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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第4課「ただイエス・キリストの御名によって」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2013-01-27


読むみことば: ピリピ2:11
覚えるみことば: ヨハネ14:6
参考にするみことば: 使徒3:6,16:18; エペソ5:20
教育目標: イエス・キリストの御名に込められた霊的権威を知って、救いはもちろん、答えられて祝福され、力ある生き方をするようにする。

信仰がある人は祈りを通して答えと祝福のみわざを体験します。ところで、祈るとき、ある人たちは習慣的に「イエス様の御名によってお祈りします」と言うかと思えば、「イエス・キリストの御名によってお祈りします」と言ったりします。
はたして祈りはどう終えたら正しいでしょうか? ひょっとして「そんなことまで気を遣うのか」と思うかもしれませんが、決してそうではありません。イエス・キリストの御名には重要な意味が含まれていて、その権威が途方もなく大きいからです。


1. 唯一の救い主イエス・キリスト

聖書はイエス様が唯一の救い主であることを知らせています。[ヨハネ14:6]に「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とあり、[使徒4:12]には「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」とあります。
最初の人アダムが罪を犯したことによって、すべての人類は「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)というみことばどおり、永遠の死である地獄に行くしかありませんでした。神との間を隔てている罪の問題が解決されてこそ、救われて天国に行けます。これを解決するためにイエス様がこの地上に来られて十字架につけられ、血を注ぎ出して死なれました。イエス・キリストの尊い血によって私たちの罪を贖い、救いの道を開いてくださったのです。
それでは、イエス様が救い主の使命を全うされたのはいつでしょうか? 木の十字架にかかって死なれ、墓に葬られて三日目に死の力を打ち破ってよみがえられたとき、初めて救い主になられました。ですから、イエス様がよみがえられた後には、救い主という意味が込められた「キリスト」を付け加えて「イエス・キリスト」と言わなければなりません(ピリピ2:6-11)。
聖書を読めば、このような霊的な意味がわかったイエス様の弟子たちと使徒たちは、祈ったりみことばを宣べ伝えたりするとき、「イエス様」と言わないで「主」や「キリスト」を付け加えました。使徒パウロは「イエス・キリスト」で終わらないで、さらに強調して「私たちの主イエス・キリスト」という表現をよく使いました。[エペソ5:20]には「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」、[ローマ7:25]には「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と記しました。[ガラテヤ6:14]には「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」と記しています。この他にも、聖書のあちこちに「私たちの主イエス・キリスト」という表現が多くあります。


2. イエスとイエス・キリストの名前に込められた意味

私たちの目には見えませんが、霊の世界では、神に属する人々と敵である悪魔・サタンとの間に激しい戦いが行われています。敵である悪魔・サタンは何としてでも信仰の人々が罪を犯すように惑わして、ほえたける獅子のように獲物を捜し求めています。それで、[第一ペテロ5:8]に「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあるのです。
このような霊的戦争で勝利するためには「イエス」と「イエス・キリスト」という名前に込められた意味を正確に知らなければなりません。また「イエス様」の御名によって祈ることと「イエス・キリスト」の御名によって祈ることには、その権威と力に途方もない違いがあるということを悟らなければなりません。
「イエス」は救いの摂理を完成される前の呼び名ですが、「イエス・キリスト」という呼び名には、私たちを贖われた血とともに、死の力を打ち破ってよみがえられた救い主という意味が含まれています。ですから、イエス・キリストの御名によって祈るとき、敵である悪魔・サタンは恐ろしくて震えるしかなく、人の力では不可能なことであっても、神の力によって答えをいただくことができるのです。
このような霊的な意味が悟れなくて「イエス様の御名によって祈ります」と言う人が多くいます。私たちはイエスとイエス・キリストの違いと救いの摂理を正確に悟り、「イエス・キリストの御名によって」祈らなければなりません。イエス・キリストを受け入れて、神の子どもとされる特権を得るだけでなく「イエス」と「イエス・キリスト」の違いを正しく知り、力ある信仰生活をされますように。


3.イエス・キリストの御名によって祈る時に伴う権威

[使徒3:6]以下を読めば、ペテロが生まれつき足のなえた人を「ナザレのイエス・キリスト」の名によって歩けるようにしたことがわかります。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせると、足とくるぶしが強くなり、歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しました。また、[使徒16:18]には、使徒パウロが悪霊につかれた人に向かって「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言ったら、即座に、霊は出て行きました。このようにイエス・キリストの御名によって祈るとき、驚くべきみわざが現れたのです。
それでは、私たちがなぜイエス・キリストと言わなければならないのか、一つたとえを挙げてみましょう。もし泥棒がそばにいるのに警察が彼を見てもわからないなら、泥棒は恐れないで逃げることもありません。しかし、警察が自分の正体を知っていると思ったなら、泥棒はどうするでしょうか? 捕まることがはっきりしているので、泥棒は警察を恐れて、いち早く逃げるか隠れるかするでしょう。
敵である悪魔も同じです。皆さんが正確に救いの摂理を知って「イエス・キリストの御名によって祈ります」と言うのと、漠然と「イエス様の御名によって祈ります」と言うのとでは、その権威が全く違ってきます。自分ではできないことも、救い主であるイエス・キリストにあってはできると信じて祈るので、大胆で力ある祈りになるのです。
皆さんが祈りで悪い霊を退ける時も、イエス・キリストがすでに敵である悪魔・サタンの死の力を打ち破られたことを知って、勝利された主の御名によって命じれば、敵である悪魔・サタンが恐ろしくて震えて退きます。このようなことをしっかり覚えて、「イエス様の御名によって」祈るのではなく、「イエス・キリストの御名によって」あるいは「主イエス・キリストの御名によって」祈りますように。
ところで、時々「ナザレのイエス・キリストの御名によって祈ります」と言う人々がいます。聖書で「ナザレ」を付け加えた理由は、イエス様がナザレでお育ちになったからです。したがって、イスラエルでない他の国では、ナザレという地名を入れる必要はなく、「イエス・キリストの御名によって」祈ればよろしいでしょう。


4.イエス・キリストの御名で祈ってもみわざが起こらない場合

いくら神を信じて信仰生活が長く、いろいろな務めがあるとしても、相変わらず罪の中で生きていくなら、霊的な力がありません。だから、イエス・キリストの御名によって退ける祈りをしても、試練や患難が離れないのです。まるで汚いものに虫がたかるように、敵である悪魔・サタンが続けて働き、苦しめるのです。
反対に、たとえ子どもでも、神を愛してみことばどおり生きていれば、その子どもには霊的な力が伴うようになります。その子がイエス・キリストの御名によって退ければ、敵である悪魔が従って離れます。誰でも本当に真理のうちに生きて、きよい心に変えられて聖なる行いをすると、自分の日常生活から闇が退くだけでなく、他の人のために祈る時も、神のみわざが現れます。
しかし、世でいくら認められている人でも、イエス・キリストを受け入れないで悪を捨てなければ、霊的な権威が伴いません。主を信じて、悪のない聖められた人だけに霊的な権威が伴い、神のみわざが現れます。
聖められた神のまことの子どもになり、イエス・キリストの御名によって祈ることは何でも驚くべき答えと祝福をいただいて、神に栄光をお帰ししますように。


* まとめと適用

1. 次の説明で間違っているものを選びなさい。
①イエス様は十字架につけられて死なれた後、死の力を打ち破ってよみがえられたとき、初めて救い主になられた。
②主がよみがえられた後には「イエス」ではなく「イエス・キリスト」と表現するのが正しい。
③「イエス」というお名前は、ご自分の民を罪から救い出した者という意味である。
④罪の中で生きていながらイエス・キリストの御名によって敵である悪魔・サタンを退けても、神のみわざが伴わない。

2. なぜ「イエス様の御名によって祈ります」ではなく「イエス・キリストの御名によって祈ります」と言わなければならないのでしょうか?

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* 今週の課題

イエス・キリストを救い主として受け入れましたが、自分が確かに救われて天国に行けるという証拠はどこにあるでしょうか? 次回までに考えてきましょう。


* 地名を知って力にしましょう!

「ナザレ」
イエス様が公生涯を始める前まで住んでおられた、南部ガリラヤにある村である。おとめマリヤはナザレで受胎告知を受けたが(ルカ1:26-33)、みどり子イエス様がお生まれになった場所はヨセフの本籍地であるベツレヘムだった。ヨセフとマリヤはイエス様とともにヘロデ王を避けてエジプトに行き、またナザレに戻った。その後、イエス様はナザレでお育ちになり(ルカ2:39-51)、30歳頃にナザレを離れられた。

 
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