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主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   信仰を測ると (19)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   エゼ 47:1-5
Date
   2013-05-19


[本文]

[エゼキエル47:1-5]
「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。 」


[序論]

愛する聖徒の皆さん、GCN放送の視聴者の皆さん、教会学校の子どもの皆さん、きょうはペンテコステ主日です。聖徒の皆さんがよく歌っている韓日讃頌歌179番にこういう歌詞があります。「良き知らせを 世に伝えよ うちひしがれ 悩む者に 主を信じて 告げ知らせよ みたま来たり みたま来たり みたま来たり 主がつかわす みたま来たり」この歌詞のように、聖霊がこの地上に来られたことは、本当にうれしく感謝なことです。
使徒の働き2章を読むと、マルコの二階の広間で祈っていた使徒と聖徒たちに、主が遣わすと約束された聖霊が臨みました。その後、彼らは聖霊の力によって、どんな迫害も死さえも恐れないで、主の福音を宣べ伝えました。聖霊によって、ひとりひとりの心に愛と天国の望みが湧き上がったからです。特に使徒たちは病気とわずらい、または悪い霊につかれて苦しんでいる人を、聖霊の力によっていやして解放させました。これによって福音はイスラエルを越えてアジアとヨーロッパにまで伝えられ、救われた神の子どもが日増しに増えていきました。
皆さんはどうでしょうか? この終わりの時にも、このようなみわざを目で見ていることはもちろん、聖霊によってただ福音に従って生きています。[第二テモテ1:14]に「そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。」とあるように、みことばどおりに生きています。
このような生き方の結果として与えられるものは何でしょうか? 父なる神様のまことの子どもになって、主がまたおいでになる日、そのふところにいだかれて、やがて備えられた天国の場所に入って、与えられた栄光と楽しみを永遠に味わうことです。
このように私たち自身ではとうていできないことをできるようにされ、決して味わえないものを味わえるように聖霊を遣わしてくださった父なる神様、聖霊が来られるように道を開いてくださった主、この地上に来られた助け主聖霊様に、すべての感謝と栄光をおささげいたします。きょうはこのような恵みを心に刻んで、心から喜んで感謝しますように。
きょうは「信仰を測ると」十九回目です。
マタイの福音書22章を読むと、イエス様がたとえをもって天国について説明してくださる場面が出てきます。[2節]に「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」とあります。ところで、この宴会はちょっと独特でした。招待された人々が宴会に来たがらなかったのです。王が別のしもべたちを遣わして、もう一度招いても役に立ちませんでした。ある者は畑に、別の者は商売にと、それぞれの仕事に出て行ってしまいました。それどころか、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、殺す者たちもいました。
それで、王はしもべたちに「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」と言いました。しもべたちがこうして、やっと客でいっぱいになりました。ところが、そうしたら宴会場には悪い人もいたし、婚礼の礼服を着ていない無礼な人もいたのです。
このたとえで「王」とは、私たちの父なる神のことです。「王子」とは私たちの花婿、主のことです。父なる神は多くの人を「披露宴」すなわち「救いの席」に招かれました。心を尽くして宴会を設けて、多くの人を丁重に招待してくださいました。
皆さんはほとんど、このお招きに喜んで応じられたでしょう。ひょっとしていまだに世のことであわただしくて、答えを延ばしている方がいるでしょうか? 今は喜んで感謝をもってお招きに応じますように。また、将来、美しい礼服を着て宴会にあずかりますように、私たちの花婿なる主の御名によって祈ります。


[本論]

愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆さん、「救われない罪」十番目は「主のしもべを欺いて聖霊を欺く罪」です。
皆さんの中で、ひょっとして時々神様を欺こうとする人がいるでしょうか? 私がこう聞くなら、皆さんはみな「いいえ」と答えるでしょう。ところが実際には、たまに神を欺こうとする場合があります。もちろん[ヨブ記13:9後半節]に「あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。」とあるように、神を欺くことは不可能です。それでもからし種ほどの信仰でも持っている人は、そんな心をいだくことすら想像もできないのです。きょうお伝えしようとするのは「神がともにおられる主のしもべを欺いて、聖霊を欺くこと」です。これは神を欺くことと同じだからです。
[黙示録21:8]に「すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」とあります。偽りを言って人を欺くことも、このように恐ろしい結末を生む大きい罪なのに、まして神を欺く罪はどうでしょうか。これは、神が確かに生きておられ、人の子らの心を探る全知全能のお方であることを信じられないという証拠です。
また、前回、神がともにおられる人に立ち向かうことは、すなわち、神に立ち向かうことと同じだと言いました。同じように、神がともにおられる主のしもべを欺いて、聖霊を欺くことは、神を欺くことと同じです。
ここで「神がともにおられるしもべ」とは、神がともにおられる証拠が伴うしもべのことです。その証拠は「神の力」です。この力とは「権威の伴う神の力」のことで、これは神だけのものです。聖書を読むと、神がともにおられた預言者や使徒は神の力あるわざ、すなわち、しるしや不思議なわざを現しました。一例として[マルコ16:20]に「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。
聖徒の皆さん、それでは、なぜある人たちは愚かなことに主のしもべを欺いて、聖霊を欺こうとするのでしょうか? たいていの場合、自分の利益を求めたり、大きな過ちを隠すためにです。これから紹介する、聖書の二つの出来事を通して、これがどれほど愚かなことなのか、またどれほど恐ろしい結末を招くのか、悟ってみますように。
使徒の働き5章には、初代教会の時代に使徒を欺いて滅びに至った夫婦が出てきます。それはアナニヤとサッピラです。この夫婦は自分の持ち物を売り、主のからだなる教会にささげようと定めましたが、ついむさぼりが動き出して、その代金の一部を残しておきました。
ある部分だけを持って来て、使徒たちの足もとに置くと、ペテロは次のように責めました。[使徒5:3]「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。」[4節の後半節]「なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」[5節]には「アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。」とあります。その後、使徒の前に来たサッピラも、夫と同じように使徒たちに偽りを言って、彼女もたちまち倒れて息が絶えて死んでしまいました。このようにふたりとも神の人に呪われて、たちまち倒れて息が絶えてしまったから、救われなかったのです。
聖徒の皆さん、アナニヤとサッピラに弁明する機会があったなら、「人である使徒たちを欺こうとしただけだ」と言ったかもしれません。しかし、霊的に見ると、この夫婦はペテロが言ったとおり「サタンに心を奪われ」、すなわち、サタンに操られて、むさぼりを心にいだき、主のしもべを欺いたのです。
ペテロは、特に聖霊がともに働かれ、神の力を行う使徒でした。この時も聖霊が働かれて、アナニヤとサッピラが偽りを言っていることを立ちどころに見抜くことができました。それで、ペテロは自分を欺いたのではなくて、聖霊を欺いたと言ったのです。
この夫婦の心はどれだけ悪かったでしょうか。立ち返る機会も得られずにその場で死んでしまったくらいです。ふたりのしたことは、このように救いの範囲から外れている悪い行いでした。むさぼりはもちろん、神がともにおられ、聖霊のみわざが伴う主のしもべを欺く心がどれほど悪いかを心に留めなければならないでしょう。
愛する聖徒の皆さん、これと似たもう一つの出来事が第二列王記5章にあります。預言者エリシャに仕える若い者ゲハジがその主人公です。ゲハジも物質に目がくらんで、神の人、預言者エリシャを欺きました。
その当時、隣の国、アラム王の将軍ナアマンは、エリシャのことばに聞き従って、ツァラアトのからだがきよくなりました。あまりにも感謝で、お礼をしようと高価な贈り物をいっぱい載せて、エリシャのところにもう一度来ました。エリシャは服一着も受け取らないで、ナアマンをそのまま帰らせました。ところが、ゲハジはその贈り物を見てむさぼりが動き出し、ナアマン一行を追いかけていって、エリシャの名を借りて、ものを要求します。
[第二列王記5:22]に「私の主人は私にこう言ってよこしました。『たった今、エフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若い者が私のところにやって来ましたから、どうぞ、彼らに銀一タラントと、晴れ着二着をやってください。』」とあります。ゲハジはこう嘘をついて、受け取った物をしまい込んでおいて、とぼけます。エリシャが「ゲハジ。あなたはどこへ行って来たのか。」と聞くと、「しもべはどこへも行きませんでした。」と嘘をつきました。
預言者エリシャは、イスラエルの敵国の王と家来たちが寝室の中で語ることばまで知っているほど、驚くべき奇蹟を行う預言者でした。ゲハジは愚かなことに、このようなエリシャを欺こうとしました。エリシャが事実を言って、悔い改めることができるように機会を与えたにもかかわらず、罪を犯したことを隠しました。
しかし、エリシャは直接見たかのように、ゲハジが何をしたのかことごとく知っていました。エリシャがこれについて言って、呪いのことばを口にすると、ゲハジはツァラアトに冒されてしまいました。
彼はこのように愚かでした。エリシャに仕えていて、どれほど多くの神のみわざを見たでしょうか。それなのに神と神の人を恐れませんでした。かえって、心にいだくべきでないむさぼりをいだき、決定的に神の人を、すなわち、神を欺きました。それで、呪われてしまいました。つまり、神とかかわりない人になったのです。
聖徒の皆さん、神を恐れる人は聖殿とその中にある物など、神とかかわるすべてをただの物と見ません。また、むやみに扱えません。このような人なら、まして神と明らかに交わる神のしもべ、聖霊のみわざが伴う主のしもべに、どう対するでしょうか? 父なる神を愛するように愛して、主を尊く思うように尊く思うでしょう。どうして欺くことがあるでしょうか? 決してできません。
前の二つの出来事を通してわかるように、旧約でも新約でも、聖書には主のしもべを欺いて聖霊を欺いた結果について、はっきり記されています。たとえこの地上で人の前には現れなかったとしても、最後の審判台の前では、すべてのわざがさらけ出されます。必ずそれに対する懲らしめが臨むのです。これを必ず覚えて、また、アナニヤとサッピラ、ゲハジのことを教訓として、このような悪を警戒して恐れますように。
愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆さん、「救われない罪」十一番目は「着物を洗わないこと」です。
聖書を読んでみれば、私たちの心を衣にたとえるみことばがよくあります。[黙示録3:4]には「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。」とあります。また[黙示録22:14]には「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。」と記されています。
ここで、「衣」と「着物」は、霊的に「心」を意味しています。したがって、「衣を汚さなかった」とは、主を受け入れて罪が赦された後に、罪で心をもう一度染めなかったということです。「着物を洗う」とは、心についた垢、すなわち、悪を捨てて、きよい心にする作業を意味します。これは別の表現で「心に割礼をする」と言います。
[エレミヤ4:4前半節]に「ユダの人とエルサレムの住民よ。【主】のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」とあります。「割礼」とは、旧約時代に男の包皮の肉を切り捨てて、神の民として聖別する儀式でした。排泄物がついて汚染して臭くなりやすい部分の包皮を切り捨てることで、行為的にきよくなる儀式でした。
ところで、神はこの割礼を「心」に受けなさいと言われたのです。これは、罪に染まって汚れて悪臭がする「心の包皮」を取り除いて、きよい心に変えられなさいという意味です。
続く[エレミヤ4:4後半節]には「さもないと(すなわち、心に割礼をしなければ)、あなたがたの悪い行いのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」とあります。簡単に言えば、心に割礼をしなければ「消せない憤りの火」、すなわち、永遠の地獄の火に入るしかないということです。
もちろん、これは心の割礼を完璧にしてこそ救われるという意味ではありません。たとえ少し遅くても、続けて心に割礼をしながら聖なる心に変えられていけば、完璧でなくても救われるのです。心に割礼をして聖められたほど、パラダイス、一天層、新しいエルサレムなど、天国のそれぞれの場所に入るようになります。
ここで、「心の割礼をしない」とは、心の割礼を長い間していない状態のことです。また、反対に心をむしろ罪に染めていくことも、これに当たります。
聖徒の皆さん、序論で紹介したマタイの福音書22章にも、着物を洗うことがどれほど重要なのか悟れる内容があります。王が宴会の途中、客を見ようとして入って来て、婚礼の礼服を着ていない人を見て、聞きます。「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。」彼が黙っていたら、王はしもべたちに「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」と命じました。
皆さん、一度常識として考えてみてください。宴会に行く時は、華やかで高級な服でなくても、最小限清潔できちんとした服を着ることが礼儀で常識です。礼服を用意しなかったとは、この客は基本的な備えさえしないで宴会の場所に入って、とても失礼なことをしたということです。
しかも、宴会を設けた主人は誰でしょうか? 尊敬される王です。また、民を愛する王です。父なる神様も私たちを、あえて夢見ることもできない尊い宴会に招待してくださいました。つまり、イエス様を十字架刑に渡してくださったことで、宴会にあずかる資格を下さったのです。
ところが、わずかな備えもなく、以前着ていた汚くてみすぼらしい服をそのまま着て、宴会の場所に入るなら、どうでしょうか? そのお招きを尊く思う心が、少しでもあると言えるでしょうか? このような人は、このたとえ話の最後の聖句[14節]に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とあるように、たとえ宴会に招待されても、客として選ばれることはないということを悟らなければならないでしょう。
聖徒の皆さん、今日、教会に通う人のうち多くが、心に割礼をすべきことを知らずに、形式的に信仰生活をしています。礼拝、祈り、奉仕、すなわち、うわべの行いは励んだりもしますが、心の罪と悪を捨て去ることはおろそかにしているのです。そうしていて何か問題にぶつかれば、心の悪が突き動かされて、主を離れたり教会を離れたりします。または、律法学者やパリサイ人のように偽善の信仰生活にとどまります。
しかし、うわべでいくら律法を厳格に守り行っても、心の中にあらゆる汚れた罪と悪をずっと持っているなら、救われることはきわめて難しいということを、心に留めなければなりません。救いは偽善の行いではなくて、心の底から信じる「霊の信仰」によって受けるものだからです。
何を信じるのでしょうか? 主が自分の罪のゆえにむごい十字架を負ってくださったことを信じるのです。これを心の底から信じれば、それ以上罪を犯すまいと努力するようになります。行いで罪を犯さないだけでなく、心から罪と悪を根の根まで引き抜こうと、苦しみもだえるようになります。
もちろん、このような姿が見えなくても、「私は確かに主を信じます」と告白する人がいるかもしれません。しかし、「行い」が伴わなければ、これもまことの信仰と言えません。今日、真理をよく知らない人は、行いを強調すれば、かえって「律法主義」とさばいたり、罪に定めたりもします。しかし、「律法主義」とは、神を愛する心もなく、うわべに現われる行いだけ重視する態度のことです。誤解してはいけないでしょう。
また、行いを大切に思うことは、とても聖書的です。[ヤコブ2:22]に「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、」とあります。ですから、まめに着物を洗って、すなわち、みことばをまめに守り行って心に割礼をして、美しい礼服を用意しますように。それで、父なる神様が招いてくださった「救いの席」に必ず連なりますように、主の御名によって祝福して祈ります。
[結論]
愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆さん、[黙示録22:14]に「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。」とあります。[黙示録22:15]には「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」とあります。
この二つのみことばはどれほど対照的でしょうか。皆さんは着物をまめに洗うだけでなく、二度と汚れたものがつかないように清く守っていきますように。それで、パラダイス、一天層、二天層、三天層の門を通って、最もすばらしい天国、新しいエルサレムに必ず入りますように。皆さんすべてが空中の婚宴はもちろん、新しいエルサレムの宴会に貴賓として選ばれますように、主に御名によってお願いします。

 
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