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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   愛の章(5) 「愛は人をねたまず、自慢せず」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2013-03-05


読むみことば: 第一コリント13:4
覚えるみことば: 第一ヨハネ2:15-16
参考にするみことば: 詩篇37:11
教育目標: 霊の愛を心に耕すためにねたみを捨てるべきであることと、自慢しないとはどんな意味なのか悟る。

そねみ、嫉妬は人にとって怖いがんのような要素です。この特性は、自分とかかわりのない人についてはあまり感じないという点です。たとえば、洋服店を経営している人は、ある会社員が出世して認められても、そねみません。化粧品店をやっている人が、ある農産物店がはやっても、そねみません。
ところが、同じ業種やライバル関係にある時には、全く違う現象が現れます。近所に同じ業種の飲食店がありますが、そこがはやれば、嫌いになって不安になります。お客さんがその店に押し寄せれば、止めたくなります。このように近い仲やライバル関係にあるとき、そねみや嫉妬がひどくなって、ここからさらにひどくなると、ねたみが出てきます。


1. 愛は人をねたまず

ここで言う「ねたみ」とは、心のそねみ、嫉妬がひどくなり、他人に悪を行うことです。他の人がうまくいったり愛されたりすると心が穏やかでなくなるということは、そねみ、嫉妬があるからです。ですから、自分より知識が多くて裕福だし、能力が大きい人を見れば、自尊心が傷つきます。一緒に入社した同僚はスピード昇進しているのに、自分はいまだに下積みだから、うらやましくもあり、苦々しくなります。力が抜けて働く意欲までなくなります。
このようにそねみ、嫉妬があれば、気を落とすようになります。「あの人は認められて愛されてるのに、私は何だろう。なんで私はこんななのか」とへたり込みます。相手と自分を比べて、劣等感だけが強くなります。
もし霊の愛があるならば、真理を喜ぶでしょう。相手の喜びがそのまま自分の喜びになるからです。ところが、相手がうまくいくから気を落として力が抜けるということは、それだけ愛がないという証拠です。つまり「自我」が生きているということです。他の人より愛されて認められたいという自我が生きていれば、自尊心が傷ついて、そねむようになります。
このようなそねみ、嫉妬がひどくなれば、悪い言葉とはなはだしく悪い行いまで出てくるものです。これがまさに「ねたみ」です。これは相手に害を加えたり、極端な時は人を殺すことまで起きます。ねたみは、悪くて醜い心の罪の性質が表に現れた明白な肉の行いなので、救われにくいのです(ガラテヤ5:19-21)。
サウル王はダビデをねたんで、悲惨な最期を迎えました。ダビデはペリシテの敵将ゴリヤテから国を救った恩人でした。3メートル近い長身に青銅のかぶとで武装したペリシテ最高の戦士ゴリヤテが、四十日間、神とイスラエル軍をなぶりました。それでもサウル王とイスラエル軍は、何も言えないまま震えているだけでした。この時、すい星のように現れたダビデが、神をなぶった敵将を石投げと一つの石をもってただ一度で倒しました。イスラエルは大勝利を収めて、ダビデは一躍国家的英雄になり、民の人気を独占します。後日、サウル王はダビデを戦士たちの長とします。
ところが、サウル王のそねみ、嫉妬を刺激することが起きてしまいます。ダビデがペリシテ人を打って帰って来たとき、数多くの民が出て来て大歓迎します。この時、女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」(第一サムエル18:7)と歌いました。この歌を聞いたサウル王は非常に怒ります。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」と言って、その日からダビデを疑いの目で見るようになります。
翌日、悪い霊に苦められている自分のために琴をひいているダビデに、槍を投げて殺そうとします。また、ペリシテの人の手で死ぬように陰謀を企み、イスラエル最高の戦士たちによって殺そうとしました。執拗なサウル王のねたみは、サウルがペリシテとの戦いで自ら命を絶ってやっと終わりました。
<ヨブ記4:8>に「私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。」とあり、<箴言14:30>に「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」とあります。自分が行った悪はブーメランのように帰ってくるものです。害毒を蒔いた代価として病気になったり、家庭や職場が災いにあったりします。そねみ、嫉妬、ねたみは百害あって一利なしだし、御霊の歩みに入るのに大きい障害物になるので、完全に私たちの心から引き抜かなければなりません。


2. 愛は自慢せず

ある若い弁護士が開業しました。初日の朝、ひとりの人が事務室に入ってこようとすると、すばやく受話機を取り上げて大声で話をするのでした。「はい、会長さん。その問題は私に任せてください。きちんと処理させていただきます。今、お客さまが来られています。後ほど電話差し上げます」と受話機を下ろしました。そして、お客さんに向かって丁重に「どんな用件で来られましたか?」と尋ねました。その時、お客さんが言うには「電話局から来ました。電話線をつないであげようと来たんですが、切れてるのに、そんなふうによく通じてるみたいですね」と言うのでした。
このように、自分を誇りたい心は肉にある人々の心理です。自慢するとは「自分を目立たせること、鼻にかけること」を言います。人はたいてい、他の人より自分が優れている分野があれば、自慢したがります。多くの人の中で目立って、ほめられたいからです。こういう人たちの特徴は、他の人がよくやっているのを認めてほめることは、とても渋ることです。人が目立つほど自分が隠れるので、相手をこき下ろそうとします。ですから、自慢が争いを起こしたりもします。
自慢すれば高められて認められそうですが、心から尊敬されたり愛されたりすることは難しいのです。「あの人はあんなふうに自慢ばっかりしてる」と言って、人々が軽く見て、そねんで嫉妬させるだけです。
<第一ヨハネ2:15-16>に「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とあります。
ここで「暮らし向きの自慢」とは、現実のすべての快楽のために自分を目立たせて誇ろうとする属性のことを言います。肉にある人々は一族や名誉、権勢、高級乗用車、家や宝石などを自慢します。権力者や有名人と懇意にしていれば、肩をそびやかして誇らしく思います。彼らは人生の価値をこの地上に置いているからです。
しかし、これらを自慢しても、自分にとって何の益になるでしょうか。日の下で労苦したすべてのものは空になるし(伝道者1:2-3)、人生は一瞬のうちに咲いて散るだけの野の花のように、すぐ過ぎ去ります(詩篇103:15)。この世の自慢はまことの価値といのちを得られないし、むしろ神に対して反抗し、死の道に向かわせるだけです。
私たちが世を愛するようにさせる肉の性質を捨てれば、自慢したい心や世の富と栄華、名誉を求めようとする欲もなくなります。<第一コリント1:31>に「誇る者は主を誇れ」とあります。自分を高めるためにでなく、神の栄光のために誇りなさいということです。私たちを救ってくださったイエス様の十字架を誇り、神が下さった恵みと答えられた証しをするのは非常に望ましいことです。これは神に栄光を帰すことであり、それを聞く人々に信仰と希望を植えつけるからです。このように主を誇れば、神が喜んで霊肉ともに祝福として報いてくださいます。
ところで、ある場合は、神に栄光を帰すと言いながら、自分を誇ります。「私がこれくらい努力したので、祝福されることができた」と言って、それとなく自分を出すのです。結局は自分の功に帰すのです。ですから、サタンに訴えられて、試練や患難にあったりもします。自分をわかってもらえなければ、神を離れる場合もあります。世の自慢の種は永遠のいのちと満足を与えることができません。むしろむなしい欲を呼び起こし、滅びへ向かうようにさせるだけです。
ですが、私たちの中に天国への望みを満たしていけば、暮らし向きの自慢を捨てられる力が与えられるのです。まるで小さい時はあんなに好きだったおもちゃが、おとなになればつまらなくなるように、心を真理で満たしていけば、肉的な誇りや世にあるものは、あまりにもつまらなくなるのです。
使徒パウロが「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)と告白したように、皆さんは私たちを救って天国を下さったイエス・キリストだけをさらに高めて誇るべきでしょう。


* まとめと適用

1. 次の聖句の中でそねみ、ねたみ、肉的な誇りに関するみことばでないものは?
①第一サムエル15:22 ②箴言14:30 ③ヤコブ4:16 ④第一ヨハネ2:15-16

2. 次の説明の中で正しくないものを選んでください。
①そねみ、嫉妬が発展して、はなはだしく悪い行いとして出てくるものがねたみだ。
②暮らし向きの自慢とは、現実のすべての快楽のために自分を目立たせて誇ろうとする属性である。
③証しは神に栄光を帰すことであり、人々に信仰と希望を植えつける。
④ねたみが発展して、そねみ、嫉妬が出てくる。

3. 皆さんは身近にいる職場の同僚や友だちが愛されてほめられているとき、心から喜ぶほうでしょうか? でなければ、うらやましくなって気を落とすほうでしょうか?


* 今週の課題

次回は「愛の章」の六回目「愛は高慢にならず、礼儀に反することをせず」を学びます。日々の生活の中で高慢な姿、礼儀に反する姿がなかったか考えてきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!

どのように誇るべきか
神はイスラエルの民がどのように誇るべきか、エレミヤを通して教えてくださった。エレミヤ書<9:23-24>「【主】はこう仰せられる。『知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは【主】であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。──【主】の御告げ──」

 
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