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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   信仰の量り(14)「御霊の人が全く聖なるものとされて、性情のとおり用いられるまで」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2013-06-14


読むみことば: ヨハネ4:24
覚えるみことば: ヨハネ4:24
参考にするみことば: 第一テサロニケ5:23
教育目標: 信仰の四段階に入って、飛び抜けた昔の信仰の人々のように性情のとおり用いられるには、どんな段階を経なければならないのか調べてみる。


信仰の四段階に入って御霊の人になったということは、ひとまず器が備えられたという意味です。その次からは、備えられた器に霊の内容物を満たすようになります。やっと満たし始めた状態を「欠如」と言い、器の半分ぐらい超えた状態を「不足」と言い、器を完全に満たせば、この時から全く聖なるものとされるのです。
ところで、信仰の四段階80%から五段階50%未満までは、ぎっしり満たしたとはいえ、まだあちこちにあいた空間が少しは残っている状態です。信仰の五段階50%を超えてこそ、あいた空間までも完全に満たしたといえます。
このように霊の器にあいた空間がなく、霊の内容物を完全に満たしたとしても、器によって材質が違い、大きさと形が違います。ひとまず器を霊の内容物で完全に満たせば、器の材質や大きさと形がそれ以上「肉の痕跡」という障害物として作用しません。神はひとりひとりをその器の材質と形と大きさに従って、特性に合うように活用していかれるのです。


1. 肉の痕跡を変換させる過程

私たちが原罪を持ってこの地上に生まれ、成長しながら接した肉の知識と経験、親から受け継いだ性分や気質のようなものが痕跡のように残っていますが、これを「肉の痕跡」と言います。
たとえば、ある人は徳と愛があふれていますが、気質的に物事をはっきりさせることが苦手で、断らなければならないとき、きっぱり断れません。また、与えることは喜んでしますが、気分によって即興的な人もいて、いつも誠実で正しい姿ですが、多少冷たくて硬い感じを与える人もいます。
御霊の歩みに入れば、このような性分や気質的な面が悪として出てくることはないけれど、肉の痕跡として残り、全く聖なるものの心とは違いがあるのです。それで、信仰の四段階に入れば、このような肉の痕跡のうち、捨てるべきものは捨て、霊的に欠如して足りないものは満たしてこそ、御霊の実が完全に結ばれて、全く聖なるものとされることができるのです。これを「肉の痕跡の変換」と言います。肉の痕跡が神のご性質の中に溶け込みながら、霊的なものに変わるという意味であり、人性も、人の人性でなく、神のご性質に属する人性に変わります。したがって、信仰の四段階からは肉の痕跡を変換させていく過程を経るようになります。これは信仰の五段階の50%を超えるまで続きます。


2. 肉の痕跡変換、一段階(信仰の四段階1-50%未満)

この段階では、肉の痕跡による欠如を満たしていかなければなりません。「欠如」とは、全くないか、少ししかない状態のことを言います。これを大きく三つの分野で調べてみましょう。

まず、愛の欠如を満たさなければなりません。
ある人はとても愛されて育ちましたが、そうでない人もいます。この時、愛されないで育った人は愛の分野に欠如が生じます。それで、御霊の歩みに入って、心に悪はないとしても、愛をどう表現するべきなのかよく悟れません。
たとえば、親から赦されて理解されるけれど、時には叱られて体罰を受けたりもしながら、これが親の愛であることを悟ったとすれば、まことの愛を受けて育った人です。このように愛されて育った人は、赦していだいてあげることだけが愛ではなく、叱って顔をそむけるのも愛であることを心で悟るようになります。ところが、愛が欠如している人は、一方的にいだいてあげて赦すばかりで、それが愛だと思ったり、反対に、一方的に叱って責めるばかりで、それを愛だと思ったりもします。

次に、霊の知識の欠如を満たさなければなりません。
みことばを聞いて知識として積んだとはいえ、まだ自分の心に完全にはなっていないことによって、それが欠如として現れる場合です。
同じみことばでも、霊的に深さが増すほど、そのみことばを悟って適用する次元が変わってきます。ところが、霊の知識の欠如がある人は自分が悟って理解したことがすべてだと思って、さらに深い次元は考えられません。
たとえば、霊の愛は相手の利益を求めるものだと知って、熱心に相手の利益を求めて、必要なものを与えて、相手の困難を先に立って解決してあげます。ところが、こうすることが結果的には相手の利益を求めるよりは、かえって相手がたましいに幸いを得るのを妨げることもあるのです。

最後に、全き善の欠如を満たさなければなりません。
この段階は、悪をもって行う相手に対してどんな悪い感情もなく、心が全く揺れ動かない次元ですから、善の二段階程度と言えます。ですから、全き善に比べれば、まだ消極的な水準の善です。
たとえを挙げれば、規定速度が60kmの2車線道路を走っているとしましょう。後ろからハザードランプをつけた車がスピードを出してついてきます。この時、全き善の欠如がある人は自分だけ法を守って正しく行えばよいと思い、後続車のことは考えません。後続車が追い越せる空き地がある時まで、ちょっとだけスピードを上げて走ってあげればいいのに、自分は交通ルールを守るべきだという限界の中でそうしません。ですから、自分は真理を行っていると言いながら、他の人に被害を与えていないのか、チェックしてみなければならないでしょう。


3. 肉の痕跡の変換、二段階(信仰の四段階50-80%未満)

この段階は肉の痕跡により不足現象が現れるので、完全になるために満たしていく次元です。言いかえれば、全く聖なるものの次元と比べるなら、まだ足りないという意味です。はたして、全く聖なるものとされるのに足りない分野とは何でしょうか?

まず、愛の不足を満たさなければなりません。
これは、たとえば、理解して赦してあげることにしたとき、どの線までしなければならないのか、見分けられないことを言います。理解して赦しますが、ある時は限界を引かなければならない時があって、ある時は度を越すほどしてあげなければならない場合もあるのです。同じように理解していだく方法を選ぶとしても、どの場合は線を引いて相手が自分で立ち上がるようにするかと思えば、反対に、あふれるほどの慰めと激励を通して、相手が感動して変えられるようにする場合もあります。
したがって、さらに深みがあって細やかな愛の次元があることを悟り、足りない分野を満たさなければなりません。

次に、霊の知識の不足を満たさなければなりません。
霊の知識の欠如と比べると、それでも父なる神の心をさらに深く悟って推し量りますが、まだ足りない状態のことを言います。同じ霊の知識でも、そのみことばを心にどれほど耕しているのかによって、活用範囲と活用方法が違ってきます。あるみことばを10種類に活用して適用できるとするとき、まだ5-6種類しか活用できない次元です。

最後に、全き善の不足です。
規定速度が60kmの2車線道路を走っていますが、後ろからハザードランプをつけた車がスピードを出してついてきます。この時、全き善が足りない人は、ある時は後続車の立場を考えて早く走りますが、ある時はそうしません。最大限相手に配慮しますが、毎回そうできないのです。したがって、ある働きをするとき、自分は他の人の立場をどれほど配慮しているのか、調べるようにお願いします。
全き善と言えるならば、善の四段階が心に臨んでいなければなりません。しかし、善の三段階だけ完全に臨んでいても、全き善に近いと認められます。


4. 肉の痕跡の変換を通して活用する方法を悟る段階(信仰の四段階80%-信仰の五段階50%未満)

このように肉の痕跡が完全に変換されれば、その時からは「性情」すなわち「各人が持っている固有の気質や性分的な面」が神のご性質の中で美しく発揮されます。前はこのような固有の気質や性分が肉の痕跡として残って、完全になるのに障害物になったとすれば、肉の痕跡を完全に変換させた後からは、固有の気質や性分、すなわち、各人の性情が、その人だけの特別な長所として活用されるということです。
ところで、信仰の四段階80%から信仰の五段階5%未満は、まだ肉の痕跡が完全に変換されて活用していく段階ではありません。ある時は肉の痕跡が出てくる時もあって、ある時は肉の痕跡が変換されて出る時もあります。それで、自分でも「私は御霊の人なのか? 全く聖なるものとされた人なのか?」と思う時もあります。それでも神は四段階80%からは全く聖なるものと認めてくださって、ご自身でつかさどって導いていかれます。


5.肉の痕跡が完全に性情のとおり用いられる段階(信仰の五段階50%以上)

器ごとに持っている材質と大きさと形の特性が、まさにひとりひとりの「性情」に当たります。聖書を読めば、エリヤ、エノク、アブラハム、モーセ、使徒パウロなどは、肉の痕跡を完全に変換させた後、自分だけが持っている性情の特徴に応じて、神の国に尊く用いられました。
例を挙げれば、モーセには義憤があって、せっかちな性分もありました。そんな彼が後日、地上のだれにもまさって非常に謙遜だと神に認められます。そして、以前の義憤とせっかちな性分が、今は民に向けられた熱情に変わって現れます。熱い性分があるので、これが完全に変えられた後は、数多くの民のつぶやきと恨みまでもその心の中にすべて入れられる、偉い者になりました。民のための断腸の悲しみと自分の救いを引き換えにしながらも、民を愛をもって導いていきました。モーセの熱情は最後の瞬間まで消えることを知らなかったのです。
もし預言者モーセがなまぬるくて冷たい性分だったなら、民へのあれほどの熱情を持って導いていけなかったでしょう。あの数多くの民を導かなければならなかった四十年の荒野生活に疲れてしまうこともあります。このようにモーセの性情が霊的に完全に変えられて用いられたので、あの大きい使命を見事に果たせました。
したがって、皆さんも昔の信仰の人々のように、悪はどんな悪でも避けるだけでなく、すみやかに御霊の人になり、肉の痕跡を完全に変換させた後、各自の性情によって尊く用いられますように。


* 知って力にしましょう!

「善の四段階」
善の一段階:悪に悪をもって対抗せず、感情を抑えて我慢する段階。人が見ては善だが、神は善だと言われない。
善の二段階:悪に悪をもって対抗せず、どんな悪い感情もいだかない善
善の三段階:悪をもって行う者に、かえって感動を与えられる善
善の四段階:悪い者のためにいのちをも与えられる最高の善

 
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