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ヨハネの手紙第一講解 メッセージ > ヨハネの手紙第一講解
ヨハネの手紙第一講解
Title
   ヨハネの手紙第一講解 (12)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   第一ヨハネ2:17-18
Date
   2010-11-14


[本文]

[第一ヨハネ2:17-18]
「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」


[本論]


愛する聖徒の皆さん、「ヨハネの手紙第一講解」の十二回目です。
 本文[17節]に「世と世の欲は滅び去ります。」とあります。吹き去る風のように、しばらくあったかと思うと消えてしまうのが世であり、世の欲です。神を信じない世の人々も、「人生は無常だ」とよく言います。本文を説明する前に、これをテーマにした中国の小説を一つご紹介しましょう。

淳于芬という人が、酒に酔って木の下で眠っていましたが、誰かが起こしたので目を覚ましました。「槐安国」という国の使いが来て、王の名前で招待するのです。使いについて行ったら、王が彼を見て喜んで迎えて、王女と結婚させて、高い官職も与えます。
淳于芬は一瞬にして尊い身分になって、「南柯郡」という地域の太守に赴任して、民をよく治めました。美しい妻とかわいい子どもたちを得て、20年間も王と民に大いに愛されて生きました。
そのように幸せだった人生に、ある日、陰がさし始めます。隣の国との戦争で負けて、敗戦の責任を負わなければならなくなったのです。このように窮地に追い込まれたところで、弱り目に祟り目、愛する妻まで病気で死んでしまいました。王もそれ以上淳于芬を愛さなかったし、淳于芬はみすぼらしい姿で、もと住んでいたところに帰って行かなければならなくなりました。
あまりにも心が傷ついて苦しんでいて、ふと目が覚めてみたら、自分が酒に酔って眠っていた木の下に寝ていました。20年間の波乱万丈の人生が、ただつかの間の夢にすぎなかったのです。この物語から、人生は無常だという意味の「南柯の夢」という言葉ができました。

この他にも同じテーマの小説や説話がたくさんありますが、あらすじは似ています。夢の中で波乱万丈の一生を送りながら、富と誉れを味わって、苦しみにもあって、ふと目が覚めたら、つかの間の夢だったというのです。
お年寄りの方は、このような物語の主人公のように、人生のむなしさを切実に感じるでしょう。人が生まれて、一生をどれほど労苦して、苦しみながら生きていくでしょうか。しかし、歳月が経つと、結局、自分に残るものは、しわ寄って老いたからだだけです。世のすべてのものが結局は消えてしまうし、人のからだも一握りのちりに帰ります。
[詩篇90:10]に「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」とあります。[ヤコブ4:14]に「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。」とあります。
いくら多くの富と名誉と知識を積んでも、いくら多くを味わっても、永遠に味わえるものはありません。世の人々もこのようなことを悟りはします。しかし、むなしくない永遠の人生が得られる方法は知りません。「心を明け渡して、むなしい欲を捨てなさい。善を行ないながら生きなければならない」という程度に思うだけです。
これと反対に、「どうせ死ねばすべてが終わりだから、思い切り快楽を味わおう」と思う人もいます。どうせすべてがむなしいと思うので、ある瞬間、耐えられにくいことに遭えば、簡単に命を絶ってしまう人もいます。
しかし、聖徒の皆さんはむなしくない人生の道をよく知っているでしょう? 本文[17節]に「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」とあるように、神のみこころを行なうことがまことの人生なのです。
世の人々が罪を犯す理由は、欲に従って生きるからです。持ちたい、手に入れたい、見て、触って、感じたい、認められたくて高くなりたい、このような欲を満たすためには、してはならないこともしていきます。
まことにこの世の欲がむなしいと知って、永遠の天国を望む人は、必ず神のみことばどおりに生きていきます。「しなさい」と言われたことはして、「守りなさい」と言われたことは守ります。「してはならない」と言われたことはしないで、「避けなさい」と言われたことは避けます。
このように神のみこころを熱心に行なっていく人は、世にあるものに接しても、欲が入りません。自分のうちに天国の望みがぎっしりなので、世の欲が入る隙間がないのです。

聖徒の皆さん、初代教会当時の聖徒を考えてみてください。彼らは世の人々から見れば、一番惨めでかわいそうな人生を送りました。数多くの聖徒が迫害を避けて、薄暗い地下墓地の中に隠れて暮らしました。財産と名誉、家族と命まで失うとしても、主を否認しませんでした。むごい拷問と刑罰を受けながらも、最後まで信仰を守った人が、どれほど多いでしょうか。
国家として大きい迫害が一度起こると、数え切れないほどの人が処刑されて、監獄は犯罪者が収容できないほど、クリスチャンでいっぱいだったそうです。迫害が少し収まった後は、あらゆる拷問によって目が見えなくなって、手足が切られるなどした人をどの村でもよく見かけたそうです。
当時の聖徒は、皆さんのように十字架のことばを詳しく聞いたのでもありません。数多くの神の力あるわざを体験したのでもありません。ただイエス・キリストが自分のために死なれた救い主だという確信があったし、天国に行くという望みがあったので、命をかけて信仰生活をしたのです。世でいくら良いものを味わってもむなしいということを確かに悟ったので、この地上のすべてを失うとしても、天国は捨てられませんでした。
それでは、今日の皆さんはどんな心で信仰生活をしているでしょうか? 初代教会当時のように怖い迫害はなくても、皆さんの心は殉教者のようでなければなりません。聖徒を惑わす敵である悪魔・サタンに立ち向かって、血を流すまで戦って、罪を捨てる努力がなければならないでしょう。
皆さんは神のみことばどおりに生きるために、罪を捨てるために、どのくらい努めているでしょうか? 「私は世のものが持ちたくて、味わいたいのに、良いものを見たくて触りたいのに、教会に通えば、あれもしてはならない、これもしてはならないと言うから、あまりにもつらい。」ひょっとしてこのように思う方はいないでしょうか?
結局は朽ちてなくなる世と世の欲に未練を持つ方はいませんように。父なる神の恵みを心の奥深く刻んで、まもなく私たちの目の前に繰り広げられる天国の栄光をいつも覚えている皆さんになりますように。父なる神をあまりにも愛するから、永遠なる天国があまりにも慕わしいから、幸せに真理を行なえるようにお願いします。

愛する聖徒の聖徒の皆さん、続く本文[18節]をご覧ください。「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」とあります。
この戒めのみことばは、すべての聖徒に当たりますが、特に「小さい者たち」に対して、もっと強調しています。「小さい者たち」とは、実際に小さい子どものことでなく、霊的な意味で小さい者を言います。父なる神と主について大まかに知っていて、信仰の二段階ぐらいに当たる初心の者を「小さい者たち」と呼ぶと言いました。
この段階にいる聖徒は、みことばを守り行なおうと努力はしても、そのとおりに行なえないことが多いです。聖書のみことばを深く悟って知るのでもないし、ほとんど聖霊の声も明らかに聞けないし、働きかけられもしません。
若い者たちや父の信仰を持った人なら、反キリストに惑わされはしません。ところが、小さい者たちの信仰の時は、巧妙な偽りで惑わされれば、よくわからなくて、まかり間違えば反キリストに欺かれるおそれがあります。
本文で「小さい者たちよ。」と、特に呼びかけている理由がまさにこれです。まだ岩の上に立った信仰でないので、反キリストが現れるとき、惑わされないで信仰をしっかり守らなければならないと強調しているのです。また、もっと励んで、若い者の信仰、父の信仰へとまめに成長すべきことも、悟らせてくださるのです。

愛する聖徒の皆さん、それでは、終わりの時は、いつからいつまででしょうか? 聖書に出てくる「終わりの時」、あるいは「終わりの日」は「イエス様がこの地上に来られた時から、将来救われた子どもたちを迎えに来られる再臨の時」までを意味します。つまり、イエス様がお生まれになった時から、すでに終わりの時が始まりました。
今日、私たちが生きているこの時代は、終わりの時の中でも終わりと言えます。「世の終わり」、すなわち、主が再び来られる日が非常に近づいた時です。それで、終わりの時の前兆がかすかに現れるのでなく、主を信じない人までも肌で感じられるほど、はっきりと現れます。すると、終わりの時には、どんな前兆があるでしょうか?
弟子たちが終わりの時について質問したとき、イエス様が答えてくださった内容が[マタイ24章]に記されています。少し長いですが、[マタイ24:5-14]をお読みします。
[5節]「わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。(この惑わす者たちについては、後で反キリストを説明する時に調べてみましょう。)
[6節]「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」(ここで「戦争のことや、戦争のうわさ」とは、「第1,第2次世界大戦」を指していると、「黙示録講解」で説明しました。)
[7-8節]「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」過去にもこのような災いが続いてありましたが、今は本格的な災いの時代になりました。
民族と国が互いに敵対して、終わりの日まで起こることについては、数年間私が預言してきたとおりに進んでいることを皆さんも知っているでしょう。世界的に、ききんと地震をはじめ、災いも毎年、悲惨なニュースが増えています。今年だけ見ても、すぐわかるでしょう。
神は2010年が始まるとき、人々は希望をもって新年を迎えるが、この年も「阿鼻叫喚」になるだろうと教えてくださって、私は聖徒の皆さんにもそれをお伝えしました。阿鼻叫喚は1月から直ちに現れました。1月12日、ハイチではマグニチュード7.0の大地震が起きましたが、死傷者が23万人を超えました。2月には、チリでマグニチュード8.8の大地震が起きて、これによって地球の軸がずれるほどだったと言いました。4月には、メキシコとインドネシアをそれぞれマグニチュード7.2と7.7の大地震が強打しました。中国でも、マグニチュード7.1の大地震が起きて、数千人の死傷者が出ました。特にアイスランドの火山噴火の時は、火山灰によってヨーロッパの空港が閉鎖されて、史上最悪の航空混乱が起きました。この他にも、さまざまな地震と台風、雪崩、山崩れ、強風と暴雨、猛暑、寒波、洪水など、数多くの災いの記事が毎週ない日がありません。
このようにいくら大きい災いが起きても、しょっちゅう接してみると、危機感が薄くなります。歳月がある程度経つと、すぐ忘れたりもします。しかし、人は忘れても、神は確かに終わりの時を知らせてくださっているし、終わりの日は必ず臨むでしょう。
続く[9-14節]には「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」とあります。(このみことばどおりに、福音はすでに全世界に宣べ伝えられました。地の果て、すなわちイスラエルにも福音は深く入っています。)
また、終わりの時の罪と悪について、[第二テモテ3:2-5]では、このように語っています。「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」とあります。
このような神のみことばがそのとおりに成就されてきて、悪に悪が加わって、今日は、罪と悪がはびこっています。ニュースの社会面を見ると、口にするのもおぞましい犯罪の記事が洪水のようにあふれています。はなはだしくは、教会の中にも、このような罪と悪が浸透しています。まことに聖徒が目をぱっちり開けて、目ざめていなければならない終わりの時なのです。
ところが、ある人々は、終わりの時についての警告を聞いても、無視します。使徒ペテロが働いていた当時も、このように終わりの時を知らせることばを否認しようとする人々がいました。[第二ペテロ3:3-4]に「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」とあります。
しかし、この人々が悟れなかったことがあります。たとえさばきの日が千年後だといっても、自分自身には時間があまり残っていないということです。いずれにせよ、自分が死を迎えるその瞬間が、その人にとっては世の終わりなのです。
人がいくら長く生きるといっても、百年生きることはやさしくありません。しかも、自分の明日の日を知っている人はいないでしょう。きのうまでは元気だと思っていたのに、きょう不治の病を宣告される人もいます。事故や災いで急死する人も、事故の直前までは、自分がすぐ死ぬとは知りません。
ですから、時代を問わず、聖徒は終わりの時に備える生き方をしなければなりません。しかも「終わりの時の終わり」に生きている聖徒の皆さんは、もっとそうするべきでしょう。この終わりの時の前兆の一つが反キリストの出現ですが、これについては次の時間にお伝えします。


[結論]


愛する聖徒の皆さん、[第一テサロニケ5:2-3]に「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」とあります。また、[第一ペテロ4:7]には「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」とあります。
霊的な眠りに落ちた人々は主が遅く来られるだろうと思っています。そうしていて、突然、盗人に入られるように、備えのないまま終わりの時を迎えなければならないのです。しかし、目を覚ましている聖徒には、主が突然来られるのではありません。一日一日、光の中を歩みながら備えさせて、喜びと感激で主を迎えるようにしてくださるのです。
私は皆さんすべてが目を覚ましていて、ひとりも欠けず喜んで主のふところにいだかれるように願っています。そうするために罪と悪を捨てなければならないと、あれほど叫びに叫んでいるのです。一日一日、日が経つほど、主に会う日はさらに近づいてきます。
愛する聖徒の皆さんは、祈りのために、もっと心を整え身を慎みますように。また、罪と悪に落ちることもなく、心の根から罪の性質を全部引き抜いて、花嫁の備えをすみやかに終えますように。それで、すべてが花婿なる主のふところにいだかれて、いつまでもながらえますように、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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