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主日夕方礼拝 メッセージ > 主日夕方礼拝
主日夕方礼拝
Title
   献身の意味 - 主のしもべ・職員献身礼拝  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙示録2:10
Date
   2015-03-29


[本文]

[黙示録2:10]
「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。 悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」



[序論]

愛する聖徒の皆さん、2015年「主のしもべ・職員献身礼拝」をささげられるように祝福してくださった父なる神様にすべての感謝と栄光をお帰しします。
愛する献身者の皆さん、父なる神様は今年「献身の意味」というタイトルでみことばを下さいました。本文[黙示録2:10の後半節]には、皆さんがよくご存じの聖句が出てきます。「死に至るまで忠実でありなさい。」というみことばです。
「献身」「忠実」という単語は主のしもべ、レビ族、長老、勧士、執事など、務めと使命をいただいた人ならとても聞き慣れている言葉だと思います。ゆだねてくださった羊の群れを顧みて、神のことばを食べさせる主のしもべ、毎日聖殿にいて教会の業務を担当しているレビ族、頼もしい柱のように教会に仕える長老、自分の家のことのように大切に思って教会の諸分野を顧みる勧士、この他にも執事など、あちこちで忠実に仕えながら走っているすべての務めを受けた皆さん、まさに皆さんの献身と忠実によって神の国は実現されています。
10年、20年、ある人は30年の歳月をこの教会で牧者のそばにいたし、自分の青春をささげて身と心を尽くして献身してきた方々もいます。教会の大小の試練と訓練の中でも、揺るぐことなく持ち場を守ってきた方々もいました。また、牧者の力になるために大きな夢をいだいて走ってきた方もいます。
ところで、このように献身して忠実に仕えた歳月に比べ、変えられて御霊に属する実を結んだ速度は遅かったことがしばしばありました。特に主のしもべとレビ族は誰よりも早く御霊の歩みに入らなければならない方たちでした。それなのに、多くの人が長い間停滞したり、なまぬるい信仰にとどまっていました。それどころか再び肉に属するものを追い求めて世に落ちて、霊の流れとは逆に向かう人もいました。
結局、父なる神様は2013年に3か月の猶予期間をお作りになるしかありませんでした。そして、私は責任者として代わりに懲らしめの剣を受けるところにまで至りました。しかし、そのすべての時間はこれから与えられる祝福のための公義の過程でした。
しっかり固まった自分の義と枠が溶けて、とうてい壊せなかった罪の隔ての壁がなくなると、その時初めて皆さんの目と皆さんの心に入ってくるものがありました。「父の愛、主の愛、牧者の愛」でした。今まで頭では知っていると思っていたが、胸で感じられなかったその愛を、ついに悟り始めたのです。
きょう「献身の意味」というみことばを下さった理由も、父の御前に「愛する心」をもって献身しなければならないことを切に頼まれるためです。信仰の四段階の御霊の人の心は「神様をこの上なく愛する信仰」です。御霊に属する心になると、神様を愛するために努力しなくても、心の芯から神様をまことに愛するようになります。「愛さなければならないから」と無理やり愛するなら、それは愛だと言えません。
献身と使命を果たすことも同じです。「しなければならない仕事だから」「与えられた仕事だから」、でなければ「恵みを受けたことがあるから、受けた分は報いなければ」と思って、肉的な責任感をもって重荷を負うようにしてはいけません。
モーセの忠実、アブラハムの従順、使徒パウロの熱情、このような信仰の昔の人々の献身も、結局、父と主への愛があったのでそうできたのです。愛しているので、どんな状況でも肉の思いを働かさなかったし、喜びと感謝をもって歩めました。理解できない人も相手の身になって赦し、耐えがたいことも十分耐え忍んで忍耐していけました。
このような信仰の昔の人々に比べて「私はどんな愛の心で献身しているのか」チェックしてみますように。それで皆さんの献身が父なる神様の御前に美しい香として立ち上りますよう、主の御名によって祈ります。



[本論]

愛する献身者の皆さん、父の御前に愛のこもった献身をささげるために、第一に、自分の利益に従って随時移り変わる心があるのか、顧みますように。
「移り変わる心」は私たちが警戒すべき肉の性質のうち、最も代表的なものだと言えます。うわべではひどく悪を行っているように見えなくても、移り変わる心が芽生えたら、結局、神様の恵みにそむいて、裏切るまでになります。
イスカリオテ・ユダがそうでした。彼はイエス様のそばにいて、自分の目で不思議としるしを数えきれないほど見ました。イエス様がおことばで命じられたら、死んだ人が生き返ったし、生まれつきの盲人の目が見えるようになりました。
ところが、イスカリオテ・ユダはこのようなイエス様を見て、自分もいつかはイエス様のゆえ特権を味わって栄誉を得られるだろうと思いました。自分の利益に従ってイエス様に付き従ったのです。
しかし、状況は彼の思いとは全然違う方向へと流れていきました。人々はイエス様をそしって迫害するかと思えば、それどころか当時のイスラエルの権力者たちはイエス様を捕えて殺そうとまでしたのです。宗教指導者と執権層がそうだったのです。
このようにだんだんイエス様の立場が不利な状況に追い込まれるのを見て、イスカリオテ・ユダの心は変わり始めました。自分に返ってくる利得がなさそうに見えたので、結局はサタンにそそのかされて師を売るという、極端な選択をするようになりました。
愛する献身者の皆さん、この教会にも大きな訓練があった当時、「教会の柱のように用いられます」あるいは「いのちを尽くして教会と牧者を守ります」と言っていた人たちがひとり、ふたりと離れていきました。その訓練は父がこの教会に許された祝福の訓練でしたが、そのことを講壇で何度も前もって言いました。しかし、肉の人の目には教会がその時すぐ害をこうむるようで、自分の益にならないように見えると、すぐ心が変わってしまったのです。
はなはだしくは、自分にゆだねられた羊の群れさえ捨てて離れた主のしもべたちもいました。「神の国のためにいのちを尽くして忠実に働きます。いのちを尽くして牧者を助けます」と言っていたその告白を、水の泡のように後にしたまま離れてしまったのです。たとえ教会をそしらなかったとしても、神の恵みを大いに受けた教会を捨てるなら、過去の信仰もまことにはなれません。その時まで積み上げた愛も、信仰も、希望も、すべて失うこともありえるのです。
このように移り変わる心はいつも顧みるべき項目です。特に自分の利益を追い求める人はさらに容易に、しょっちゅう移り変わります。神の働きをする時は自分の心、趣向、好みではなく、神のみこころと心に合わせなければなりません。自分の思いと意志に合わない状況もあるし、自分の利益に反する場合もよくあります。
たとえば、主のしもべであれば、聖徒たちから仕えられて尊重されたりもしますが、それよりも聖徒のために条件をつけないで犠牲になって与えなければならない場合のほうがはるかに多いです。時には自分がいくらでも味わえる自由と権限も諦めなければならないし、自分の時間、楽しみたいこと、自分の生活、このようなものも喜んで渡せなければなりません。
また、レビ族であれば、[民数記3:12の後半節]に「レビ人はわたしのものである。」とあるように、皆さんは神の所有で、神様が用いておられる尊い働き人です。ですから、自分に割り当てられた業務をしても、いつも「神の国にとって全体の益になる道は何か」をまず考えなければなりません。
個人の業務実績や自分の所属している部署だけがほめられたいと思う人は、自分が望んでいた結果が与えられないと、その心がすぐ変わってしまいます。目上の人が自分の成果を認めてくれたら熱くなりますが、そうでない時は熱情が冷めてしまいます。自分が望んでいたとおりに満たされなければ、すぐ気を落として疲れてしまうのです。目立って認められる使命は熱心に果しても、ほかの使命のほうがもっと認められているように見えると、いつの間にか自分の使命をおろそかにしたまま、ほかの使命を望む心になります。
また、別の例を挙げますと、2013年の三か月の猶予期間の間、皆さんはどんな心で過ごしたのか、今ちょっと思い出してみてください。ある人は過去の過ちについて徹底的に心を砕いて罪を告白し、もう一度下さった機会に感謝して「必ず変えられよう」と心を固めて決断しました。
ところで、ひょっとして低くなった自分の地位と立場に気を落として嘆いた人はいなかったでしょうか。それが御霊の歩みに入れるように与えてくださった機会だったのに、それが悟れないで、かえって反対のほうへと向かったのです。それどころか主のしもべの道を、レビ族の道を選んだことを後悔します。捨ててきた世に再び未練を持ち、今までの歳月について嘆きます。
使徒パウロの献身を一度考えてみてください。異邦人のために宣教しながら、多くの教会を開拓して、多くの羊の群れを生みました。楽に食べて、着て、休みながら、誰かから心強い支援を受けながら宣教したのではありませんでした。聖徒たちから養われるより、天幕を作って自分の手で働いて宣教しました。そうでありながらも、迫害と苦しみはまた、どんなにたくさん受けたでしょうか。
[使徒20:22-24]に「いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」と告白しました。
むちで打たれることをよく知っていても、牢に入れられることを知っていても、結局死に至ることを知っていても、それが神のみこころであるなら「アーメン」と言って従いました。牢に閉じ込められていた時も、自分の身の安全をまず求めたのではなく、残してきた教会と聖徒のことを心配しました。
愛する献身者の皆さん、皆さんが最初主のしもべの道を歩み始めたとき、初めレビ族になったとき、初め務めを受けて使命をいただいたとき、誰が自分の利益を追って選んだでしょうか。ただ主のため、教会と魂のため、牧者の力になるために「自分の身を喜んでささげよう」という覚悟だったでしょう。自分なりに夢とビジョンをもって「主が来られる時まで、牧者と一つになって多くの魂を天国に導きます」「私に下さった賜物で神の国にとって力になります」と告白しました。
ところが今、自分の利益に合わないからといって、あるいは自分のつらさと自分の訓練だけを思い、移り変わろうとする心があるなら、過去のその献身に何の意味があるでしょうか。父の御前に、また牧者の前にしたその告白がきのうも、きょうも、これからも同じでありますように。どんな状況であっても、父の御前に定めた心を変えませんように。自分の利益を求めるよりも、神の国と魂のことをまず思う、まことの献身の主人公になるようお願いします。

愛する献身者の皆さん、父の御前に愛のこもった献身をささげるために、第二に、「献身している」と言いながら、自分の条件と都合にだけ合わそうとしていないか顧みますように。
時には自分が希望しない仕事や自分の能力以上の仕事が与えられる時もあります。そのたびに「私は能力が足りない」と言い訳して、得意なこと、やりたいことだけをしてはいけません。使命を果たす力は世の知識、肉的な才能、物質などから来るものではありません。[ピリピ4:13]に「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」とあります。神様が下さる知恵と力を心から求めていくなら、大いに強くされた働き人として出てくることができるのです。
しかも主のしもべは、麦の聖徒も顧みますが、むしろ砕かれたたましい、弱い心、かたくなな心の聖徒を顧みるほうが重要です。それなのに、もし自分のことが好きで合わせてくれる聖徒、訪問しやすくて従う聖徒だけを顧みて親しくするなら、どうなるでしょう。あまり従ってくれず、ぶつかってくる聖徒とは相変わらず平和をつくれないままで。また、主のしもべは自分の環境と条件を見て、それに合う働きだけを探してするのではありません。
1990年代、旧ソ連が崩壊した頃、ロシアから「教会を開拓してください」という要請がありました。当時の状況は教会を建てて福音を伝えるのに、とても良い時期でした。それで、私は主のしもべの皆さんに「ロシアの宣教師に志願してください」とお願いしましたが、残念なことにひとりもいませんでした。
実は皆さんにお願いすることも霊的には理にかなわないことです。主のしもべは「どこどこの奥地に行きなさい」と言われても、ただ「アーメン」と言って聞き従わなければなりません。自分の衣食住を心配し、条件を計算して良いほうを選ぶのではありません。
職員の皆さんも同じです。たとえ自分の望まない仕事が任されても「私に望んでおられる父のみこころは何か」をまず考えますように。だからといって、父なる神様は皆さんの信仰、都合、夢とビジョン、能力などを全然考慮しないで、一方的に指示して命令なさるのではありません。ただ、自分の都合、自分のビジョンのようなものより、最も良いものを与えたいと思う父が皆さんに望んでおられることをまず考えることができなければならない、ということです。
私は以前、周りの働き人に次のように頼んだことがありました。「機関や宣教会で熱心に奉仕して仕えてください」「機関長や宣教会長の使命も激しく攻めて受けてください」と。私がそう頼んだ理由は単に「もっと多くの使命を果たしなさい。全家を通じて忠実な者でありなさい」という意味だけではありませんでした。それは聖徒を顧みる使命を果たすとき、牧者の心をもっと理解できるし、教会と聖徒をもっと深く愛せる恵みが与えられて、強くされる祝福が臨むからでした。
また、このような働きが積まれたら、結局、自分の業務と働きにも実質的に役に立つのです。このようにいろいろな分野でさらに心を広げないで、相変わらず自分の限界の中だけにとどまっているなら、これは「神の国を実現することにおいてさらに大きな役割を果たしません」と固執しているようなものです。
また、神の働きをすることにおいて、自分の姿が華やかに目立つ舞台がある一方、名もなく、光もなく、黙々と果たさなければならない使命もあります。人がわかってくれないきつい仕事をしたのに、それにもかかわらず目に見える功績はかえってほかの人に帰る場合もあります。
このような場合でも、皆さんは依然として同じ心で献身できるか顧みますように。自分が望んでいたのとは違う仕事が与えられることもあるし、自分が慕って祈っていたのとは違う方向に導かれることもあります。自分は熱心に忠実に仕えたつもりでしたが、不当なことを言われたり、低いところに置かれることもあります。このような時であっても、ひたすら役に立たないしもべの心をもって献身する皆さんになりますように。



[結論]

愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、人間耕作の歳月の間、真実の子どもを得るために寛容に耐え忍んでくださる父の献身も、結局は愛から出たものです。父なる神様は人の子らの弱さを知っていたので、人の子らから裏切られることも知っておられました。人の子らが罪に染まっていくことも、それによって胸が痛むこともご存じでした。
しかし、人の子らへの父の愛は寛容を尽くされ、機会を与えに与えながらひとりの魂もあきらめたくないと思っておられます。それどころか、神様に正面から立ち向かう人の子らでも、御顔をそむけ、さばいて処理されたのではなく、何としてでも機会を与えていのちを与えようとされました。
時には公義に従って、結局災いが臨んだ時も、「仕方がない」と思われたのではなく、その人の子らの苦しみを一緒に感じながら、胸を痛められました。人の子らが繰り返し罪を犯しているにもかかわらず、彼らをあきらめたのではなく、「わたしはあなたのことを責任を負って導いていく」と言われ、真実の子どもとして出てくるまですべてを甘んじて受けられます。ついには愛する御子を罪の贖いとして十字架に渡されることによって、その愛をもう一度確かなものとしてくださいました。
私たちに向けられた父なる神様のこのような愛を知っているなら、私たちは父なる神様の御前にどんな献身をささげるべきでしょうか?真実な愛の心をもって献身しますように。そうする時、神の国をまず考えて、父なる神のみこころにかなう献身が変わることなくできるのです。このように真実の献身を通して、父なる神の国で柱のように用いられる皆さんになりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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