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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第45課 「主よ、私をお助けください」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2009-11-06


読むみことば: マタイ15:24-28
覚えるみことば: マタイ15:27
参考にするみことば: 第一サムエル21章; 第二列王記25章


教育目標

自分を犬のように扱うイエス様の前に、自尊心を徹底的に捨てて、へりくだった姿で信仰の告白をして答えられたスロ・フェニキヤの女について調べる。

自尊心とは「自分の人格を大切にする気持ち。また、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度。プライド。」という意味です。時々、自尊心を前に出して滅びる人がいるかと思えば、自尊心を捨てることによって栄える人もいます。
神は、私たちが自尊心を捨てて、御前にへりくだった心で祈って助けを求めることを願っておられます。イスラエルのダビデ王は神や人の前でへりくだった者だったので、この地上ではもちろん、天国でも偉い者になることができました。


1. 自尊心を捨てたので、良い結果を得たダビデ

ダビデはペリシテ最高の勇士ゴリヤテを倒してイスラエルの英雄になり、戦えば百戦百勝でした。すると猜忌心に捕われたサウル王は国家機関を総動員して、ダビデを殺そうとしました。<第一サムエル21章>を見ると、ダビデはどれほど追いつめられていたのか、ペリシテのガテの王、アキシュのもとへ逃げます。ペリシテはイスラエルの敵国であり、「ガテ」はダビデが殺したゴリヤテの故郷でもあります。
アキシュ王の家来たちは、自分の国の最高の戦士を殺して、兵士を数えきれないほど殺したダビデを直ちに始末するようにと言います。ダビデはそれに気づいて彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりまでします。アキシュ王はこのようなダビデを見て、「なぜ、私のところに連れて来たのか。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」と言って追い出しました。ややもすれば命を失うこともあるところでしたが、ダビデは自尊心を捨てて、無事に切り抜けられました。後日ダビデは王になり、ペリシテを完全に屈服させてみつぎものを納めさせ、強い統一王国を建て上げました。
仮にダビデが自尊心にとらわれて死んだとすれば、どれほどむなしい人生でしょうか。もし皆さんがそのような状況に置かれたとしたら、どうするでしょうか? 自尊心の強い人は「死んでもそんなことはできない」と言うかもしれません。しかし、はたしてその自尊心に価値があるのか、自尊心にとらわれることが正しいのか、考えてみられますように。


2. 自尊心にとらわれて悲惨な結果を迎えたゼデキヤ王

南ユダ王国最後の王ゼデキヤはどうだったでしょうか? バビロンに支配されていたユダは二度にわたって強大国バビロンに侵略され、風前のともしびでした。反乱を起こす可能性のあるおもだった人はみなバビロンに連れて行かれ、ゼデキヤは貧しい民衆を対象にユダを治めていた王でした。彼はバビロンのネブカデネザル王に一度召還されて国政を報告し、みつぎものを納めたこともありました。
ところが、エジプト王パロとこっそり同盟関係を結んで、バビロンの王に反逆しました。すると預言者エレミヤが来て、バビロンに降伏するようにと神のみこころを伝えましたが、ゼデキヤ王は恥だと思って、かえって預言者を牢に入れてしまいます。何の力もないのに、自尊心が捨てられずにこだわってばかりいたので、結局バビロンから三度目の侵略を受けます。
エルサレムはバビロンに何と1年7か月間包囲されて、町の中の補給物資が完全に途絶えて、食糧もなくなり、人々は飢えて死んでいきました。その上、バビロンの軍隊が城壁を打ち破って入ってきて、ゼデキヤ王とすべての戦士は夜の間逃げましたが、ついに捕らえられました。結局エルサレムは焼けて、町は完全に壊されました。バビロン王はゼデキヤの子どもたちをその目の前で虐殺し、ゼデキヤの両眼をえぐり出し、バビロンに連れて行き、死ぬ日まで牢に入れておきました。
南ユダ王は自尊心を捨てないでこだわったので、自分だけでなく、国も亡びる悲惨な結果を招きました。ですから、自尊心のために自分を低くできないことがどれほど愚かなのか、悟らなければなりません。


3. へりくだった心で答えられたスロ・フェニキヤの女

イエス様がスロ・フェニキヤ地方に行かれたとき、汚れた霊につかれた小さい娘のいる女がイエス様のところに来て、自分の娘から悪霊を追い出してくださるように願い続けました。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」と叫び声をあげて言いました。しかし、イエス様は彼女にひと言もお答えにならなかったのです。女が叫び続けて言うと、弟子たちが「あの女を帰してやってください。 叫びながらあとについて来るのです。 」と言ってイエス様に願います。しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われました。女が来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言いましたが、イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言って、異邦の女を犬にたとえられました。
これは彼女を試みるためでした。普通の人ならば、自分を犬扱いする言葉に自尊心が傷ついて、帰ることもあるでしょう。しかし、彼女は「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言います。へりくだって答えた彼女に感動したイエス様が「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と言われると、彼女の娘がその時から直ったのです。自分を徹底的に低くすることによって、信仰の試みをよく通り抜けて、心の願いに答えられたのです。


4. 正しい心から出てくる信仰の告白

スロ・フェニキヤの女が「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言って自分を低くしたことは、ただ娘がいやされようという一念からであり、怒りを抑えたり、自分に有利なように計算して答えたのではありません。彼女の心が正しくてへりくだっていたので、そのような答えができたのです。つまり、一瞬知恵を絞り出して、「こう答えてイエス様の心を買わなければ」と思ったのではなく、心にある善と柔和と謙遜がそのまま出てきたのです。
私たちも、神に答えられるためには、高ぶりを捨てて、ご自分を無にして、仕える者の姿をとられたキリストの心に似せられなければなりません。悪をもって悪に報いないで、善をもって悪に報い、肉に属する心を完全に捨てて、御霊に属する心、正しい心を持たなければなりません。そうすれば、どんな問題でも答えられ、信仰によって行なうすべての事に支障がなくなるのです。<ローマ1:17>に「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
スロ・フェニキヤの女はその心がへりくだって正しかったので、最後まで信仰の告白をして答えられました。そのような心になれば、どんな問題がやって来ても、信仰の行ないが出てくるようになるので、神の驚くべきみわざによって心の願いに答えられるのです。信仰とは信頼することであり、その信頼に変わることがなく、また従うことです。スロ・フェニキヤの女はイエス様について聞いたとき、それを信じてイエス様を信頼しました。そして、イエス様がどんなことをされて、どんなことを言われても、揺れ動くことなく変わらない心で信じました。
それでは、その従う心はどのように現れたでしょうか? イエス様が「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われると、彼女は「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と答えました。イエス様を信頼するから、気を悪くしたり自尊心が傷つけられたと思ったりしないで、そのおことばに肯定的な言葉で従います。それと同時に、イエス様を感動させることを言ったので、神の驚くべきみわざが体験できました。
このように、正しくへりくだった心をもって神に喜ばれる信仰を見せれば、どんなことでも答えられます。ほとんどの人は富と名誉など、結局は朽ちてしまう肉に属するものを得るために、どれほど汗を流して苦労するでしょうか。しかし、そういうものとは比べられない永遠のいのちと美しい天国を得るためには、どう生きるべきでしょうか?
すべての自尊心を捨てて、へりくだって低くなって、永遠のものを得るために労苦して忍耐する人になりますように。それで、自分の中にある自尊心、高められて仕えられようとする心、自慢したい心、自分の益を求める心、このような闇の心を捨てて、まことにへりくだって神が喜ばれる信仰を見せ、すべてのことに答えられますよう、主の御名によって祝福して祈ります。


* まとめと適用

1. <マタイ15:27>をみんなで覚えてみましょう。

2. 「私は南王国ユダの最後の王です。預言者エレミヤがバビロンに降伏するようにと神のみこころを伝えたのに、自尊心が捨てられなくて滅ぼされました。息子たちが殺されるのを目の前で見せられて、両眼がえぐりだされてバビロンに連れていかれました。」私は誰でしょうか?

3. ひょっとして「私から自尊心を取れば死体だ! 他のことならともかく、自尊心に触れれば誰も赦さない!」と言ったことはないでしょうか? 自分が変えられたことに感謝して、さらにスロ・フェニキヤの女のようにへりくだった者になるために、心を一つにして祈りましょう。


* 今週の課題
何を食べるか、何を飲むか、何を着ようかなどと、明日のための心配が心を占めているとき、どんなみことばが浮かぶでしょうか? 次回までに考えてきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!
「スロ・フェニキヤ」
パレスチナの北部、シリア地域のフェニキヤを指す。スロ・フェニキヤはローマの支配下にあるシリアのフェニキヤという意味で(マルコ7:26)、北アフリカのフェニキアと区別するためにこう呼ばれた。<マタイ15:22>には、スロ・フェニキヤの女が「カナンの女」と記されているが、カナンがフェニキヤの昔の名前だったからと見られる。

 
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