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ヨハネの手紙第一講解 メッセージ > ヨハネの手紙第一講解
ヨハネの手紙第一講解
Title
   ヨハネの手紙第一講解 (13)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヨハⅠ 2:18-19
Date
   2010-11-28


[本文]

[ 第一ヨハネ2:18-19]
「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」


[序論]


愛する聖徒の皆さん、「第一ヨハネ講解」十三回目です。
前回は「終わりの時」について説明しました。終わりの時には、わざわいが加わって、不法がはびこって、罪と悪が満ちると言いました。また、きょうの本文[18節]に「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」とあります。終わりの時は、反キリストが現れることを聖徒たちがすでに聞いていたということです。
それでは、「反キリスト」とは誰でしょうか? 使徒ヨハネは自分が書いた手紙に数回「反キリスト」について触れています。まず、[第一ヨハネ2:22]に「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」とあります。[第一ヨハネ4:3]には「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」とあります。[第二ヨハネ7節]に「なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」とあります。
イエス・キリスト、すなわち、私たちの主を告白しないで立ち向かう者が反キリストです。イエス様は創造主の神の御子であり、神の御姿であり、まことの神であられます。おとめマリヤに聖霊によって宿って、人となってこの地上に来られました。まことの神でありながら、同時にまことの人となられたのです。
人となった神の御子イエス様は人類の罪を贖うために十字架の苦しみを受けて死なれました。しかし、何の罪もないので、死の力を打ち砕いて三日目によみがえられたでしょう。このことを信じて、イエス・キリストを救い主として受け入れる人は誰でも、罪が赦されて救われるのです。
ところが、度々、自分たちがクリスチャンであるように言いながら、イエス・キリストを否定する集団があります。[第二ペテロ2:1]に「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」とあります。自分たちを買い取ってくださった主、すなわち、イエス・キリストを否定する人々が「異端」であり、分派を起こしてキリストに立ち向かう反キリストなのです。
たとえば、イエス様は人であるだけだ、人であるイエス様が神と一つであることはありえないと、三位一体を否定する異端があります。どうして人でありながら同時に神であることがありえるのか、どうして三人でありながら一人であることがありえるのか、肉の思いでは三位一体をとうてい理解できないでしょう。それで、自分なりに思いを働かせて、もっともらしい異端思想を作り出したのです。
イエス・キリストを受け入れること以外に、ほかの救いの道があるように言う異端もあります。イエス様の復活を認めないで、イエス様は十字架で死なれたので、人類の救いに失敗したと言ったりもします。それで、別の救い主が来なければならないが、それが自分だと主張する人たちもいます。
このような異端は自分の主張を裏づけるために、聖書を歪曲して解きます。聖書66巻が神の霊感によって記された神のみことばであることを否定して、聖書に出てくるしるしと不思議は象徴的な話だと言ったりもします。「モルモン書(モルモン教)」、「原理講論 (統一教会)」など、聖書以外の経典を作り出します。
[使徒の働き4:12]に「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」とあります。[第二コリント11:4]には「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」とあります。
イエス・キリスト以外には、救い主はいません。十字架の贖い以外には、罪の赦しと救いに至れるほかのどんな道もありません。救い主イエス・キリストに立ち向かうどんなにせ福音も、受け入れてはいけません。
聖徒の皆さんは十字架のことばをはじめ多くのメッセージを聞いて、救いの道をよく理解しているので、このような惑わしに揺れ動かないでしょう。たとえば、誰かが説教をするというとき、そのメッセージが救いの道に合っているか、でなければ救いから遠ざかるように惑わすものなのか、十分わかるでしょう。
しかし、皆さんが真理をよく知っているからといって、このような人々と言い争ってはいけません。[テトス3:10]には「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。」とあります。一、二度戒めて相手が聞き入れない時は、論争し続けても役に立ちません。また、信仰の弱い人は彼らと論じ合っているうちに、かえって惑わされることもあります。
聖徒の皆さん、異端を正確に見分けて戒めることはとても大切です。しかし、異端ではない人々を異端と罪に定めることも、注意すべきことです。今日、キリスト教界では、些細な教理の違いをめぐって、互いに異端と罪に定めることが多いです。確かにイエス・キリストを否定しないで、同じ信仰告白をする教会なのに、教理が違うからといって異端だと言うのです。はなはだしくは、その罪に定める基準が聖書とは全然合わないことも多いのです。
たとえば、韓国の場合は「主の祈りに、ある単語を入れないから異端だ」、または「女性に牧師按手をするからその教会は異端だ」と言うこともあります。「異言や幻、預言などの賜物が現れるから」、あるいは「いやしのみわざやしるしが起きるから」異端だと罪に定めたりもします。「賛美するとき手をたたく」「講壇で特別賛美するとき舞踊をする」からといって異端だと言うこともあります。
もちろん、誤解されている教会の中では、実際に間違った主張をしているところもあります。たとえば、ある教会では、ほとんどの問題は悪霊のせいにします。風邪や軽い病気にだけかかっても、悪霊につかれたと教えて、互いに悪霊を追い出します。しかし、これは悪霊についてよく知らないだけで、異端ではありません。
三位一体の神を認めて、人となって来られたイエス様が十字架で死なれてよみがえられ、天に上られて、救い主となられたことを信じています。また来られる主と天国への望みもあります。このように核心的な教理を認めている教会をむやみに異端だと罪に定めてはいけません。
しかも、聖書的に間違っていることもないし、その教会に神がともにおられる証拠があるなら、決して罪に定めてはいけません。神が働かれる教会を罪に定めるなら、これは結局、神に立ち向かうことです。異端か見分ける時は、必ず正確な基準に基づかなくてはいけません。本当に救い主イエス・キリストに立ち向かっているのか、決定的に重要な教理を否定して、聖徒が救われないように惑わしているのか、このようなことを調べるべきでしょう。
初代教会以来、多くの異端が現れて、間違った思想を主張しました。「ヨハネの手紙第一講解」を始める時に説明したように、使徒ヨハネの時代に一番勢力を振るっていた異端は、霊知(グノーシス)主義という異端思想でした。彼らは三位一体を否定して、イエス様が人として来られたことも否定しました。十字架で死なれてよみがえられたことも否定しました。また、霊と肉体は別々だから、肉体で罪を犯しても霊は救われると主張しました。このように間違った主張で人々を惑わして、救いから遠ざかるようにするので、彼らも異端であり、反キリストと言えるでしょう。
ところで、参考までに、将来七年患難中に現れる反キリストはもっと具体的な存在です。ヨハネの黙示録を見ると、聖徒が天に引き上げられた後、悪い霊に操られた闇の勢力がこの地上を掌握する過程が出てきます。この時、登場するのが「獣」と惑わす「にせ預言者」です。
ここで「獣」とは、全世界の人の情報を入力して統制する高性能コンピュータを意味します。この獣を操るのが連合政府、すなわち、反キリストの勢力です。それで、「ヨハネの黙示録講解」の時、度々「獣」を「連合政府」、あるいは「連合政府のかしら」と表現したりもしました。
「にせ預言者」とは、反キリストと手を握って人々を惑わす宗教の首長です。もちろん、旧約時代から民を惑わすにせ預言者はたくさんいました。神と交われないのに交わるふりをして、神のみこころでないことを神のみこころだと言いました。
しかし、黙示録に登場する「にせ預言者」は、旧約時代からいた一般的な意味のにせ預言者とは違います。七年患難の期間中、反キリストと連合した宗教の首長で、彼らはまるで神を信じているように言いますが、実は人々が神に立ち向かうように惑わします。
結論的に、七年患難の時の反キリストは第一ヨハネで説明している反キリストより狭い意味で、限られた対象であることを覚えておけばよいでしょう。七年患難の時の反キリストの活動について詳しい内容が知りたいなら、「ヨハネの黙示録講解」を聞いて糧とされますように。
続く本文[19節]に「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」とあります。
仏教やイスラム教のような宗教については、異端とか反キリストだと言いません。これらは全然違う宗教であるだけです。異端はキリスト教と似ているように見えますが、その本質が全く違うものです。キリスト教から始まったけれど、だんだん間違った教理に陥って、結局、教会から分派を起こして出て行った場合が多いです。自分たちの教義を主張する時も、よく聖書を引用します。
霊知主義に属する「ニコライ派」も、初めは教会に属していました。ニコライは、初めは敬虔な信仰生活をしていて、初代教会の7人の執事のひとりに選ばれるまでした人です。しかし、結局、間違った思想を持つようになって、その追従者たちは教会からのけ者にされました。
それで、本文に「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。」とあるのです。私たちの中にいたが、分派して出て行ったので、私たちと全くかかわりない人たちだということです。「もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」とあります。
イエス様もこれと似たことを言われました。[マタイ12:30]に「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」とあります。また、[ヨハネ3:20-21]に「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」とあります。
異端は正統的な教会の主張に同調しないで、自分たちの主張を広げるために分派を起こし、出て行きます。ところが、出て行くのは、異端の仲間だけではありません。たとえば、教会で罪を指摘して、正しく生きなければならないと宣べ伝えるとき、人々の反応はどうでしょうか? 神を見つけて体験したい人、心が貧しくて霊的に飢え渇いている人は、そのようなメッセージを蜂蜜の巣のしたたりのように甘く聞き入れます。
一方、世を愛して罪を捨てたくない心があるなら、どうでしょうか? 罪を指摘するメッセージはとうてい聞きたくないでしょう。そうしながらも、罪を捨てるべきだということが正しいとは知っているので、良心がひどく痛みます。結局は、その教会から離れるのです。それでも教会は通わなくてはと思うから、罪を指摘しないで、適当に信仰生活をしてもいいと教える説教を探していくのです。
一方、光を慕う人々はもっと光のほうに来ます。聖霊を受けて、主を愛する人は、心に罪をそのまま持っていてはいけません。光と闇が共存できないように、光である神の子どもなら、結局は罪と悪の闇から抜け出なければならないのです。


[結論]


愛する聖徒の皆さん、[使徒の働き20:29-31]を見ると、使徒パウロがエペソを去るとき、エペソ教会の聖徒に切に頼んでいます。「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」
使徒パウロが教えたことは「イエス・キリストの十字架による贖い」と「信仰によって救われる福音」です。また、信じる者は必ず罪と悪から離れて、光の中を歩んでいなければならないという教訓でした。信仰にあって、神のみこころどおりに生きなければならないと、夜も昼も、涙とともに教えました。
今、パウロは聖霊に働きかけられて出発して、殉教しなければならないので、これ以上聖徒と一緒にいて教えられません。自分が去っていけば、真理を曲げたことばで聖徒を惑わす、狼のような者たちが現れることを知っていたのです。
イエス様の時代にも、使徒たちの時代にも、そして今日も、このような恐れはいつも存在しています。これを知っているので、パウロは自分がいない時も、それまで教えたみことばをいつも思い出すように、と聖徒に切に頼んでいるのです。
ところで、今日は教会の中でも、使徒パウロと違う教えで聖徒をつまずかせることが多いです。たとえば、一度聖霊を受けて救われた人は決して救いから落ちないと教えます。神がその人を救おうと定められたので、結局はその人は救われることになっていると言うのです。あるいは、繰り返して同じ罪を犯しても、過ちを犯したと悔い改めて祈れば、神は愛であるので、どんな罪でも赦してくださると教えます。
すると聖徒は本当だと思って、世の人と同じように生きながらも、恐ろしいとも思わないのです。情欲に従って放蕩に生きて、主日すら守っていないながら、「私は救われた」と錯覚する人々がいます。このように目の見えない者が目の見えない者を導くようになるとき、間違ったことを教えた人々が神の御前でどれほどひどく責められるでしょうか? 尊い血の恵みをさげすむことです。サタンが喜び踊ることをしているのです。「私たちは異端ではない」と言っても、結果的には、その実は使徒ヨハネが戒めた反キリストと変わりありません。聖徒を罪の中を歩むようにして、結局、死の道へ引いていくのです。
「私は主を救い主として信じて、聖霊も受けた。三位一体の神を信じて、人となって来られたことも否定しない」と言っても、これだけで「十分だ」「救われた」とは言えません。まことに自分が尊い血の力によって罪と悪を捨てているのか、まことに闇に属しないで、光とキリストに属しているのか、このようなことをよく顧みなければならないでしょう。肉の欲と目の欲と暮らし向きの自慢に従って生きるのでなく、御霊の願うことに従って生きなければなりません。
愛する聖徒の皆さんは真理を明らかに悟って、いつも光の中を歩みますように。この終わりの時に、目を覚ましていて花嫁の備えをよくして、周りの数多くの人を救いの道に導きますように、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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