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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   信仰の量り(9)「信仰の岩の上に立つには」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2013-05-13


読むみことば: ローマ12:3
覚えるみことば: ローマ12:3
参考にするみことば: 第一ヨハネ3:15、ヤコブ1:14-15
教育目標: 自分の信仰をチェックして見分けられるように、信仰の岩の上に立てる九つの基準について調べてみる。


信仰の三段階に入れば、行いで犯す肉の行いはもうしません。ささいな肉の行いでも、しょっちゅう繰り返して行うなら、まだ信仰の三段階とは言えません。信仰の三段階で60%以上になれば、肉的なことをもっぱら考えなくなります。つまり、心と思いで犯す罪もほとんど捨てた状態なので、「信仰の岩」の上に立ったと言います。「岩」とは、とても安全で堅固な状態という意味です。岩の上に立てば、信仰がしっかりしていて、どんな状況でも揺るがず、みことばを守り行うことが難しくないし、すべてにおいて信仰によって勝利していけます。
それでは、信仰の岩の上に立ったのか見分けられる基準は何でしょうか?


1)憤りを捨てなければなりません

「憤り」とは、怒りやかんしゃくのような悪い感情が込み上がってくることを言います。憤りを抑えられないと、汚い言葉や荒々しい行動が出てきます。信仰の岩の上に立てば、心でカッとなって腹わたが煮えくりかえることも、ほとんどあってはなりません。もし憤りを無理に抑えるために落ち着かない状態が長い時間続いたり、かんしゃくの混じった言葉や針を含んだ言葉をポンポン投げるようなら、信仰の岩とはほど遠いのです。さらに顔に憤りがはっきり現れて、言葉や行いからも憤りが確かに感じられるのに、自分では信仰の岩の上に立ったと思っているなら、錯覚しているのです。時々、憤っても「かんしゃくを起こしたのではない。怒ったのではない。相手を悟らせるためだ」「これは義憤だ」と言い訳をするなら、これもまた信仰の岩とはほど遠いのです。


2)悪い感情があってはなりません

「悪い感情」とは、憤りより包括的な概念で、心にあるいろいろな真理に逆らうものが感じとともに上がってくるものです。代表的なものが、気を悪くすることと、認められなくてむなしくなることです。誰かが自分に良くないことを言ったり、指摘したり責めたりしたとき、自分に仕えてくれなかったり、自分がしてほしいと思うほど相手がしてくれないとき、気を悪くします。また、人が自分を認めてくれなかったり、自分が働いた分の見返りがないとき、わけもなく誤解されるとき、むなしくなります。
信仰の岩の上に立ったなら、ある程度「役に立たないしもべ」の心(ルカ17:7-10)になって、むなしくなったり気を悪くしたりすることが自分で感じられるほどはありません。ひょっとして錯覚して「私にはそんな悪い感情はない」と思うこともありますが、このように自分を欺けば、信仰の岩の上に立てないのです。


3)心から憎しみ、ねたみ、そねみを捨てなければなりません

表には出さなかったとしても、心で相手を憎み続ければ、これは繰り返し人を殺しているようなもので(第一ヨハネ3:15)、信仰の岩とはほど遠いのです。ねたみ、そねみも明白な肉の行い(ガラテヤ5:19-21)なので、必ず捨てるべき悪です。誰かがほめられるとき、「あの人にはあんな欠けている姿があるのに」という思いがまず浮かんだなら、ねたみがあるのです。真理を喜ぶことがまさに真理の心です。相手が自分より勝っていて、人に愛されて認められ、ほめられることを喜ばなければなりません。ねたみ、そねみを持っていながら、信仰の岩の上に立ったと錯覚してはいけません。


4)ささいな偽りや欺く心を捨てなければなりません

自分の利益のために欺いたり嘘をついているなら、信仰の岩に立ったとは言えません。自分の功を目立たせようと偽って実績を増やすこと、または不利なことは減らしたり、ないように報告することは、偽りと欺く心があるからです。もし目上の人を欺き、教会と牧者を欺いたとしたら、神を意識しないということです。当座は切り抜けしたとしても、結局、試練や患難がやって来て、後にはもっと大きいことも欺く人になります。いくらささいなことでも、欺こうとする心、嘘をついたり隠そうとする心そのものがなくてこそ、信仰の岩の上に立てるのです。


5)さばいて罪に定めることがあってはいけません

人は自分の思いや知識、または自分が見ての善と義を基準にしてさばきます。心をご覧になる神だけがすべてをご存じです。したがって、人をむやみにさばいて罪に定めることは高ぶりであることを知らなければなりません(ヤコブ4:11-12)。さばくと、ほとんどがひそひそ話をしたり、当て推量をしたり、悪口を言って罪に定めるようになります。特に「見分ける」という名目で他の人についてあれこれ言ったり、良くない話を言いふらしたりすることも、戒めなければなりません。人のうわべを見てさばいたり、人の話や噂だけを聞いてさばく人は、信仰の岩とほど遠いのです。


6)移り変わることがあってはなりません

肉の属性の最も大きい特徴の一つが、まさに移り変わることです。一度決めたことを移り変わらず守るのが霊の特徴です。自分との約束はもちろん、他の人との約束を簡単に変えて、さらに神の御前に約束したこともその時々に変える人なら、移り変わる属性がたくさん残っていると悟らなければなりません。
信仰の岩なら、殉教の信仰と言ってよいでしょう。「殉教の信仰」とは、死の脅威と恐怖の前でも、主に対する信仰を捨てないで、移り変わらない信仰です。ところが、日常生活の中でもその時々に移り変わって、神との約束も破る人が、どうして死の脅威の前で移り変わらないことがありましょうか。信仰の岩の上に立つには、肉の属性の代表的な特徴である移り変わる心を必ず捨てなければなりません。


7)姦淫があってはなりません

これは異性を見て心に情欲をいだいたり、思いで犯す姦淫のことです。神は好色、淫乱、不品行、汚れなど、姦淫に関わる罪を厳しく戒められました。信仰の岩の上に立つために優先的に捨てるべきものが、まさに姦淫です。主は「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」と言われました(マタイ5:27-28)。したがって、行いではもちろん、心や思いで犯す姦淫の根の根までも完全に引き抜かなければなりません。


8)欲とむさぼり、私心を捨てなければなりません

欲とむさぼりは物質、名誉、権威、容貌など、いろいろな分野で表に出てきます。また、私心とは、情と欲に従って個人の利益を求める心です。最も代表的なものが、まさに物質と関連する問題です。物質への欲やむさぼりがあって、金銭を愛するなら、結局、心が神から遠ざかり、ますます世に落ちて情欲的なものに傾きます。私心も、物質と関連すると、あらゆる不正と腐敗の原因になります。私心があれば、個人的な利益、自分と関わりのある人々の利益をまず取ります。したがって、信仰の岩の上に立つには、欲、むさぼり、私心を必ず捨てなければなりません。


9)裏切る心があってはなりません

 裏切る心は移り変わる心とも関わりがありますが、ずる賢い心と大いに関わりがあります。また、自分の利益を求める心、高ぶりなど、いろいろな悪が複合的に作用して「裏切り」という悪を生むようになります。さらに、大きい恵みを受けた人がその恵みに背いて裏切るなら、これはもっと大きい悪です。
イスカリオテ・ユダは師のイエス様を裏切ってからどれほど苦しんだでしょうか。結局、首をつって死んだのです。使徒パウロは、一緒に働いていて一時そばを離れていた「マルコ・ヨハネ」が再び一緒に働くことを願ったとき、受け入れようとしませんでした。したがって、信仰の岩の上に立つには、裏切る心を根の根まで徹底的に引き抜かなければなりません。

愛する聖徒の皆さん、今まで調べた九つの基準に照らして引っかかるものがないなら、信仰の岩の上に立ったと言えます。信仰の岩なら、殉教の信仰と言えると言いました。死の脅威と恐怖の前でも主に対する信仰を捨てず、移り変わりません。どんな状況でも揺るがないで、すべてにおいて信仰によって勝利できるのです。皆さんはすみやかに神が願われる真理の心に変えられて、御霊の人になりますように。


* まとめと適用

1. 信仰の岩の上に立ったのか見分けられる九つの基準です。(   )に正しい言葉を入れて、自分はどれだけ肉の心を捨てたのかチェックしてみましょう。
憤り、(    )、憎しみ・ねたみ・そねみ、(   )と(   )、
さばいて(     )、姦淫、欲・むさぼり・私心、(    )

2. 九つの捨てるべき悪の中で、皆さんにとって最も大きいものは何ですか? それを完全に捨ててすみやかに御霊に属する心になるためには、祈ってみことばを武具として身に着けなければなりません。もっと火のように祈って、完全に捨てますように。

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* 今週の課題

信仰の岩を過ぎて御霊の歩みに入るにはどうすればよいでしょうか? 御霊の歩みに入るのに妨げになるものは何か考えてきましょう。


* 「人物」を知って力にしましょう!

「マルコ・ヨハネ」
マルコの福音書を記した人で、ユダヤ名は「ヨハネ」であり(使徒12:12)、「マルコ」はラテン名である。バルナバのいとこでもあったマルコは、アンテオケ教会で大きい信頼を得て、パウロとバルナバが第1次伝道旅行に行くとき、パウロの助手として同行するようになる。ところが、伝道旅行の途中で、マルコはひとりでエルサレムへ戻ってくる。第2次伝道旅行の時、バルナバはマルコを一緒に連れて行こうとしたが、パウロは拒否し、ふたりは激しく反目する。それで、パウロはシラスを連れて小アジアに、バルナバはマルコを連れてキプロスに伝道旅行をした。後にマルコは再びパウロに認められて、ともに働くようになったし、パウロは彼について「私の務めのために役に立つからです」と告白した(第二テモテ4:11)。

 
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