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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   愛の章(2) 「霊の愛の重要性」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2013-03-02


読むみことば: 第一コリント13:1-3
覚えるみことば: コロサイ3:23
参考にするみことば: 第一コリント2:6-8
教育目標: 霊の愛の重要性とどうすれば心に霊の愛を耕せるのか調べてみる。

ヨハネの福音書8章を読めば、律法学者とパリサイ人が姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、イエス様に「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と尋ねます。もし律法のとおりすれば、イエス様を愛がないと言うだろうし、「赦しなさい」と言えば、律法を無視すると罪に定めることが明らかでした。この時、イエス様は地面に彼らに当たる罪状を一つ一つ書いていかれました。彼らは自分の罪状を見て、良心の呵責を感じてその場を離れ、女だけが残りました。イエス様は女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。このようにイエス様はいのちを与える霊の愛を持った方であります。
霊の愛がどれほど重要なものか、<第一コリント13:1-3>を中心に調べてみましょう。


1.「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」

ここで「人の異言」とは、異言の賜物でなく、英語、日本語、フランス語など、人々が使う言語のことを意味します。また「御使いの異言」とは、非常に美しい言葉を意味します。美しい声できれいな言葉で話をするとき、「天使のようだ」と言います。霊の愛が込められた言葉には、いのちを与える驚くべき力がありますが、愛のない言葉は、いくら流暢で美しくても、まことの喜びといのちを与えません。軽くて中がからっぽでやかましいどらやシンバルのように、何の価値もないということです。重たい鉄や銅は、たたいてもやかましい音を出しません。どらやシンバルがやかましいとしたら、中がからっぽか軽いからです。
人も、霊の愛がなければ殻と同じです。心の中に愛がぎっしり満たされて、神に似せられたまことの子どもになる時でこそ、人間を耕作しておられる神の御前に麦としての価値があります。「どんな言葉で相手に力になろうか」「どうすれば真理に変えられるようにしようか」と祈って、ひと言を口にしても、相手にいのちを与えようとします。
ところで、ある人はみことばで何が何でも相手を説得しようとしたり、指摘して自分の思いに合わないで気に障る部分を直そうとしたりとします。たとえその言葉が百回正しくても、愛から始まったのではないなら、相手を変えさせることも、まことのいのちを与えることもできません。
したがって、話をするとき、自分の義と枠の中で言っているのではないのか、その言葉がいのちを与える愛から始まったものなのか、顧みなければなりません。どんな流暢な言葉より、霊の愛が込められたひと言が人々を励まし、慰めになるのです。


2.「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」

一般に「予言」とは、将来の事を推測して言うことです。聖書では「預言」と書きますが、これはある目的を持って、聖霊に動かされて神のお心を伝えられ、将来の事を言ったり予測することです。ただし、神からいただく預言は人の思いどおりにできるのではありません。聖霊に動かされた人が神からいただいて語るのです。<第二ペテロ1:21>に「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあるとおりです。
ここで「預言の賜物」とは、特定の人に与えられる賜物だけを意味しているのではありません。主を信じて、真理の中に入ってきた人なら、やがて起ころうとしていることを知って言えることを意味します。つまり、主が天から下って来られると、救われた人は携挙されて七年婚宴に入り、救われない人は七年患難を体験して、白い御座の大審判後、地獄に行くことを知って宣べ伝えるのです。このように預言の賜物があっても、愛がなければ神とかかわりがありません。
また「奥義」とは、世界の始まる前から隠された奥義、すなわち「十字架のことば」のことを言います。十字架のことばとは、人類を救うための摂理で、神が世界の始まる前から備えられたものです。神は、人間が罪を犯して死へと向かうことを知っておられ、すでに世界の始まる前から救い主になるイエス様を備えておられました。この救いの摂理を成就するまで、神は奥義として隠しておかれました。救いの摂理が知られれば、敵である悪魔・サタンが妨げて、成就されないからです(第一コリント2:6-8)。敵である悪魔・サタンは、イエス様を殺せば、アダムが罪を犯したことによって自分たちに任された権力を永遠に持てると思って、悪い人々を操ってイエス様を十字架につけてしまいました。しかし、罪のないイエス様を殺すことによって、かえって救いの道が開かれるようにしたのです。このように驚くべき奥義を知っていても、霊の愛がなくて伝えないなら、何の役にも立ちません。
知識も同じです。「あらゆる知識」とは、単に学問的なことだけでなく、聖書に含まれている真理の知識を意味します。神を知ったならば、神を見つけて体験して、心に信じなければなりません。そうでなければ、知っていることで終わるだけであり、その知識が人をさばいて罪に定める物差しになったりもします。ですから、霊の愛がない知識もやはり、何の役にも立たないのです。
また「山を動かすほどの完全な信仰」を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。イエス様の一番弟子ペテロは、イエス様が水の上を歩かれたとき、おことばに従ってしばらく歩きました。当時、ペテロは聖霊を受けたのでも、罪を捨てて心の割礼をしたものでもないので、霊の愛が臨んでいたのではありません。ですから、自分の命が脅かされるが来ると、イエス様を知らないと言いました。
このように、体験によって信仰は成長できますが、霊の愛は罪を捨てようとする努力と献身、犠牲が伴う時に臨みます。かといって信仰と愛が関係ないのではありません。信仰があるので、罪を捨てて神を愛そうとするのです。しかし、愛を実践しようとする行いがなければ、いくら忠実であっても神に喜ばれません。


3.「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

自分を誇りたくて、形式的に持っている物を貧しい人たちに分け与える人は、ほめられるほど心が高くなるはずです。自分のことを正しいと錯覚して、心の割礼をしないから、結局、何の益にもならないし、自分にとって害になるのです。
しかし、愛から湧き上がる善行をする人は、誰かがわかってくれようがくれまいが、かかわりがありません。隠れた所で見ておられる神が祝福して報いてくださることを信じるからです(マタイ6:3-4)。
犠牲も同じです。「私のからだを焼かれるために渡す」とは、完全に犠牲になることを意味します。犠牲は愛を前提としますが、愛がなくても、いくらでも犠牲になることはできます。つまり、思い切り苦労しておいて、つぶやくのです。自分の力とまこと、時間、物質を尽くして働いたのに、誰もわかってくれないと、むなしくなります。熱心でない人を見れば「神様を愛してると言いながら、どうしてああできるのだろう」とさばくのです。こういう心ならば自分もつらいし、周りの人と平和を破るので、何の益にもなりません。
それなら、信仰があるのに、どのように愛のない犠牲ができるのでしょうか? これは、心から神様のことが自分のことであり、自分のことが神様のことであるという主人意識がないからです。たとえば、農夫が自分の畑の仕事をする時は、朝早くから夜遅くまで熱心に働きます。しかし、他人の仕事をする時は、その心の持ちようが違います。同じように、心に神への愛がなければ、代価をもらって働く人のように、形式的に働いて、すぐに報われなければ、つぶやくようになります。<コロサイ3:23-24>に「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」とあります。霊の愛がない人が自分の持っている物を分け与えて 犠牲になることは、神とかかわりがないので、報いにならないということです。
まことに犠牲になろうとするなら、何より心に霊の愛を耕さなければなりません。心の中に愛が満ちている人は、誰が見ていようがいまいが、わかってくれようがくれまいが、黙々と献身します。まるでローソクが自分のからだを燃やして闇を照らすように、惜しまず自分を渡します。
イエス様の犠牲を通して数えきれない魂が救われたのも、まことの愛をもってなさったからです。イエス様は神を愛されたので、いのち尽きるまでその方のみこころを成し遂げられました。十字架につけられた瞬間も、魂たちのためにとりなしの祈りをささげられました。私たちもイエス様のように、どんな欲や偽りもなく自分を犠牲にする人ならば誰でも、神が高く上げて栄光の座に導いてくださいます。


* まとめと適用

1. 霊の愛に関するみことばはどれでしょうか?
①第一コリント13:1-3 ②コロサイ3:23-24 ③使徒13:3 ④ルカ17:10
2. 信仰はあるのに、どうやって愛のない犠牲ができるでしょうか?

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3.信仰と愛は比例するでしょうか? しないと思うならば、なぜそうなのか理由を書いてください。

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* 今週の課題

次回は「愛の章」の三回目「愛は寛容であり」です。今まで自分が寛容であったこと、寛容でなかったこと、どんな場面でそうだったか、考えてきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!

「啓示」と「預言」の違いは?
「啓示」とは、神から今後なされることを受けることを言う。「預言」とは、啓示された内容を宣べ伝えることを言う。

 
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