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ヨハネの手紙第一講解 メッセージ > ヨハネの手紙第一講解
ヨハネの手紙第一講解
Title
   ヨハネの手紙第一講解 (29)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヨハⅠ 3:13-14
Date
   2012-02-19


[本文]

[第一ヨハネ3: 13-14]
「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」


[本論]

愛する聖徒の皆さん、きょうは「第一ヨハネ講解」二十九回目の時間です。前の時間に続いて[第一ヨハネ3章13節]を調べてみたいと思います。
「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」とあります。「世」とは「神の子どもとは反対の世の人々、すなわち、暗やみの支配者、敵である悪魔・サタンに操られる世の人々」のことを言います。
時々、世の人の中には、何の理由もなく神を信じる人を嫌って、敵対する人がいます。これは聖徒の信仰生活を妨げて迫害し、救いから遠ざからせようと、敵である悪魔・サタンが策略をめぐらしているのです。
世が聖徒を憎むもう一つの理由は、聖徒が義を行なうとき、その光によって自分たちの暗やみが明るみに出されるからです。そのため、世が聖徒を憎んでも、驚いてはいけませんと書いてあるのです。「義のために迫害されている者は幸いです。」とあるので、真理を行なうことによって苦しめられるとしても、喜んで感謝したらよいのです。そうするとき、公義の神が働かれるので、神の子どもたちにもっと大きな祝福が臨みます。
皆さんが家庭で迫害されても、喜んで感謝しながら、善だけを蒔いていくなら、結局、家庭福音化の実を結ぶでしょう。職場でも同じです。教会に通うからといって迫害されても、喜び、楽しみながら、変わらずに善と正直、仕えをもって行なえば、すべての迫害は結局、祝福に変わります。
神の律法を喜んで、神に喜ばれれば、神は敵をも和らがせてくださいます。前は皆さんを憎んでいた人々も、結果的には、他の人よりもっと強い愛と信頼の関係を結ぶようになることもあります。もちろん、ある場合は、迫害する人にいくら善をもって対しても、その人たちが最後まで立ち返らないで、聖徒を憎んで害を被らせようとする時もあります。しかし、こんな時も、最後まで善をもって行ないながら、黙って神にゆだねればよいのです。神はそれを弁護し、正しいさばきで、善であれ悪であれ報いてくださるからです。
ダニエルもそうでした。ダニエルが王に大いに愛されたので、これをねたんで憎んでいた人々が彼を取り除こうと、わなにかけました。一か月間は、王以外に、いかなる神にも人にも、祈願をすることを禁じる法を作ったのです。ダニエルはその法が自分を狙ったわなだと知りながらも、いつものように毎日神に祈り、結局、逮捕されて獅子の穴に投げ込まれました。
その結果は皆さんがよく知っておられるでしょう。神がダニエルを守られたので、飢えた獅子と一晩中いっしょだったのに、彼に何の傷も認められなかったのです。この出来事をきっかけに、王はダニエルをもっと信頼して愛するようになりました。一方、ダニエルを殺そうとたくらんだ人々は、獅子の穴に投げ込まれて惨めに殺されました。
聖徒の皆さん、ダニエルは、自分が獅子の穴に入っても殺されないで、より大きい栄光を味わうようになると、前もって知っていたのではありません。神に祈れば殺されると知っていながらも、命をかけて祈ったのです。
しかし、神を信頼していたので、ダニエルには恐れがありませんでした。自分が神の律法を犯していなかったので、霊的に大胆であれたのです。神がすべてを働かせて益としてくださると信じ、獅子の穴より大きい、どんな苦しみがやって来ても、いつも最も良いものを下さる愛の神を信じていました。このような信頼があったので、大きい危機の前でも心安らかで、善なる告白と感謝の祈りだけができたのです。
愛する聖徒の皆さん、皆さんもこうできるでしょうか? はい、感謝なことに、そんな方々がたくさんおられます。一方、今はアーメンと言えるけれど、いざとなるとそうできないこともあります。自分なりに主を愛して、命までささげられると告白しても、いざというと訓練の中では平安を失ってしまいます。御霊による思いができない分、肉の思いが波のように押し寄せてきて、あれこれの恐れと悩みでびくびくするのです。
「私は真理を行なったのに、神様はなぜ困ったことにあわせられるだろう。私が正しい道を守ろうと意地を張らないで、ある程度は妥協したほうがよかったのか。今からでも別の方法を使わなければならないだろうか。神様が助けてくださるだろうか。この危機から免れることができるだろうか。私は信仰を守って栄光を帰そうというつもりでしたことだが、もし結果が良くなければ、かえって栄光を遮るだろうに、どうしよう。」際限なく思いが浮かんで、こうしようか、ああしようか、どうしたらよいかわからないまま、顔は憂いでいっぱいです。
しかもその訓練が早く終わらないで、自分が思ったより長く続けば、以前は発見できなかった姿も現れてきます。訓練に疲れて、聖められようとする努力をやめたり、使命をおろそかに思ったりもするのです。「私は本当にがんばったのに、他の人よりもっと忠実に仕えたのに、もっと愛したのに、どうして私には祝福を下さらないのか」と恨んでつぶやいたりもします。神の御前に認められないからむなしくなって、「神様、私は最善を尽くしたのに、もう私も知りません」とぶつぶつ言います。 あるいは、知識的な信仰でもあって、神を直接恨まなくても、「私は努力しても愛されないようだ。私の心は神様の前に認められるような心でないようだ」と、気を落とすようなことを口から出したりもします。これは神の愛に信頼する姿ではありません。神は一瞬も目を離さないで、全部お聞きになり、ご覧になっていることも忘れてしまっているのです。
ダニエルのことをもう一度考えてみますように。彼が命が危なかったとき、むなしいと思ったり、「神様、私は本当に神様のみこころのとおりにだけ生きたのに、どうして私をこんな目にあわせるのですか」と、口から恨みの言葉を出したなら、どうなったでしょうか?もちろん、ダニエルの信仰なら、そうするはずはありませんが、一度仮定してみてくださいということです。
神が獅子の穴から救い出して、前より高い地位につかせてくださった後、自分が以前恨んだことを思い出せば、どれほど恥ずかしく申し訳ないでしょうか。「このように祝福を備えておかれた愛の神様の前で、私はどうしてあんなことを言ったのだろう。私はなぜ信頼できなかったんだろう」と、骨にしみるほど後悔したでしょう。

 
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