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メッセージ >
聖書の学び
Title
愛の章(8) 「愛は人のした悪を思わず」
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2013-04-10
読むみことば: 第一コリント13:5
覚えるみことば: ルカ6:45
参考にするみことば: ヤコブ4:12、ガラテヤ6:7
教育目標: 人のした悪を思うと自分の心にはどんな悪が現れるのかを調べ、心にある悪の性質を捨てて霊の愛を心に耕すようにする。
どんなことでも良い意図で良い動機で解釈する人がいるかと思えば、悪く思って否定的に判断する人がいます。全く本人についての話でないのに、自分のことを言っていると思い、顔が赤くなったり青くなったりして、周りの人たちとしばしば衝突しながら、ささいなことにも過敏に反応します。また、すぐ自尊心が傷ついて、自分を周りから隔離させて生きていったりもします。このように、人が自分に悪をしたと思えば、恨みをいだくようになるのです。これは自分の人生を不幸にするもので、百害あって一利なしだと悟らなければなりません。
1. 愛は人のした悪を思わず
愛の属性のうち「人のした悪を思わないこと」とは、人のした悪のゆえ、その人を恨んだりしないことを言います。たとえば、自分を傷つけた友だちがうまくいくのを見れば、そねんでねたみ、やたらに相手が自慢しているようで憎らしくもなります。「あの人はうまくいってるのに、私は何なの?」「あの人、だめになったらいいのに」という思いがよぎったなら、これがまさに人を恨んでいるということなのです。
それでは、人のした悪を思うと、自分の心にはどんな悪が現れるのでしょうか? みことばに照らして、大きく三つに分けられます。
第一に、相手がうまくいかないように願います。
心に霊の愛があれば、決して人の不幸を願うことはありません。愛する人が病気になったり、事故が起きてほしいと思う人はいないでしょう。自分の妻が、夫が、子どもが、いつも健康で無事であってほしいのです。
ところが、人がうまくいかなければいいと思い、相手の不幸を喜ぶことは、それだけ愛がないという証拠です。愛がなければ、人の過ちや弱点を暴いて伝えようとします。ひょっとして人の悪口に耳をそばだてるなら、自分を顧みなければなりません。もし自分の親をけなされたら、黙っている人はいないし、すぐにやめなさいと叱るでしょう。
ところで、ある場合は人が間違った道に行くのを防いで、助けの手を差し伸べるために、事実を知らなければならないこともあります。そうでないのに、人の話が気になって聞き耳を立てるなら、たいていは悪口とひそひそ話が好きだからです。
<箴言17:9>に「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。」とあります。心が良くて愛のある人は、人のした悪を思うのではなく、そむきの罪をおおってあげようとします。また、心に霊の愛があれば、人を恨んだり、そねんだりねたんだりもせず、その人がうまくいって愛されてほしいと思うのです。
第二に、相手をさばいて罪に定めます。
ある人がクリスチャンとして行ってはいけない所に入るのを見ました。この時、皆さんならば、どんな思いがまず浮ぶでしょうか? 心に悪があるほど「どうしてあんなことができるのか」と良くないほうに思います。もう少し心が良ければ、「なんであんな所に行くんだろう」といぶかしがって、「何か事情があるんだろう」と良いほうに思いを変えます。
しかし、霊の愛があれば、初めから悪い思いそのものが浮かびません。たとえ相手について良くない話を伝え聞いたとしても、事実を確認するまでうかつにさばきません。<ヤコブ4:12>に「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか」とあります。ただ神だけがさばきを行われるのであって、人をさばくことは悪です。
相手が自分に悪を行ったとしても、霊の愛があれば、さばいたり罪に定めたりしません。その人を憐れんで、何としてでも助けようとするのです。霊の愛はそむきの罪をおおって赦すだけでなく、相手が悔い改められるように助けるのです。正しい道に行くように真理を教えて、変えられるように感動を与えます。自分に悪を行った人でも、愛があるので何としてでも信じて助けてあげようとします。このように、人をさばいて罪に定める思いそのものがない時にはじめて幸せでいられるのです。
第三、神のみこころに反することを思います。
人は一般に、道徳的で良心的な人を善良だと言います。しかし、道徳や良心は善の絶対的な基準ではありません。それどころか、神のみこころと反対になるものも多いのです。ただ神のことばだけが善の絶対的な基準です。
主を受け入れたばかりの人は自分が罪人であることを告白します。いくら善良に生きたと自負していた人も、みことばに照らしてみれば、「私は罪人です。私は悪い人です」と告白するしかありません。善の絶対的な基準である神のことばから外れることはすべて悪であり、罪であるからです(第一ヨハネ3:4)。
それでは、罪と悪の違いは何でしょうか? この二つを木にたとえれば、「悪」は地の中にある見えない根のようなものです。「罪」は目に見える幹と葉、実です。根があるので木の幹や葉、実が出てくるように、罪は悪から出てくる産物なのです。つまり、悪は地の中に深々と下ろしている根のように、心の中にある「属性」です。この悪が具体的なかたちとして現れるものが、まさに罪です。それで、<ルカ6:45>に「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」とあるのです。
ある人が汚い言葉を吐いて、トゲのある言葉を口に出すとともに、暴力を行使したとしましょう。これは、心にある「憎しみ」という悪が「汚い言葉」や「トゲのある言葉」「暴力」という行い、すなわち、罪として出てきたものです。
しかし、心に悪があるからといって、必ずしも罪を犯すのではありません。教養があるとかみことばを聞いて自制するなら、罪は犯しません。しかし、心の深いところに根を下ろしている「本性の中にある悪」まですべて捨ててこそ、聖められることができるのです。
神は愛です。神の命令も圧縮すれば「愛」です。結局、人のした悪を思って愛さないことが悪であり、罪であります。神と魂たちを愛するほど、人のした悪を思わず、霊の愛を心に耕せるのです。
2. 人のした悪を思わないためには
人のした悪を思うまいとしても、そうすることはやさしくありません。私たちの心の中に深く根を下ろしている悪があるからです。ですから、根本的には、この恨みを引き起こす悪を捨てるために努力しなければなりません。
悪を捨てるためには、まず悪いことを見て聞いてはなりません。もし見て聞いたならば、思い出したり覚えておかないために努力しなければなりません。思わないようにすればもっと浮かぶので、絶えず努力しなければなりません。火のように祈りながら、聖霊に助けられなければなりません。ひょっとしてでも、わざわざその人がした悪いことを思い出すことはあってはならないし、ふとよぎる悪い思いまで捨てるべきです。
また、悪い行いをともにしても、決していけません。<第二ヨハネ1:10-11>に「あなたがたのところに来る人で、この教え(注・キリストの教え)を持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」とあるとおり、徹底的に悪を警戒して、受け入れてはいけません。
人は、持って生まれた「罪の性質」と、成長しながら見て聞いた「真理に逆らうもの」を土台に自分を作っていきます。主を受け入れた後、罪の性質と真理に逆らうものを発見して捨てていくことが、まさに信仰生活です。罪の性質と真理に逆らうものを捨てるには、多くの忍耐と努力が必要です。この世で生きていきながら、真理よりも真理に逆らうもののほうが慣れていて、真理に逆らうものを受け入れることはやさしいけれど、捨てることは相対的に難しいからです。
しかし、私たちが誰かを熱く愛すれば、その人が好きなものは好きになって、嫌いなものは嫌いになります。同じように、神をこの上なく愛すれば、その命令を守って、悪はどんな悪でも避けられるのです。
<ガラテヤ6:7>に「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあります。ですから、人のした悪を思うことは何の役にも立たないものであり、不正を蒔く者は災いを刈り取るだけです(箴言22:8)。このような悪をいだいていれば、自分だけでなく、愛する子どもが病気にかかったり事故にあったり、貧しくなったり家庭が不和になったりします。
私たちが人のした悪を思わないためには、悪を憎むのと同時に「みことば」と「祈り」が必ず伴わなければなりません。みことばを昼も夜も口ずさんでこそ、悪い思いを退けて、良い思いができるのです。また、火のように祈りながら、みことばをもっと深く黙想して、探り窮めてみると、そこまでは悟れなかった自分の思いと言葉と行いの中にある悪が発見できます。聖霊に満たされて火のように祈るとき、心の悪が捨てられるのです。したがって、みことばと祈りによってすみやかに悪を捨てることで、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得ますように。
* まとめと適用
1. 人のした悪を思うと自分はどうなるのか、( )の中に正しい言葉を入れてください。
①相手が( )ように願います。
②相手を( ) ( )ます。
③神の( )に( )を思います。
2. 罪と悪の違いを書いてください。
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3. 人のした悪を思わないためには、どうすべきでしょうか?
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* 今週の課題
次回は「愛の章」の九回目「愛は不正を喜ばずに真理を喜びます」を学びます。日常生活で不正を喜んで真理を喜ばない姿は自分にないでしょうか? 次回までに考えてきましょう。
* 知って力にしましょう!
第一コリント13章「愛の章」が記された背景
使徒パウロは御霊の賜物の問題で議論が起きていたコリント教会に、最もすぐれた賜物を紹介する。1-3節は愛の必要性を、4-7節は愛の本質を、8-13節は愛の永遠性を伝えている。賜物は良いものだが、それが愛という動機から出ていて、利益を与えるものでなければ、何の値うちもないと強調している。霊の愛は賜物を用いることによって現れるのではなく、4-7節で提示している15の徳目によって現れるのである。
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