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メッセージ >
聖書の学び
Title
第19課 「『力』と『権威』、『権威の伴う力』」
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2010-05-14
読むみことば: 使徒2:22
覚えるみことば: マルコ10:27
参考にするみことば: ルカ4:6、第一コリント4:20
教育目標
神に喜ばれる信仰の五段階の人々に授けられる力と権威、権威の伴う力について確かに知って慕う。
神に喜ばれる全き信仰を持てば、イエス様が行なわれたわざも行なえるし、それよりもさらに大きいわざも行なえます(ヨハネ14:12)。私たちの心が聖められて、神に喜ばれる信仰の五段階に至れば、神の無限の力と権威、権威の伴う力が与えられます。一般に「神の力」と言うと、「力」「権威」「権威の伴う力」を同じような意味で使っていますが、これにはそれぞれ霊的な意味が込められています。
1. いやしの賜物と神の力の違い
まだ聖められていない人も、神と魂を愛して、火のような祈りを無数に積めば、いやしの賜物や奇蹟を行なう力など、御霊の賜物が現れます。また、ある人のために愛をもって切に祈ると、神が憐れみを施されることもあります。たとえば、主のしもべが神の力を受けているのではないけれど、聖徒のほうで非常に切なる信仰によって祈りを依頼する場合、その心と純粋な信仰を見て働かれるのです。このような場合は、聖められた人に神の力が完全に臨み、不思議としるしを行なうのと次元が違います。心が聖められて、信仰の四段階に入って、数えきれない祈りを積んでこそ、ある程度神の力が臨み、信仰の五段階に至った時に完全に臨むからです。
信仰の五段階に入って、完全な力を受けたとすれば、信じる人に伴うしるしがいつも現れて、それ以上の不思議としるしも行なえます。病気だけでなく、わずらい、すなわち、身体の障害もいやせるし、その他にいろいろな不思議としるしを、必要な時はいつでも行なえるのです。
<第一コリント12:28>には、「奇蹟を行なう者」と「いやしの賜物を持つ者」のことが書かれていますが、二つのうち奇蹟を行なう力はいやしの賜物より一段階高いです。いやしの賜物を受ければ、細菌やウィルスによる病気はいやせます。しかし、目の見えない人、話せない人、歩けない人などは、奇蹟を行なう力をいただいてこそ直せます。先天的に身体が不自由なことや後天的な身体障害は、病原菌による病気でなく、機能マヒや退化によって正常な活動ができなくなったものであり、神の力が必要だからです。それで、いやしの賜物の上に奇蹟を行なう力があるのであって、奇蹟を行なう者には、いやしの賜物によっては現せない不思議としるしが伴うのです。
本来はこのような力は聖められた者が受けるものですが、まだ悪をすべて捨て去る前だとしても、祈りを多く積めば、御霊の賜物として奇蹟を行なう力が受けられます。しかし、完全なものではなく、部分的に現れます。このように、御霊の賜物として奇蹟を行なう力をいただいた人は、高ぶったり心が変わってしまうこともありますが、このような場合、賜物はまた取り上げられます。
しかし、信仰の四段階に入っていただく神の力は、これと違います。神をこの上なく愛する信仰の段階に入った人が数えきれない魂を救い、力をいただいて働くために、火のような祈りを積めば力が臨みますが、すでに聖められているので、高ぶったり心が変わるはずがありません。したがって、力がなくなるはずがないし、祈りを多く積み上げるほど、また神の心に似せられていくほど、神は思う存分力を行えるように霊的な権威まで授けてくださるのです。
2.「力」とは?
「力」とは、人にはできないけれど、神にはおできにならないことがないと信じる信仰の力のことを言います。人には決してできないことが世にはたくさんありますが、神の力では不可能がありません。全知全能の神を信じてゆだねれば、上から信仰の力が与えられて、何でも十分やり遂げられます。それで、<マルコ10:27>に「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」とあり、<マルコ9:23>に「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とあるのです。
人間の救いの問題も同じです。ただイエス・キリストを信じることによって救いに至るのであり、決して人の力でなされるのではありません。それで、<第一コリント1:18>に「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」と書かれているのです。
神の国はことばにはなく、力にあるので(第一コリント4:20)、イエス・キリストを信じることによって、死から永遠のいのちへの道に行くことそのものも神の力によるのであり、悪霊を追い出し、病気やわずらいをいやして、死んだ者を生かしたりすることなど、すべて聖霊のみわざも神の力によるのです。
3.「権威」とは?
「権威」とは、霊的に「神の聖なる、厳威があって、栄えある力」であり、神の秩序に従って上からの神の命令という意味です。創造主なる神によるものである栄光の権威を、神が人に授けられたものなのです。
<ローマ13:1>に「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」とあります。ピラトがイエス様を尋問した時も、イエス様は「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」と言われました。
天下万物と人生の生死禍福をつかさどられる方はただ神であられ、雀一羽でも、神のお許しなしには地に落ちることはありません。このことを知ったならば、何かの試練がやって来るとき、人の方法を使うのではなく、神にあって解決する道を探します。
ところで、霊的な権威は聖潔と直接結びついています。まだ聖められていない人が火のような祈りを積むと、部分的にでも臨むことのある奇蹟を行なう力とは違って、霊的な権威は聖められていなければ決して受けることはできません。子どもによく切れる刃物を与えれば危険なように、神の栄えある権威を誰でもが持てるならば、大混乱が起きるでしょう。それで、神は少なくとも信仰の四段階に入った人、悪がなくて兄弟のためにいのちも与えられる愛と徳と寛容がある人に、霊的な権威を授けてくださるのです。
4.「権威の伴う力」とは?
霊的な権威とともに力をいただいた人は、さらに大いなる神の力を行なうようになります。権威と力が兼ね備えられたからです。<ルカ4:36>に「人々はみな驚いて、互いに話し合った。『今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。』」とあります。このように、イエス様が行なわれたことは、権威とともに現れた神の力あるわざでした。
信仰の五段階に至らなかったとしても、例外的に権威と力がともに現れた場合があります。それがまさに、イエス様が弟子たちに按手して、さまざまな奇蹟を行なうように命じられた場合です。これは、イエス様のみこころによって、イエス様の権威の伴う力が弟子たちに一時的に与えられたので現れたものです。
それでは、力に権威が伴うと、どうなるでしょうか? たとえば、親子の間で、息子がいくら賢くて能力が大きくても、父の言葉には従うようになります。父の権威に従うのです。また、昔、王の命令を持って来た使節には、どんな臣下も服従しなければならなかったことが見られます。たとえその使節より地位が高くても、使節は王の権威を授かって来るので、その命令に従うしかありません。
まして全能の創造主である神が霊的な権威を与えてくださったとすれば、すべての被造物と悪い霊どもまでも、その前に服従するしかないのです。霊的な権威は創造主の神によるものなので、力とともに権威まであるならば、悪い霊どもや病原菌、はなはだしくは無生物でも従わせることができます。イエス様のように風と波も静められて、雨と雲などに命じて、天気を動かすこともできます。聖められて純金のように全き信仰を持った人でこそ、権威と力をともに受けることができ、信仰の五段階でも深い次元に入るほど、さらに大きくて驚くほど現れるのです。
* まとめと適用
1. <第一コリント4:20>を覚えて、書いてみましょう。
2. いやしの賜物と神の力の違いについて話し合ってみましょう。
3. □の中に合う字を書いてください。
「力」とは、人にはできないけれど、神にはおできにならないことがないことを信じる□□の力のことを言う。
「□□」とは、神の聖なる、厳威があって、栄えある力のことである。
「□□の伴う力」とは、□がなくて聖められた人に与えられる神の力のことである。
* 今週の課題
『信仰の量り』第十章の一、二に目を通してきましょう。
* 「人物」を知って力にしましょう!
「ピラト」とは?
イエス様に罪がないことを知りながらも、暴動が起きるかと恐れて、イエス様に死刑を言い渡した歴史的な人物である。これに対して彼は、自分には責任がないと言って手を洗ったが、彼の責任は免かれなかった。使徒信条の「ポンテオ・ピラトに苦しみを受け」という言葉は、イエス様の苦しみと死が歴史的な事実だと証ししている表現である。
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