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主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   信仰を測ると (12)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   エゼ 47:1-5, ガラ 5:19-21
Date
   2011-09-18


[本文]

[エゼキエル47:1-5]
「(1、2節省略)その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。 」

[ガラテヤ5:19-21]
「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」


[序論]

愛する聖徒の皆さん、「信仰を測ると」十二回目です。
[第一テサロニケ5:22]に「悪はどんな悪でも避けなさい。」とあります。神は不可能なことを命じられる方ではありません。できることなので、このように言われたのです。主によって強くされれば、どんな罪でも避けてその性質まで捨てることができます。
たまに、夜を明かしながら、生死の境をさまよう危篤な患者を顧みる心の良い医者が見られます。私たちの父なる神も、罪のゆえうめいている魂、命が消えていく魂を生かすために、絶えずいやして顧みられます。
時には愛する子どもを生かすために、簡単でない大手術も耐え忍ばれます。つまり、罪を一つ一つ現され、さばきについてはばかることなく宣言されます。罪を悔い改めて変えられるように、愛の懲らしめをお与えになることもあるのです。
このような愛の御手を信じて、父なる神に頼りますように。毎週、毎日、毎瞬、聖霊が導くとおり、みことばを心の糧として火のように祈って、毎日聖められますよう、主の御名によって祈ります。


[本論]

聖徒の皆さん、きょうは救われない罪、第五、「姦淫をはじめ、さまざまな不品行」について補足説明をしようと思います。
前回は、新約聖書に書いてある代表的な不品行を調べてみました。そのうち「汚れ」や「好色」は、不品行の中でもその程度がひどいほうに属すると言いました。
ところが、今日、このようなことがとても広がっていることがわかります。好色な人の場合、汚れたことをどれほどはばからないで行なっているでしょうか。悔い改めの手紙の中にも、これに当たる内容がありました。どれほど大きなショックを受けたでしょうか。
一例として、夫婦が合意して、ほかの夫婦と配偶者を交換して性関係を結んだこともありました。夫または妻に隠して浮気をしたのでもなく、自分の妻を他の人の妻と、自分の夫を他の人の夫と変えて関係をした、ということです。
どうしてこんなことがあり得るのかと思いましたが、世には意外にこういう汚れたことが広がっているそうです。すでに、こういう行為を指す名称もあるくらいです。辞書には「スワッピング」とあります。これはもともと経済用語として使われていますが、俗語では「二組以上の夫婦または男女のカップルが、お互いに相手を交換して行う性行為。」という意味だそうです。
2000年代に入って、韓国にもこんなことが起きていることが表ざたになって、社会に大きなショックを与えたことがあります。それから10年ぐらい経った今は、このような罪と悪がどれほどはびこっているでしょうか。
これは、世の性道徳や結婚観念に照らしてみても、はなはだしく人の道に背くことです。神がご覧になると、どうでしょうか。私は身震いするほどぞっとします。皆さんも、神の子どもとしてこのように感じなければなりません。これは神が本当に嫌われる悪行であり、決して救われない罪だからです。
このような悪を行なった聖徒の中で、数人は徹底的に悔い改めたのに、結局、重い病気にかかって亡くなってしまいました。悔い改めない人には、初めから懲らしめさえ臨まなかったのを見ました。つまり、悔い改めて救われる機会さえお与えにならなかったということです。このような悪行に対する報いがどれほど恐ろしいのか心に刻んで、聖徒の皆さんすべてが、このような悪を警戒に警戒しますように。
聖徒の皆さん、今日、性的な堕落が物質中心主義とかみ合わさって、汚れた不品行が頻繁に起こっているのが見られます。単に花街だけでこういう汚れたことが盛んなのではありません。今は、普通の家庭の小さい子どもにも頻繁に起こっています。
一例として、最近、青少年が小遣い稼ぎのために「援助交際」をすることがとても多いそうです。辞書によると、「援助交際」とは「金銭の援助を伴う交際。主に未成年の女子が行う売春をいう俗語。援交。」とあります。
最近の新聞記事によると、外国の9歳の女の子がインターネットに援助交際の相手を探していると、広告を出したそうです。これに20人も募集したそうです。小さい女の子がこのようなショックなことをした理由は、約3千7百円ぐらいする「トレーディングカード」を買うためだったそうです。自分の行動がどんな意味を持っているのか知らないだけでなく、これに反応したおとながそんなに多かったという事実に驚かざるをえません。
最近、小遣いを稼いできれいな服を買うために、家出の費用に充てるために、援助交際をする青少年がめっきり増えたそうです。マスコミによると、男子生徒が家出した女子生徒を捕まえて、無理やりに売春させる犯罪もしょっちゅう起こっています。女子大生が高い授業料を工面するために、または「ブランド品」を買うために、花街を転々とすることは昨日、今日のことではありません。
こんな現実を通して、多くの青少年と若者の性観念が本当に間違っていることがわかります。青少年のほとんどは、こういう行ないがどれほど大きい悪行なのか、認識さえしていません。また、最初はこわごわやっていても、一回、二回と繰り返しながら、だんだん良心が鈍くなって、お金を稼げるならどんなこともはばからないようになったりもします。
子どもたちは家庭の鏡であり、若者はその社会の鏡です。このような悲しい断面は、私たちの社会が、この世が、性的にどれほど堕落したかを物語っています。
私たちの聖徒の皆さんと若者の皆さんは、すみやかに聖なる神の子どもとして堅く立ちますように。皆さんの家庭を守って、さらに進んで隣人の子ども、学校の友だちを真理の枠の中に導きますよう、主の御名によってお願いします。
聖徒の皆さん、最後に「霊的な不品行」について簡単に調べましょう。
霊的な意味の「不品行」とは、花婿である主以外の対象に心を与えることを意味します。旧約聖書の預言書を見ると、神がイスラエルの霊的な不品行を責められる内容がたくさんあります。[イザヤ54:5前半節]に「あなた(すなわち、イスラエル)の夫はあなたを造った者、」とあります。神はイスラエルの民を妻と呼んでおられます。当時イスラエルの民が行なった代表的な不品行は、偶像礼拝でした。神から離れて偶像を拝むとき、神はこれを妻の不貞、すなわち、不品行としてみなされました。
今日も同じです。必ずしも偶像を拝むことだけが不品行ではありません。神より世のものを愛して、心はもちろん、自分の力と時間、物質を注ぐなら、これは霊的に不品行になります。[ヤコブ4:4]に「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」とあるとおりです。
世の友となりたいと思えば、だんだんその心が神から遠ざかります。立ち返らなければ、結局、救いとも遠ざかってしまいます。ですから、このような霊的な不品行が芽を出しもしないように、根の根まですみやかに取り除きますように。
愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆さん、今日、どうして多くの人が不品行を罪だと思えないのでしょうか? また、神はここまで厳しく、また切に不品行を警戒しておられるのに、どうして神を信じる人でさえ、不品行をしながら生きているのでしょうか? あまりにも罪がはびこっている世で、罪の中で、生まれ育ったからです。また、神を信じるといっても、真理をそのまま教わらなかったからです。
人類の歴史初期には、それでも人の良心が正しかったので、神を恐れる心がありました。誰かが教えてくれなくても、不品行が大きい罪だと、ほとんどが知って感じられたのです。ところが、数千年が流れるにつれ、人は神のことばからだんだん離れてしまいました。良心がだんだん罪に染まっていった結果、罪について無感覚になってしまったのです。
今日はその程度があまりにもひどくなって、日常茶飯事のように不品行をしながらも、不品行が罪だという意識もなく、良心の呵責さえ感じません。敵である悪魔・サタンが人を欺いているからです。
一つの例として、テレビをはじめ、いろいろなマスコミは罪を美しい愛のように美化しています。神に立ち向かう思想が隈なく広がって、人々が「楽しんで生きなければ。神はいない」という思いに染まるようにしました。不品行をしてわずかな良心の呵責を感じたりもしますが、すぐ良心の声を無視して、神も、天国と地獄も作り話だろうと自分を慰めます。
しかし、神のことばはすべてがまことであり、人は審判台の前に立たなければなりません。また、[伝道者8:11]に「悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。」とあるとおり、自分が今すぐ地獄に行くのではないので、心が悪を行なう思いで満ちて、行なっています。
もちろん、世の人は罪に対する宣告が下されても、悟れないで快楽を求め続けようとします。しかし、満足を得るのではなく、かえって災いとさまざまな苦しい目にあうだけです。そのつど、直ちに宣告が下されなくても、だんだん心がむなしくなります。
快楽が幸せを与えるなら、どうして人々が日増しにもっと強い快楽を追い求めるでしょうか? 情欲的なものをいくら求めても、 瞬間的な快楽を与えるだけで、これは霧のようにあっという間になくなってしまいます。まことの幸せを与えてくれないのです。世の人はこれを知りません。知っていても、この快楽の鎖を断ち切れないで、苦しみながら生きていきます。その結末は地獄の永遠の刑罰なのです。
[ユダ7節]を見ると、このようなみことばがあります。「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」
このように、性的な堕落の後は、必ずさばきが伴うことを歴史が証明しています。古代ローマの休養都市ポンペイも、急な火山噴火によって滅ぼされました。その遺跡を回ってみると、その文化が性的にどれほど乱れていたのかがわかります。
この続きは次回伝えます。

 
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