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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第30課 「ヨナタンの善」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2010-07-30


読むみことば: 第一サムエル19:4-5
覚えるみことば: 第一サムエル19:4
参考にするみことば: 第一サムエル18:1、第二サムエル1:26
教育目標: 私心なく神のみこころに従って、愛する人が罪を犯さないように力を尽くしたヨナタンの善について調べてみる。

ヨナタンはイスラエルの初代王サウルの長男であり、父の後を継いで王になることもできる人でした。一方、ダビデは、神がサウルを退けて、王の位につけると約束された人です。ですから、常識的に見ると、ダビデとヨナタンは敵になるしかないところでした。しかし、ヨナタンはダビデを敵のように思ったのではなく、かえって自分と同じほどに愛し、その愛することが女の愛にもまさってすばらしかったのです(第一サムエル18:1、第二サムエル1:26)。これは、ダビデの善を見分けられる善なる心がヨナタンにもあったから、可能なことでした。それでは、ヨナタンの美しい善の姿とはどんなものでしょうか?


1. サウル王が罪を犯すことを黙認しなかったヨナタン

ダビデはもともと羊飼いでしたが、ペリシテ人との戦争で、信仰によってペリシテの代表戦士ゴリヤテを撃退したので、イスラエルで有名な者になりました。サウル王は国を救ったダビデを初めは非常に喜んで、戦士たちの長としましたが、彼らを歓迎しに出てきた女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と歌うと、ダビデを憎み始めました。日が経つにつれ、サウル王のねたみはひどくなって、ダビデを殺そうと無理に戦争に出したり、彼の家まで軍隊を送って殺そうとまでしました。
このようにダビデを罪もないのに殺そうとするのを見ていたヨナタンは、父のサウル王が罪を犯そうとすることを黙認しませんでした。それで、<第一サムエル19:4-5>で「王よ、どうか家来ダビデに対して罪を犯さないでください。彼は、あなたに罪を犯さず、また彼のしたことは、あなたのためになることでした。彼は命をかけて、あのペリシテびとを殺し、主はイスラエルの人々に大いなる勝利を与えられたのです。あなたはそれを見て喜ばれました。それであるのに、どうしてゆえなくダビデを殺し、罪なき者の血を流して罪を犯そうとされるのですか」と懇願します。これはどれほど美しい善でしょうか。


2. ダビデを自分と同じほどに愛したヨナタン

1) 私心なく神のみこころに従った善
もし皆さんがヨナタンのような立場なら、サウル王とダビデのうち、どちらの肩を持つでしょうか? 人間的に見れば、サウル王はヨナタンの父であり、一国の王なので、サウル王の言葉に逆らって友だちのダビデを擁護することは、肉的には親不孝であり、不忠になります。しかし、ヨナタンは父のサウルがすでに神に嫌われて、ダビデが次の王になることが神のみこころであることがわかりました。ヨナタンは次期の王になることができる立場でしたが、むしろ神のみこころを私心なく受け入れて、ダビデを助けました。
イエス様の道を備えたバプテスマのヨハネは、救い主として来られたイエス様がわかり、自分について来ていた人々がイエス様のほうに行くのを見ましたが、どんな心だったでしょうか? <ヨハネ3:30>で「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と告白しました。このように、神のみこころが成し遂げられることなら、自分の名誉と栄光も喜んであきらめられる心が、まさに神がご覧になる時の善なのです。
ところが、多くの人が神の国の働きをするとき、「神のみこころが完全に成し遂げられて、神の国が実現されることを願う」と言いますが、実際に自分を犠牲にしなければならない状況では、ためらうのが見られます。
たとえば、似た働きを進めているふたりがいるとしましょう。Aという人が、ある働きを長い間多くの努力を込めてしておきました。ところが、一歩遅れてBという人が、今までしておいたことを上手に利用すれば、短い間に多くの働きが進められるとしましょう。
この時、Bが何かの資料や人材、技術などの協力をAに要請したら、Aはどれほど喜んで与えられるでしょうか? ヨナタンやバプテスマのヨハネのように、神のみこころが完全に実現されることさえできるなら、自分が栄誉や称賛を得られないとしても、塩のように何のかたちもなく溶けることができる心が、まさに神がご覧になっての善なのです。

2) 罪を犯すのを防ぐために全力を尽くす善
ヨナタンはサウル王がダビデを殺そうとする大きい悪を防ぐために、殺気立っている父の前に進むことを恐れないで、懇願し続けました。たとえサウルが悪くても、父を心より愛したので、何としてでもさらに大きい悪を行なわないように、自分が害をこうむっても繰り返して頼み込んだのです。まことの忠臣は王を心より愛するので、王が間違ったことを行なうとき、自分の命をかけてでも王の前に進んで、正しいことを言うことをためらいません。
このように皆さんも、死の道に向かっている親や兄弟、姉妹たちをいのちの道に導くために、どれほど努力しているでしょうか? 皆さんが所属している部署や組織の中でも同じです。皆さんが仕えている上司が不法を行なうのを見たとき、どうするでしょうか? 本当に上司を尊重して愛していたら、まずはそむきの罪を表さないでしょう(箴言17:9)。
ところが、明白な真理に逆らうことを行なったのでもないのに、自分の義や自分の思いに合わないと、上司を思いのままにさばいてはいないでしょうか? 上司について良くない話をして言いふらしたら、これはどれほど善ではなく、愛のない行為なのかを悟らなければなりません。仮に上司が神のみこころに外れる道に向かっていても、上司のそむきの罪を繰り返して話すことは、敵である悪魔・サタンにさらに妨げる種を与えるだけです。
かと言って「私が話すようなことではない」と退いて傍観するのも、善ではありません。また、上司だから話しにくくて、自分がそれを言い出すことによって自分が受けるかもしれない不利益を恐れて、ただ黙認しているなら、それも上司に対してすべきことをしたのではありません。神がご覧になって善でもありません。
それでは、どうすることが善でしょうか? まずは真理を申し上げる大胆さがなければなりません。ただし、相手が秩序上かしらの方なので、部下として善と愛と仕えの心をもって勧めるなら、上司も気を悪くしないで、その言葉に耳を傾けられるようになります。
それでは、目下の人を愛して仕える時は、どうすればよいでしょうか? 堂会長先生の例を通して調べてみます。堂会長先生は聖徒の皆さんが罪を犯さないで、真理の中を歩んで行くように、神のみこころは何か、何が良いことなのかを教えて、みことばを確かなものにするしるしを見せてくれます。そして、「自分がすべきことを全部した」と言わないで、ひとりひとりの魂を心にいだいて絶えず祈ります。また、実質的な愛の行ないが必要な場合には、その人に合わせて仕えて、聖徒たちが罪を犯さないで、もっと満ち足りて走って行けるように助けます。施しによって防げることなら施しをして、罪を犯すのを防ぎ、ひとりでも多くの魂を救おうとします。

3) 父に対してすべきことを最後まで行なう善
善なる人々は誰かが悪を行なうのを見るとき、いっそ他のところに目を向けたいし、悪い人のそばにとどまることを願いません。しかも、他人でもない家族や愛する人が罪を犯せば、それをそばで見守る善なる人は、さらに大きい苦しみを受けるしかありません。
ところが、ヨナタンは悪い父のため多くの苦しみを受けながらも、子どもとしてのすべきことを決して忘れませんでした。神がすでに父のサウル王を捨てられたことを知って、神が御顔をそむけられた悪人とともにいる結果がどうなるだろうかまで予想できましたが、ヨナタンは決して父のそばを離れなかったのです。そして、ペリシテ人との戦いで、父のサウル王とともに壮烈に戦って戦死しました。このようにヨナタンが父のサウルを離れないで、最後まで生死をともにして、自分のすべきことを行なったことが、まさに善と言えるのです。
しかし、神が捨てられた人でも、人として踏み行なうべき正しい道に従って、最後までともにすることが善だと誤解してはいけません。ヨナタンは父のサウルの悪を知って、父が罪を犯さないように何度も懇願しました。つまり、ヨナタンは子どもの立場で、滅びの道に行く父からとても目をそむけることができなかったからであって、決して父のサウルに同調したからでもなく、サウルの悪を知らなかったからでもありません。
皆さんもヨナタンのように、私心なく神のみこころに従って、愛する人が罪を犯さないように全力を尽くしますように。それで、最高の善の実を完全に心に結んで、神が備えられた栄光と祝福の主人公になりますように、主の御名によって祈ります。


* まとめと適用

1. <第一サムエル19:4>をみんなで覚えてみましょう。
2. ヨナタンの善についての内容です。間違っているものを選んでください。
1. 神が捨てられた人でも、義理で最後まで一緒にいた。
2. 次期の王になることができる立場なのに、神のみこころに私心なく従った。
3. 自分が害をこうむっても、サウル王がより大きい悪を行なわないように力を尽くして防いだ。
4. 悪い父のため苦しみを受けながらも、子どもとしてすべきことを忘れなかった。


* 今週の課題

ダビデの善なる心は聖書のどこに具体的に現れているでしょうか? 探してきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!

「ペリシテ人」とは?
ハム系のカフトルの子孫である(アモス9:7)。移住者、外国人という意味であり、「パレスチナ」とは、まさにペリシテに由来する言葉である。長い間パレスチナ南西部の海岸地帯にいたペリシテ人はイスラエル民族を圧迫し、ダゴン、ベルゼブルなどの偶像に仕えた海洋民族である。

 
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