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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第14課「従順の祝福」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2014-04-25


読むみことば: 第一サムエル15:22_23
覚えるみことば: マルコ9:23
参考にするみことば: ヘブル11:8
教育目標: 神を完全に信じて従うことによって不思議としるしが伴い、神に大いに愛されて祝福される聖徒になるようにする。

神は愛する子どもに答えと祝福を与えることを望んでおられる方です。従うことのできることを命じられて、私たちが行いとして現す時に、驚くべきみわざを施してくださいます。たとえば、イスラエルの民にエリコを七日間回れと命じられました。エリコの町は人が落とせるものではないので、従えることを命じられて、神が落としてくださいました。
今回は従順の祝福について調べてみます。



1. 神が望んでおられる従順

人は自分が十分にできることなのに、いろいろと言い訳をして従わない場合が多いです。まして自分の知識や経験に合わないことなら、どうして従えるでしょうか。神が望んでおられる従順は、自分の力でできることは当然して、自分の力でできないことは神により頼んで、信仰によって行うことです。その時、まことの従順だとみなされるのです。このように信仰によって従うとき、義とみなされて、従順の祝福を下さるのです。
神は従順の行いを通して不思議としるしが伴うように働かれます。堅固なエリコの町を落とす時も、聞き従うことによって驚くべきみわざが現れました。イスラエルの民はエリコの町を落とすために、神が言われたとおり七日間その町を回って、大声でときの声をあげました。これは人間の常識や知識にはとうてい合わないことでした。しかし、ヨシュアと民が神のことばを信じて従ったので、神がその従順をご覧になって、エリコの城壁をくずれ落としてくださいました。
私たちは神のことばに一つ一つに聞き従うとき、信仰が成長して、さらに大胆な信仰を持つことができます。実は、従えないことであっても、人の側でそうなのであって、神の側では決して従えないことではありません。それでも従えないのは、人ができることについての思いや経験、考え方によって限界を作るからです。
一般に、人ができないことは自分もできないと信じています。しかし、創造主の神は限界がなく、不可能のない方です。[マルコ9:23]に「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とあります。従えないのは信仰が少なくて行いが伴わないからであり、人の思いの中で限界を打ち砕けば、十分に従えます。



2. 従順の人アブラハム

アブラハムは神を信じたので、変わらずに何でも神の御前に従いました。神が「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と命じられたとき、どうしたでしょうか? [ヘブル11:8]に「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」とあるように、どこに行くのかを知りませんでしたが、そのとおり従いました。このような従順によって、アブラハムは神が約束されたすべての祝福を受けました。
アブラハムが女奴隷ハガルとの間に生んだイシュマエルを送り出す時も、神のことばに聞き従いました。イシュマエルがイサクをからかっているのを見たサラが、ハガルとイシュマエルを追い出してくださいと要求しました。これによってアブラハムは非常に悩みました。神は、悩まないでサラの言うとおりすれば、イシュマエルを一つの国民とすると言われます。これにアブラハムはそのとおり従います。結局、神の摂理がイサクを通して実現されて、イシュマエルも一つの民族を成すようになりました。
ある日、神はアブラハムを試みるために途方もない従順を要求されます。百歳で生んだ約束の子イサクを連れて、モリヤの地に行き、全焼のいけにえとしてささげなさいということでした(創世記22:1_2)。人間の思いを働かせば、自分のいのちより大事な息子を全焼のいけにえとしてささげるということは、とうてい従えないことです。
神はアブラハムに「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」(創世記21:12)と言われ、「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」(創世記17:6)と言われました。このように言われた神がイサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと仰せられたら、神の約束はどうなることなのでしょうか。
それでもアブラハムはどんな言い訳もしないで、直ちに従いました。翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行きました。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割って、神がお告げになった場所へ出かけて行ったのです(創世記22:3)。
アブラハムはどうして神のことばに少しも躊躇したりためらったりしないで、すみやかに行えたのでしょうか? 神には人を死者の中からよみがえらせることもできるので、死者の中からイサクを取り戻されることを信じたからです(ヘブル11:17_19)。父なる神が決して良くないことをお告げになるはずがないという信仰が堅くて動かなかったのです。アブラハムはこのようなことを命じられた神の善と愛を知っていたのです。



3. 従順の祝福と不従順の苦しみ

アブラハムが完全に神を信じて従ったので、信仰の父、神の友になったし、その名は祝福となることができました。アブラハムが受けた祝福は言葉に尽くせないほど大きかったのです。他国の王たちでさえ、その権威の前にひざまずきました。家畜と銀と金が豊かで、周りに水がない時も、彼には水がありました。
ソドムに住んでいたおいのロトが捕虜で捕えられたとき、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して取り戻して来るほど多くの奴隷がいたし、子どもの祝福と健康、長生きの祝福も受けました。
また、神がアブラハムにやがて起こる事について詳しく説明してくださるほど親密な関係でした(創世記18:17)。私たちはアブラハムが受けた祝福を通して、神が聞き従う人をどれほど喜ばれて祝福されるかよくわかります。
ある人は神のことばに聞き従うことが難しくてつらいと言います。それでは、なぜこのような人は難しくてつらいと言うのでしょうか? それは自分の思いと自分の利益に従って行うからです。神のことばに聞き従う心構えを持っている人は、自分の利益や現実を見ません。「私がどうすれば聞き従えるだろうか」を考えて行おうとします。このような人は自分の思いと限界を打ち砕いて従い、結局驚くべき神のみわざを体験するようになるのです。
しかし、現実を見て相変わらず自分の思いを働かせば、不従順を産むものです。その結果は何でしょうか? 試練や患難や苦しみの連続です。
アダムの息子カインは神に血のいけにえをささげなければならないことを知っていながらも、自分の思いの中で地の作物でいけにえをささげました。しかし、弟アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来て、血のいけにえをささげました。 それで、神がアベルとそのささげ物とだけに目を留められました。すると、カインはアベルをねたんで、彼に襲いかかって殺したのです。つまり、不従順が殺人を招いて、結局呪われるようになりました。
サウル王はどうだったでしょうか? ペリシテとの戦争を控えて、預言者サムエルが定められた期限に来ないと、祭司だけがささげられる全焼のいけにえを自分がささげるというとんでもないことをしました。これは律法に反する行為だったので、サムエルが責めると、むしろ言い訳だけをしました。サウルは自分の思いが先に立つと、聞き従わないで、越権行為をしたことも悟れなかったのです。
また、神がアマレクとの戦争ですべてのものを聖絶せよと言われたのに、最も良いものは生かしておきます。すると、サムエルが「主は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」と責めたのです(第一サムエル15:22_23)。サウル王のように何度も不順従を繰り返せば、滅びに向かったり、さまざまな試練や患難にあったりするものです。
しかし、聞き従えば、驚くべきみわざが伴います。それはツァレファテのやもめを見てもよくわかります(第一列王17章)。彼女は息子と食べる最後の糧を、エリヤが自分にくださいと言ったとき、そのとおり聞き従いました。すると日照りが終る時まで、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくなりませんでした。肉的に考えればとうてい従えないことですが、ツァレファテのやもめは神のしもべエリヤのことばを信じたので、ただ聞き従って驚くべきみわざを体験できました。このように、聞き従えば驚くべきみわざと祝福が伴うのです。



* まとめと適用

1. 神様は私たちが聞き従えることはもちろん、どんな次元まで聞き従うことを望んでおられるでしょうか?

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2. 従えば祝福だとわかっていながらも、従えない理由は何でしょうか?

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3. アブラハムは神がひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたとき、どうして少しも躊躇しないで聞き従えたのでしょうか?

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4.次の中で聞き従って祝福された人でない人は誰でしょうか?
①ツァレファテのやもめ ②ナアマン将軍 ③アブラハム ④サウル王



* 今週の課題

自分なりに知恵を働かせていた時のヤコブと、人間の生死禍福をつかさどられる神様にすべてをゆだねた時のヤコブはどう違ったでしょうか? 創世記31_32章を読んできましょう。



* 「用語」を知って力にしましょう!

「全焼のいけにえ」とは?
旧約時代いけにえの方法の一つで、いけにえになる動物を火で焼いて、そのなだめのかおりを神の御前にささげるいけにえである(レビ1:6_9)。いけにえになる動物は傷のない雄に限られ、おもに牛、羊、やぎなどをささげた。貧しい者たちは山鳩、家鳩などをささげることもあった(レビ5:7)。動物をほふって全焼のいけにえとしてささげることは、私たちのいのちそのものを神にささげるという意味である。したがって、全焼のいけにえの霊的な意味は、神のことばの中に完全にとどまって、聖められた生き方をして、すべての人生を神の御前にささげることである。

 
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