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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第18課「神の七つの御霊(1)」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2013-05-24


読むみことば: 黙示録5:6
覚えるみことば: ヨハネ4:24
参考にするみことば: ヤコブ4:2-3
教育目標: 神の心である七つの御霊は私たちのどんな分野を測るかを正確に知って、公義にかなう答えと祝福を受けるようにする。

七つの御霊とは、霊そのものである神の心のことを言います(ヨハネ4:24)。私たちが答えられるためには、神の心を知って、そのみこころにかなうように求めなければなりません。このようなお心と答えの基準を示してくれるのが、まさに七つの御霊です。ここで「七」という数字は、神の御霊が七つだという意味ではなく、霊的に「完全である」という意味であって、完全な神の霊を表しています。
神は全世界のすべての人の子らをあまねく見渡されるとき、神の心である七つの御霊をお遣わしになります(黙示録5:6)。七つの御霊がすべての人の心と行いを探って、お心にかなう人に公義に合わせて答えと祝福を与えてくださいます。たとえば、肉や野菜を買うとき、秤の重さ分の代価を払って買うように、七つの御霊は神が私たちに答えを与えるために測られる秤だと言えます。
それでは、七つの御霊が測るものは、はたして何でしょうか?


第一に、信仰を測ります。

聖書には確かに「あなたがたの信仰のとおりになれ」と書いてあります。ところが、神からお答えがないなら、持っている信仰が心から信じられる霊の信仰ではなく、知識としてだけ知っている肉の信仰だからです。私たちが頭で知って、口で告白するからといって、信仰が与えられるのではありません。神が認められる霊の信仰は、現実として目に見えなくて、人間の思いや知識に合わなくても、心から疑わないで信じる信仰です。何もない無から有が創造されることを信じるのです。
このような霊の信仰は、自分が欲しいからといって、思いのままに持てるのではありません。罪と悪を捨てて聖められるほど、上から神が与えてくださいます。それでは、霊の信仰を持つためには、どうすべきでしょうか?
必ず戒めを守る行いがなければなりません。神が「しなさい」と言われたことはして、「してはならない」と言われたことはしてはいけません。また、「避けなさい、捨てなさい」と言われたことは避けて捨て、「守りなさい」と言われたことは守らなければなりません。このように真理のとおりに守り行うとき、自分の心に責められることがないので、神の御前に大胆に出ることができます。そうすれば、求めるものは何でも神が答えて祝福してくださるのです。
霊の信仰には必ず行いが伴うものです。みことばどおりに行わなければ、霊の信仰を持つことができません。しかも罪を犯している人なら、いくら口で「信じます」と言っても、答えられる信仰が持てません。罪を悔い改めて、光の中を歩む時だけ、上から霊の信仰が与えられるのです。
それでは、七つの御霊が一番先に信仰を測る理由は何でしょうか? 神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、他の分野も測られるからです。公義の神はひとりひとりの信仰の量りに応じて、七つの御霊が測る答えの基準をそれぞれ違うように定められました。まず信仰を測ってから、残りの六つの分野もその信仰の量りに応じた基準を適用されます。
ところで、大きい問題に答えられるためには、自分の信仰の量りを飛び越える行いが必要です。そうするとき、信仰も一段階成長できるのです。


第二に、喜びを測ります。

喜びは、救われた神の子どもとされたという代表的な証拠です。私たちは永遠の死である地獄から、永遠のいのちを得て天国に行くようになったのですから、いつも喜んでいるしかありません。主を信じる前は、世のあらゆる問題によって涙、悲しみ、憂い、心配の中で苦しみながら生きていたでしょう。ところが、神の子どもとされて、その愛と恵みをいただいたのですから、日々天国の望みと喜びがあふれるしかないのです。
ある人は「私は神様を信じる前も喜んで生きていました」と言いますが、これは喜べるようなことがある時だけ喜んでいたのです。苦しみやつらいことがやって来れば悲しんで、すぐ心から喜びが消えてしまいます。自分の利益に合って、自分が見て良い時に出てくる、条件つきで状況によって変わることがある喜びだったのです。
一方、信仰があって霊的な喜びが臨んだ人は、状況と条件に関わらず、いつも喜んでいます。世の何よりも尊い永遠のいのちを得て、天国が心に満ちているので、心からいつも喜んでいるのです。時には神の国とその義のために、死にかけている魂たちのために悲しむ時もありますが、心の奥からの喜びは尽きないのです。
このような霊的な喜びは救われた神の子どもたちだけが持てる特権です。これによって、世の人とクリスチャンを見分けることができるのです。クリスチャンにとって喜びは信仰があるという証拠です。神への確かな信仰があり、答えてくださることを信じる人は、たとえ現実は苦しくても喜びます。このような人はいつもみことばどおり生きようと努めて、神に喜ばれることを探して行います。ですから、神との平和、周りの人たちとの平和はもちろん、自分とも平和を保って、喜びが湧き上がるのです。


第三に、祈りを測ります。

七つの御霊は私たちが「絶えず祈っているのか、みこころにかなうように祈っているのか」などを測ります。何が何でも長い時間祈るからといって合格するのではなく、短い時間祈っても、神の心にかなう祈りをしなければなりません。

神の心にかなう祈りはまず、神が「絶えず祈りなさい。」と言われたように、毎日、いつものように習慣的に祈ることです。このような人は霊的に目を覚ましていて、どんな誘惑にも陥りません。仮に誘惑がやって来ても、すみやかに通り抜けます。

また、ひざまずいて祈らなければなりません。聖書の預言者たちはもちろん、イエス様もひざまずいて祈られました。全知全能の神の御前に人間の力でできないことを求めるなら、へりくだってひざまずいて申し上げるのは当たり前のことです。

次に、自分の願いではなく、父なる神のみこころにかなうように祈らなければなりません。イエス様も[ルカ22:42]で「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と言われたように、祈りは自分の願いではなく、みこころに従ってしなければなりません。[ヤコブ4:2-3]に「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあるように、欲や快楽のために願うことは、みこころにかなわないので答えられません。[マタイ6:33]に「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」とあるように、自分の利益がまず第一なのでなく、神の国のためにまず求めなければなりません。

その次に、苦しみもだえて、切に主を呼び求めて祈らなければなりません。イエス様がどれほど苦しみもだえて、いよいよ切に祈られたのか、「汗が血のしずくのように地に落ちた」と記されてあります(ルカ22:44)。私たちは血のしずくまでではなくても、汗が出るほど苦しみもだえて祈らなければなりません。これが答えられる霊の世界の法則です。[創世記3:19]に「あなたは、顔に汗を流して糧を得、」とあります。肉的にも汗を流して働いてこそ糧を得るように、霊的にも答えられるためには汗を流す労苦が必ず伴わなければなりません。
それで、神は聖書のあちこちに、主を呼び求めて祈らなければならないことを記しておかれました(エレミヤ29:12、33:3)。イエス様はこのようなみこころをよくご存じだったので、大声をあげて祈られました。死んで四日になったラザロをよみがえらせる時も、大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれました。十字架につけられた時も、大声で祈られました。[ルカ23:46]に「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」とあります。このようにイエス様も父なる神のみこころに従って、いつも大声で神を呼び求めて祈られました。

また、心を尽くして祈らなければなりません。神は人のうわべではなく、心をご覧になります。心を尽くした祈りとは、心から切に願うことを口に出して祈ることを言います。いくら聖なる姿で流ちょうな言葉で祈っても、神がご覧になるのは心の真実であることを忘れてはいけません。

最後に、祈りは必ず信仰と愛をもってしなければなりません。[ヤコブ1:6-7]に「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」とあります。「本当に答えられるだろうか。答えられなかったらどうしよう」と疑いながら祈るなら、答えられません。本当に生ける神が答えられることを信じて、神を愛する心をもって祈ってこそ、喜んでお受けになるのです。もし祈る時に信仰と愛なしにささげるなら、神がかがれるほどの香になりません。したがって、短い時間祈っても、必ず信仰と愛をもって心を尽くして祈り、求めるものは何でもすみやかに答えられますように。



* まとめと適用

1. (  )の中にふさわしい言葉を入れてください。
七つの御霊とは、(  )そのものである神の心のことを言う。私たちが答えられるために、神の心と答えの(  )を示してくれるのが七つの御霊である。

2. 七つの御霊が一番先に測るのは何で、どうすればそれが持てるでしょうか?

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3. 七つの御霊が二番目に測るのは何で、それは世のものとどう違うでしょうか?

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4. 七つの御霊が三番目に測るのは何で、どうすれば神のお心にかなうでしょうか?

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* 今週の課題

今まで切に祈ったつもりだったのに答えがなかったことがあるなら、その理由は何でしょうか?


* 「用語」を知って力にしましょう!

「公義」とは?
善であれ悪であれ公平に賞罰を執行される神の性分、または属性のことを言う。この時、「善悪」を分ける基準は、真理そのものである聖書66巻のみことばである。神はまことに正しいお方なので、不法、不正、えこひいき、偽り、闇が全くない。神は初めに定められた法と秩序に従って、正しく世を治めておられる。人間を耕作される時も、人の子らを善であれ悪であれ公正にさばかれて、おのおのに賞罰を与えられる。

 
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