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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   御霊の実(4)- 寛容  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2013-06-07


読むみことば: ガラテヤ5:22-23
覚えるみことば: 詩篇126:5
参考にするみことば: マタイ11:24、第一コリント13:4-7
教育目標: 世で言う寛容と神が言われる霊的な寛容について調べ、寛容の実を結ぶようにする。

人生において「寛容を示すのか、そうでないのか」によって、幸不幸が左右されることがよくあります。親子の間で、あるいは夫婦や兄弟、友だちの間で、互いに寛容を示さないで、取り返しのつかない後悔を生んだりします。また、学業や職業、事業での成功と失敗が分れたりもします。このように寛容というものは、まことに重要な人生の要素です。


1. 寛容を示すこと自体が必要ない寛容

霊的な意味の寛容と世の人々が言う寛容とは違います。世の人々も寛容を示しますが、ほとんどうわべだけのものです。感情が傷つくことが起これば、無理に寛容であろうと、どれほど苦しむでしょうか。うわべですべてを受け入れているようでも、心の中では恨みを持ち、ノイローゼやうつ病のような病気になったりもします。
しかし、霊的な寛容は、悪をもって無理に寛容を示すのではなく、善の心で寛容に受け入れるのです。そうすると、つらいことも希望をもって感謝するので勝ち抜き、結果的にもっと大きい心になります。
ところが、悪をもって無理に寛容を示せば、わだかまりが残って病気になったり、ますます性格が荒っぽくなったりします。たとえば、誰かが何の理由もなく汚い言葉を言って自分を苦しめたとき、自尊心が傷ついて悔しいけれど、「神様のみことばどおり寛容を示さなくちゃ」と言いながら無理に我慢します。ところが、だんだん顔が赤くなって、息が荒くなり、心を落ち着けるために口を閉じてひと言も言いません。そうするうちに、あることで限界にぶつかったとき、爆発してしまうのです。これは肉的な寛容です。
霊的な寛容の実が結ばれれば、どんな目にあっても揺れ動くことがありません。何の理由もなく非難されても、「誤解があるかも」と思い、何としてでも相手の心を解こうとします。ですから、「寛容を示す」とか「赦す」ということ自体が必要ないのです。


2. 寛容の実とは

愛の章と呼ばれる第一コリント13章にある「寛容」は、愛を心に耕すための寛容です。つまり、自分をひどく苦しめる人や迫ってくる試練を寛容に受け入れることを言います。一方、御霊の九つの実の「寛容」は、すべてに対して寛容を尽くすことで、愛の章の「寛容」より次元がさらに高いのです。これは神の国を建て上げるため、自分の聖潔や願いをかなえるために伴う苦しみをすべて寛容を尽くして受け入れることです。悲しみが伴い、全身全霊を注ぎ込む労苦も伴いますが、その実を目で見るという希望があるので、信仰と愛をもって待つのです。このような御霊の実の寛容を大きく三つに分けて調べてみます。

 1) 心を改造するための寛容
心に悪が多いほど、寛容に受け入れるのは難しいです。憤り、高ぶり、欲、自分の義と枠が強ければ、ささいなことにも怒りが込み上がってきて、心が揺れ動き、むなしくなります。
私たちが聖められたほど、寛容を示すのもやさしくなります。いくら苦しい状況に置かれても、待つことができるのです。<ルカ8:15>に「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」とあります。つまり、良い地のような心を持った人は、実を結ぶまで寛容に耐えられるという意味です。
したがって、自分の心を耕して良い地にするためには、努力と忍耐が必要なのです。心の聖めは、切に願うからといって自然になるのではありません。切なる心で火のように祈って断食しながら、徹底的に自分を捨てなければなりません。つらいからといって、途中で休んでもいけないのです。罪の性質を完全に引き抜く時まで、全力投球しなければなりません。
罪の性質の根の根まで引き抜かなければ、受け入れられない状況や悔しいことにあえば、以前の姿がまた出てきます。この時、熱心に祈って捨てたと思っていたのに、同じ真理に逆らうものがまた発見されれば、失望していやになったりもします。それでも挫折したりあきらめたりしないで、変えられる自分の姿を期待しながら、最後まで寛容をもって努力しなければなりません。
罪の性質の根の根を引き抜くまでは、前のような真理に逆らう姿がまた出てくることもあります。かといって、霊的な発展がないわけではありません。私たちが玉ネギの皮をむいてはまたむいても、またむくものが出てきますが、むき続ければ完全にむけるようなものです。

2) 人に対する寛容
人は育った環境、学んだこと、性格、教養がそれぞれ違います。ですから、全く同じものを見ても、互いに考えと意見が違ってくるしかありません。特に自分の義が強い人は、相手と意見が合わなければ、ことごとに引っかかって、争いが起きます。ですから、相手のせいにして「あの人とは考え方があんまりにも違いすぎるんです。性格が合わないから、とうてい一緒に働くのは無理です」と言うのです。夫婦の間でも、性格、生活習慣、好みが合う人がどれだけいるでしょうか。互いに譲って相手に合わせていかなければなりません。聖潔を慕うなら、どんな状況でも、自分と合わない人に会う時も、寛容に受け入れて理解するべきです。いつも相手の利益を求めて、仮にその人が悪を行っても、悪をもって報いないで、善をもって対するべきです。
特に神の国を実現するために伝道して訪問する時も、寛容を尽くさなければなりません。長い歳月、真理で教えても、変えられるのが遅い人々がいるからです。ひょっとして世と友になって神の栄光を遮るとしても、あきらめないで、いつか変えられるだろうという希望をもって寛容に待ち、切に祈らなければなりません。
教会で働き人を育てる時も同じです。多くの歳月を寛容を尽くして待たなければなりません。今すぐは事が遅れているようで、実が足りなくても、「あなたはやれそうもないから、やめてください」と言いません。いっそ能力のある人がひとりでするならはるかに早く進められることも、そうしないで待ってあげます。ひとりでもつまずかせないで、神の国をさらに完全に実現するためです。
このように寛容の種を蒔いていけば、必ず神の公義に従って実を結びます。彼らが変えられるまで、涙で祈りながら寛容を尽くして待つなら、結局彼らをいだける大きい心になって、多くの魂にいのちを与える権威と力が与えられるのです。寛容の種を蒔いたなら、神は必ず祝福の実を刈り取らせるのです。

3) 神への寛容
神への寛容とは、神の御前に祈って求めたことが答えられるまで寛容に待つことを言います。<マルコ11:24>に「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とあります。まことの信仰があるならば、祈ることは何でもすでに答えられたと信じます。
私たちが神に求めたことが答えられるためには、祈るだけでなく、みことばどおり行わなければなりません。たとえば、学校の成績が中くらいの子どもが「全校で一番になるようにしてください」と祈りながら、授業時間には他のことを考えていれば、決して一番になれません。熱心に勉強して切に祈るとき、神が知恵を下さって、一番になれるようにしてくださるのです。
聖書では、神が必ず祈りに答えられるという数多くの約束を下さっています。しかし、人のほうから寛容に待てないので、答えられないことが多いのです。自分のほうではとても急いでいるのに、すぐに答えが来ないと思うのです。全知全能の神は将来のすべてのことをご存じなので、最もふさわしい時に答えを下さいます。もし祈祷課題が大きくて重要ならば、公義にかなうように、それだけ祈りの量を満たさなければなりません。
ところが、人は切に祈って断食しながらすがっても、すぐ答えがなければ、「神様は聞いてくださらないようだ」と簡単にあきらめてしまいます。すでに答えられたと信じて祈ったならば、あきらめたり落ち込んだりしません。ただし、どれほど自分が信じて祈ったかが大切なのです。答えられる信仰があるなら、実として手に握れる時まで、変らず祈りながら、信仰によって行わなければなりません。
<詩篇126:5>に「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」とあります。種を蒔いて育てる過程には、労苦と涙と悲しみが伴うものです。その終わりには、必ず公義の法則に従って、刈り取りの喜びがあります。皆さんは霊の愛をもって寛容を尽くして待つことによって、すべての分野で見事な実を結びますように。


* まとめと適用

1.第一コリント13章にある霊の愛の「寛容」と、ガラテヤ5章にある御霊の実の「寛容」の違いを書いてください。

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2. (  )の中に合う言葉を入れてください。
御霊の実の寛容は大きく三つに分けられる。
第一、(  )を(    )するための寛容、
第二、(  )に対する寛容、
第三、(  )への寛容である。


* 今週の課題

次回は御霊の実の「親切」を学びます。霊の愛の「親切」の項目をもう一度読んできましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!

寛容を意味する「緑柱石」
新しいエルサレムの城壁の第八の土台石である緑柱石は、青あるいは淡い青緑色の宝石で、海の青さが連想される。霊的な意味では、神の国とその義のために、すべてのことにおいて寛容を尽くすことを言う。自分を迫害して呪ったり、憎んで汚い言葉を投げる人に立ち向かわず、同じことをしないで愛をもって寛容に受け入れることを意味する。

 
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