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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第7課「平和をつくる者は幸いです」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2012-12-14


読むみことば: マタイ5:9
覚えるみことば: マタイ5:9
参考にするみことば:ヘブル12:14、ローマ6:16
教育目標:ご自身を犠牲にして人と神の間を和解させたイエス様に似せられて、すべての人と平和をつくる神の子どもになるようにする。


平和とは、相手のために自分を犠牲にして低くし、相手に仕えて相手を高める心のことを言います。ですから、礼儀に反することをせず、仮に自分が正しくても、真理に逆らうことでなければ、相手に合わせることができます。また、すべての人の利益を追い求めて、自分を目立たせないだけでなく、かたよることがなく、真理にあって融通のきく心です。
したがって、平和をつくる人になろうとすれば、自分自身を犠牲にすることができなければなりません。相手のために自分を犠牲にしますが、さらにいのちまで渡せることがまさに霊的な意味の平和であるからです。



1.ご自身を犠牲にして平和をつくられたイエス様

最初の人アダムが、神が禁じられた善悪の知識の木から実を取って食べたことによって罪が入ってくると、アダムとその子孫はみな罪人になってしまいました。これによって神と人間との間が罪の壁で隔てられるようになったのです。つまり、「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、」というみことばのように、罪のゆえに神と敵となりました(コロサイ1:21)。
[ローマ6:16]には「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」とあります。つまり、人類の先祖アダムが敵である悪魔に服従して罪を犯したので、すべての人が罪人になってしまったのです。
このように罪によって敵となったすべての人類と神との間に平和をつくるために、イエス様が十字架につけられて死なれました。それで、[コロサイ1:20]に「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」とあるのです。つまり、イエス様がなだめの供え物となって私たちの罪を赦してくださったので、神との平和がつくられたのです。
イエス様は罪人となった人類のために十字架につけられて死ぬまで、ご自身を完全に犠牲にされました。これによって私たちに救いの道を開いてくださり、数えきれないほどの神の子どもを得られたのです。
私たちも家庭と職場、教会など、自分が属しているあらゆる分野で犠牲にして仕えるとき、美しい平和の実を結ぶことができます。ところが、自分が正しいという自分の義があれば、自分も知らない間に平和を壊すようになります。これは自分が他の人に合わせてあげるのか、でなければ、他の人々が自分に合わせてくれるのかを見ればわかります。
たとえば、妻は薄味である一方、夫は塩辛い物が好きだとしましょう。夫の食習慣を一気に変えることはやさしいことではありません。もし妻が自分の主張だけ言い張るなら、けんかになることもあります。私たちがすべてのことに平和をつくろうとするなら、最大限相手を理解して配慮しながら改善することが望ましいのです。
[ヘブル12:14]に「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。つまり、自分を愛する人だけでなく、自分を憎んで苦める人とも平和をつくることができなければなりません。



2.平和をつくる者になるには

1)神と平和をつくらなければなりません
[イザヤ59:1_2]に「見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。私たちが罪を犯せば、神との間が罪の壁で隔てられるようになります。神と平和をつくるためには、罪があってはなりません。
私たちがイエス・キリストを受け入れれば、主の尊い血の功によってすべての罪を赦されるようになります。これによって神との間を隔てていた罪の壁が打ち壊されて、平和をつくるようになります。
ところが、罪が赦されたのに再び罪を犯したら、神との平和を壊すのです。私たちが罪を悔い改めて、みことばどおり生きていくとき、神と平和をつくり、神の子どもとして祝福されることができます。病気があればいやされて健康になり、物質の問題があれば豊かになるなど、心の願いに答えられるようになります。

2)自分自身と平和をつくらなければなりません
心の中に憎しみ、そねみ、ねたみなどの悪があれば、環境と条件によって悪が動き出すようになるので、自分自身と平和をつくることができません。自ら苦しみを受けるので、平安なはずがありません。
韓国には「いとこが地を買うと、腹が痛くなる」ということわざがあります。これは他人がうまくいくのを嫌うねたみのゆえ、自ら苦しみを受けるという意味です。このようにそねみ、ねたみ、高ぶり、争い、姦淫など、心に悪があれば、まことの平安を保つことはできないし、自分のうちにおられる御霊がうめかれるので、心が悩むようになります。ですから、自分自身と平和をつくるためには、心の悪を捨てて御霊に従っていかなければなりません。

3)すべての人と平和をつくらなければなりません
ある人は、悪があって平和を壊すというよりは、相手の立場が理解できなくていだけないので平和を壊したりもします。
たとえば、熱情的に事を推進して周りの人々を困らせていても、本人はわかりません。反対の意見が出てきても、自分は神の国のためにより良いほうを選んだからと思って、そのまま計画のとおり推進していきます。
このような人を主がご覧になるとき、神の国のための熱心は感心できるとしても、つまずいて傷つく人々については心を痛められるでしょう。真理でないことでなければ、相手の弱い信仰も考慮して、平和を追い求めることが望ましいのです。何人かが熱くて多くの事をやり遂げるより、みなが平和のうちに少ない事をやり遂げたとしても、神はそれを喜ばれるということを覚えておかれますように。



3.神の子どもと呼ばれる祝福

[マタイ5:9]に「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」とあります。もし自分の中にかんしゃくや憤り、争い、意見の対立、気まずさが起きたら、平和をつくっていないという証拠です。
それでは、このような人は神の子どもではないという意味でしょうか? そうではありません。ここには霊的に深い意味が含まれています。「神の子ども」とは、男だけを意味するのではありません。男と女が含まれた「神の子ども」を意味しています。それは、悪はどんな悪も避けて、神の善と愛を心に耕した、神にぴったり似せられた子どものことなのです。普通の救われた神の子どもたちとは明らかに違います。
私たちがイエス・キリストを受け入れて聖霊を受ければ神の子どもになりますが、信仰の量りは人によって違いがあります。たとえば、やっと救われるほどの「子どもたちの信仰」があるかと思えば、神について知っていく「小さい者たちの信仰」があります。また、敵である悪魔・サタンを退けることができる「若い者たちの信仰」があるかと思えば、キリストの満ち満ちた身たけにまで達して、初めからおられる神を知る「父たちの信仰」もあるのです。
したがって、「平和をつくる者」とは、父たちの信仰になった神の子どものことを言っているのです。それは、神の善と愛を心に耕した神のお心にそっくりな、神に愛される子どもなのです。このような人々は祈ることは何でも答えられて祝福が臨み、神から権威と力も授かって、敵である悪魔が恐れて退きます。
この他にも、平和をつくる者になって神の子どもと呼ばれると、やがて神の御座のある新しいエルサレムに入って、真実の子どもとして誉れと栄光を受けるようになります。王位を受け継ぐ王子なら、その栄華がどれほど大きいでしょうか。まして、万物の支配者である神にぴったり似せられて、その方の子どもと呼ばれるなら、その栄光と尊さは大したものです。天の軍勢と御使いに護衛されて付き添われ、数多くの天国の民にとこしえにほめられるようになります。それだけでなく、新しいエルサレムで神が下さった勇壮な黄金、宝石の家とあらゆる美しいものをいただいて、誉れと栄えのうちに永遠に生きていくようになります。
したがって、自分を犠牲にしてなだめの供え物になってくださった主に似せられて、さらに低くなって仕え、すべての人と平和をつくる幸いな神の子どもになりますように。



* まとめと適用

1.[マタイ5:9]で「神の子ども」とあるのはどんな人のことでしょうか?

______________________________________________________________

2.平和をつくる者になるための三つの条件を書いてください。

第一に、__________________________________________________________

第二に、__________________________________________________________

第三に、__________________________________________________________



* 今週の課題

八つ目の幸いは「義のために迫害されている者」の幸いです(マタイ5:10)。「義のために迫害される」とは、どんなことでしょうか? 次回までに祈りながら考えてきましょう。



* 「用語」を知って力にしましょう!

「父たちの信仰」(第一ヨハネ2:14)
創造主の神の初めまで知る信仰である。神の深い摂理を悟って、初めからおられる神を知る次元だ。モーセは神の初めを知ったので、天地創造をはじめとして数えきれない奥義を啓示されて、モーセ五書を記した。アブラハムも「初めからおられる方を知る段階」に達したので、ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたとき、喜んで聞き従うことができた。

 
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