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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第23課 「天国の場所と冠(3)」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2010-06-11


読むみことば: マタイ7:24-25
覚えるみことば: マタイ7:24
参考にするみことば: 第一ペテロ5:2-4


教育目標

みことばどおり行なえる信仰の三段階の人々が入る天国の場所と冠について調べる。

信仰の二段階ではみことばどおり行なおうと努力するけれど、時にはそうできて、時にはできません。しかし、行なおうと努力し続ければ、信仰が成長して、次第にみことばどおり行なえるようになります。今回は、みことばどおり行なえる信仰の三段階に入った聖徒たちに神が下さる天国の場所と冠について調べます。


1. みことばどおり行なえる信仰の三段階

みことばどおり行なおうと努力しながら信仰が成長するほど、行ないとして現れる罪を捨てるようになります。信仰の二段階では、行ないとして現れる罪、すなわち「肉の行ない」を犯す時もありますが、三段階になると、当然肉の行ないはこれ以上出てきません。それで、みことばどおり行える信仰の三段階からは、むしろ行ないが変えられて世の光と塩になります。ありもしないことで悪口を言われて叱責されても、黙って耐え、難しい問題の前でも喜んで感謝しようと努力します。何としてでも相手の利益を求めて、すべての人に仕えようとします。
ですから、信仰の三段階にいる人は、世の人が見ても「あの人は神様を信じているから何か違う」と言われるのです。みことばを知っているから義務感で守るのではなく、みこころを悟ったので、心からわき出る行ないが出てきます。したがって、みことばを頭だけ知っていることと、みことばを悟って行ないで現すことは、全く違います。
主日を守ることと十分の一献金の例を挙げてみます。主日を守ることは、神の霊的な主権を認めて、私たちのたましいが神に属していることを証しすることです。神の子どもが主日を聖なる日とすれば、神が一週間、災いや病気、事故から守られ、たましいに幸いを得ているように導いてくださいます。また、十分の一献金をささげることは、神の物的な主権を認めて、私たちのすべての持ち物が神から来たことを認める信仰の行ないです。ところが、みことばを聞いて知っているけれど、知っただけで終わる人がいます。
信仰の三段階は心で悟って行ないとして現す段階ですから、信仰の二段階と信仰の三段階は明らかに違いがあります。また、信仰の三段階では目に見える真理に逆らうものを捨てて、肉の行ないをしないだけでなく、心で犯す罪、すなわち「肉的なこと」を捨てて、心の罪の性質まで引き抜いていきます。このようにみことばどおり行なって、心の罪の性質が完全に引き抜かれる時まで信仰の戦いを勇敢に続ければ、信仰の四段階に至ることができます。


2. 信仰の三段階の入り口と信仰の岩

信仰の段階が同じだといっても、人によって信仰の量りは違います。信仰の二段階を1パーセントから100パーセントまで分けると、100パーセントに近いほど信仰の三段階に近づいたということです。また、信仰の三段階で100パーセントになってこそ、信仰の四段階に入ります。
信仰の三段階でみことばどおり行なうとしても、初めは心に葛藤があります。みこころを悟って従うには従うが、心に罪の性質が残っているので、二つの心が互いに戦います。真理どおり行なうには行うが、善を追い求めようとする御霊による思いと、悪を追い求めようとする肉の思いが戦うのです。
三段階の中でも入り口なら、困難なことにあった瞬間、「あまりにもつらい」という肉の思いが働くようになって、聖霊に満たされないこともあります。しかし、すぐ聖霊の声を聞くので、「神様は生きておられるのに、なぜ気を落とすのか」と心を真理で固めるようになります。そして、完全に喜んで感謝するために主を呼び求めて祈り、恵みが与えられて強くされれば、さらに大きい感謝と喜びが出てきます。
信仰の三段階で60パーセント以上になれば、心から罪の性質がたくさん捨てられたので、みことばどおり行なうことがそれほど難しくありません。悪を現すまいと必死に耐えるのではなく、心から罪の性質を捨てたほど、悪が出てこないのです。突然、困難なことにあうとしても、気を落としたり不平を言ったりするより、神を頼って、喜んで感謝しようとする思いがまず浮びます。ひょっとして、一瞬「つらい」という思いがふとよぎったとしても、直ちに追い出して、感謝と喜びに心を変えることができます。
<マタイ7:24-25>に「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」とあり、<第一コリント10:4>に「その岩とはキリストです。」とあります。したがって、どんな試練や患難にも揺れ動かないで、みことばどおり完全に行なう信仰になれば、岩であられるイエス・キリストの上に堅く立ったということを意味します。
それで、信仰の三段階で60パーセント以上になれば、「信仰の岩」の上に立ち始めたと言えます。このように心に悟って行なえる信仰の三段階の岩の上に立てば、信仰生活がつらいのではなく、むしろうれしく楽しいのです。70-80パーセントになれば、岩の上に完全に立ったということで、この時はみことばどおり行なうことが、まるで身についた習慣のように自然に出てきます。
このように信仰の四段階に近づくほど、神と明らかに交わって、神の愛がさらに感じられます。いくら自分を苦める相手がいても、神の愛がわかるので、決して憎みません。急いでお金が必要なとき、財布を拾ったとしても、「私が使おうか、持ち主を探してあげようか?」と葛藤するのではなく、当然、持ち主を探そうとする心です。どんな状況でも肉の思いが働かないで、直ちに善を追い求め、完全に喜んで感謝できるなら、信仰の四段階に入ったのです。


3. 信仰の三段階に与えられる天国の場所と冠

 信仰の三段階の人が入る天国の場所は二天層です。多世帯住宅のかたちの家が与えられる一天層とは違って、二天層には独立した住宅が与えられます。二天層の家は一階建てですが、この地上のどんな華やかな邸宅や別荘とも比べられないほど、勇壮で美しいし、香りの良い花と木で飾られています。
そして、主人が最も望む付属施設が一つ与えられます。美しい湖、あるいは純金と宝石で飾られた華麗なプールを持つことができます。美しい草花で満ち、かわいい動物が遊ぶ美しい散歩路、または舞踏会場を持つこともできます。
二天層ではこの中の一つだけが持てるので、必要に応じて、他の家にあるものを使うようになります。このように他人の家を訪問して施設を使うとしても、互いに気まずく感じません。これによって仕えることができるし、愛が分かち合えるので、喜んで使わせてあげるし、使う人も気安く楽しめるのです。
二天層の家には表札がかかっていて、天国の文字で主人の名前とこの地上で仕えていた教会の名前も彫られています。
二天層の人々には栄光の冠が与えられます(第一ペテロ5:2-4)。信仰の三段階の人々は心の割礼を完全にしなかったけれど、みことばどおり行ない、使命をよく果たして神に栄光を帰しました。そのような人に与えられるのが、まさに栄光の冠です。このようにあまりにも美しい場所にとどまるようになり、自分が行なったことと比べられない報いを下さるので、感謝があふれます。
しかし、それでももどかしくて心残りなことがあります。みことばどおり生きて、熱心に使命を果たすだけでなく、心の罪まで捨てて完全に聖められたら、どれほどよかっただろうに、ということです。
聖められた人が行く三天層や、全く聖なるものとされた人が行く新しいエルサレムの栄光は、二天層とは比べられません。もちろん、天国にはねたみとそねみがないので、よりすばらしい天国の栄光をうらやましがったり、自分が味わえないと心が痛むのではありません。他の人がより大きい栄光を味わうとしても、一緒に喜んで、自分に与えられた場所と報いだけでも感謝と幸せがあふれます。しかし、もどかしくて申し訳ないのは、神があれほど多くの愛と機会を与えられたのに、完全に罪を捨てられなかったということです。
したがって、信仰があるなら、二天層にとどまってはいけないし、新しいエルサレムに向かって、休まず激しく攻めていかなければなりません。神はすべての人が救われて、神のまことの子どもに変えられて、新しいエルサレムに入ってくることを願っておられます。<エペソ5:16>に「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」とあるように、与えられた時間を尊く思って、みことばと祈りによって信仰を成長させ、まめに天国を激しく攻めていくようお願いします。


* まとめと適用

1. <マタイ7:24>をみんなで覚えてみましょう。

2. 信仰の三段階についての説明として間違っているものを選びなさい。
①独立した住宅と栄光の冠が与えられる。
②主人が最も望む付属施設が一つ与えられる。
③二天層の家には表札がないし、香りで誰の家なのかわかる。
④信仰の三段階の60パーセントになれば、信仰の岩の上に立ったと言える。


* 今週の課題
『信仰の量り』第十章の三に目を通してきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!
「肉的なこと」とは?
憎しみ、ねたみ、高ぶり、さばき、罪に定めること、姦淫など、まだ行なってはいないが、行ないに誘発される真理に逆らう属性であって、目に見えないけれど、心の中に内在している罪の性質のことを言う。

 
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