかった権威のあるみことばが語られ、悪霊が出て行き、目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、死人が生き返るといううわさを聞いて、多くの人が集まって来ました。
スロ・フェニキヤの女もうわさを聞いて、イエス様を切に慕っていましたが、会うようになったのです。女は悪霊に取りつかれている娘がいやされるという喜びと、恐れで震えながらイエス様の前に出て来て、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」と叫び声をあげて言いました。ところが、イエス様が知らないふりをして顔を背けられるので、どうしてよいか困っていました。
当時としては、スロ・フェニキヤの女の行動には大変な勇気が必要でした。女性が知らない男性の前に出られなかったうえに、ユダヤ人は異邦人を嫌っていたからです。それでもスロ・フェニキヤの女は自尊心や恐れをものともせずイエス様に切に求めたのに、多くの人々の前で完全に無視されたのです。
弟子たちは彼女がかわいそうになったのか、見ていられなくてイエス様に「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と願います。弟子たちまで出て来たので、イエス様が「では、わたしが行って直してあげよう」と言われたのではありません。しかも「そんなに切に頼んでいるのに、答えてあげられなくてすまない」と慰めてくださるのでもありませんでした。
イエス様は意外にも「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われました。つまり、「わたしはイスラエルの民のために来たのであって、異邦人のあなたのために来たのではない」という意味なのです。
もし皆さんがこのような状況に置かれているなら、どうするでしょうか? たとえば、皆さんの両親が他の教会に通っていますが、不治の病にかかって、いやされようと「堂会長先生、祈ってください」と依頼しました。ところが、堂会長先生が「うちの教会の聖徒でないから、祈ってあげられません」と言われたなら、どうするでしょうか?
この時、「おやおや!愛が豊かな方だと思っていたのに・・・」と失望してあきらめてしまったり、「聞いたうわさとは違うね。何とまあ、うちの教会、あなたの教会と言えるんだろうか。それでも訪ねて来た誠意があるのに、祈ってくださるべきではないか」とさびしく思って帰ってしまう人もいるでしょう。
本当に心の良い人は「堂会長先生、私も神様の子どもです。信仰を持って出て来ましたから、祈ってくださればよくなると信じます」と最後まですがるでしょう。堂会長先生がそのように冷たくされるはずもありませんが、たとえそうなさるとしても、本当に良い心で信仰を持って出て来た人なら、悪い感情を抱かないで、むしろ良い言葉で感動的な答えをするのではありませんか?
スロ・フェニキヤの女はこのような良い心を持っていたので、イエス様のおことばを聞いて失望したのではなく、むしろひれ伏して、「主よ。私をお助けください」とさらに切にすがったのです。



2. 侮辱的な言葉を聞いても、最後までへりくだって信仰を見せたスロ・フェニキヤの女

イエス様は自尊心を捨てて切に願う彼女にお答えになったでしょうか? かえって「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と断固として断ります。イスラエルの民に与える恵みを異邦人に与えることは、子どもにあげるパンを小犬にやるようなものだということなのです。これは「女よ、あなたは小犬と同じだ」ということです。
聖書で犬は忌むべきもので、良くないものをたとえる時に使われます。「犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。」(箴言26:11)とあり、「聖なるものを犬に与えてはいけません。」(マタイ7:6)とあります。
もしわずかでも自尊心がある人なら、自分を小犬にたとえる言葉を聞いたとき、「どうしてこんなふうに無視できるのだろうか」と思って帰ってしまうこともあるでしょう。ところが、スロ・フェニキヤの女はどうだったでしょうか?「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」とへりくだって告白しました。そんな侮辱的な言葉を聞いても、まず「そのとおりです。」とイエス様のおことばに肯定からしています。その後、「主よ、私が小犬のような存在だとしても、小犬が主人の食卓から落ちるパンくずはいただくように、私にも恵みをお与えください」と再び切に頼みました。
最後までへりくだった姿で信仰を見せた女の善なる言葉はイエス様を感動させて、結局答えていただくようになります。つまり、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と言われると、その時、彼女の娘から悪霊が出て行ったのです。
それでは、スロ・フェニキヤの女から見いだせる善は何でしょうか?



3. 答えられるしかないスロ・フェニキヤの女の善

スロ・フェニキヤの女にとって最も大きい苦しみは、愛する娘が悪霊に取りつかれていることでした。娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいるのを見るとき、母としてどれほど心が痛かったでしょうか。自分が代わってやりたいほど、娘の苦しみを見るに忍びない心情だったでしょう。
ところで、うわさにだけ聞いていたイエス様が自分の村に来られたということを聞きました。この機会を逃せば、いつまたイエス様に会えるかわからないので、イエス様のみもとに出て来て、切に叫び声をあげて願いを申し上げたのです。しかし、彼女に返ってきたのは答えではなく、イエス様の沈黙であり、そのあとは小犬扱いされる侮辱でした。
それでは、真理そのものであるイエス様がなぜ彼女にそれほど冷たくされたのでしょうか? それは、彼女の信仰を確かめて、また、これを通してまことの信仰とはどのようなものなのかを私たちに見せられるためでした。
スロ・フェニキヤの女がイエス様に小犬扱いされても、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」とへりくだって告白したということは、彼女の心がそれほど良いということを示しているのです。娘がいやされさえすれば、小犬扱いされても関係ないし、それよりもっと低くなってもかまわないという心だったのです。
同じように、私たちにまことに心に切なる願いがあり、神の全知全能であることを信じるなら、どうして自尊心を前に押し立てて、どうして恥ずかしく思うでしょうか。
ところが、ある人は、心はへりくだっていないのに、一瞬悪知恵をめぐらして、「こういう時はこんなへりくだった答えをしてイエス様の心を買おう」と、それと似た答えをすることもあるでしょう。しかし、スロ・フェニキヤの女のように真心から出たものでないなら、イエス様があれほど繰り返して無視する態度を見せられた時は、結局わかってしまうはずです。スロ・フェニキヤの女は良い心にへりくだった心が臨んでいたので、最後までイエス様が望んでおられる霊的な答えができたのです。
私たちの心が彼女のようなら、相手からどんな悔しい言葉を聞いたとしても、腹が立ったり争ったりしないでしょう。しかも自分のほうが先に言葉で相手を傷つけることは想像もできないでしょう。もし自分に悪い言葉を言う人がいても、スロ・フェニキヤの女のようにへりくだった心で知恵を働かせれば、むしろ相手の心に感動を与えて、「私が本当に悪かった」と悟らせることもできます。
ですから、スロ・フェニキヤの女のように、むなしい自尊心を捨てて、神の御前にへりくだって頭を下げられる良い心を持つことがまさに祝福の道だということを必ず心に刻んで行いますように。



* まとめと適用

1. スロ・フェニキヤの女がイエス様に答えていただこうとする問題は何でしたか?

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2. スロ・フェニキヤの女が小犬にたとえられて侮辱的な言葉を聞いたとき、どんな告白をイエス様にしたでしょうか?

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3. 聖書で犬は忌むべきもので、良くないもののたとえに使われます。どの聖句か探して書いてください。

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4. もし皆さんがたくさんの人の前で無視されたり、侮辱的な言葉を聞いたりしたとすれば、どんな反応が出て来るでしょうか?

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* 今週の課題

マタイの福音書8章に記されている百人隊長はどんな信仰を持っていたので、イエス様に中風のしもべをいやしていただいたのでしょうか? 次回までに読んで考えてきましょう。



* 知って力にしましょう!

「死体を葬らないで、犬に食らわせることは最高の侮辱」
聖書時代のユダヤ人は、死体を葬らないで、犬に食らわせるように放置することを最高の侮辱であり恥と思った。北イスラエルのアハブの王妃イゼベルは国民がバアルとアシェラの外国の神々を拝むようにした。これによって国民はひどく堕落した。その懲らしめとして、イゼベルは窓の外に突き落とされて、彼女の頭蓋骨と両足と両方の手首しか見つけられないほど惨めな死に方をした。神がエリヤに「犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。」と言われたが(第一列王21:23)、そのとおりになった(第二列王9:30_37)。

 
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