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ヨハネの手紙第一講解 メッセージ > ヨハネの手紙第一講解
ヨハネの手紙第一講解
Title
   ヨハネの手紙第一講解 (9)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヨハⅠ 2:15-16
Date
   2010-08-22


[本文]

[第一ヨハネ2:15-16]
「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」


[序論]


愛する聖徒の皆さん、「第一ヨハネ講解」九回目です。
前回は、子どもの信仰から父の信仰に至るまで、人によって信仰の量りに応じて違いがあることを説明しました。罪と悪を捨てて、自分の中に真理の知識を満たして、神に似せられた分、その信仰が成長するのです。
神がアダムを造られて、今日、人の子らを耕作されている目的は、父の信仰に至った人々を得ることです。神をまことに愛して愛される、まことの子どもを得ることです。このような子どもになるためには、どうすべきでしょうか? 罪と悪を捨てて聖められればよいでしょう。肉を捨てて、御霊の歩みに入ればよいのです。
これまで聖められる方法を数多く説教しましたが、ある人々は度々、今さらのように質問します。「どうすれば御霊の歩みに入れるでしょうか? どうすれば聖められるでしょうか?」と言うのです。このような方々はきょうのメッセージをよく聞いて、心に堅く堅く留めますように。そして、みことばどおりに行ないさえすればよいでしょう。メッセージを聞いて、みなが何の益にもならない肉を捨てて、御霊に属するものを慕って、神を第一に愛する父の信仰に至るよう、お願いします。


[本論]


[本文15節]に「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」とあります。
「世」とは、敵である悪魔・サタンが支配する暗闇の世のことです。神は世を良いものに創造されました。ところが、アダムが罪を犯してからは、アダムとともに万物がのろわれました。その後から、世は敵である悪魔・サタンが支配します。
それで、[ルカ4:6]を見ると、サタンがイエス様に世界の国々を全部見せて、「それは私に任されている」と言ったのです。誰かが「私は主を信じている。神の子どもだ」と言いながらも、相変わらず世を愛して罪を犯すなら、その人は、相変わらず世に属する人です。相変わらず罪に属する罪の奴隷であり、敵である悪魔・サタンに縛られているのです。
[マタイ6:24]には「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とあります。
ひとりの主人は奴隷に「東に行け」と言って、もうひとりの主人は「西に行け」と言うなら、奴隷がどうしてふたりの主人どちらにも仕えるでしょうか。神を愛して義の奴隷になるか、世を愛して罪の奴隷になるか、二つのうち一つを選ばなければならないのです。
世を愛して、世のものを捨てていないのに、「神を愛する」と言うのは偽りです。ひとり子まで渡された神の愛を本当に心に大切にしまっておいた人なら、必ず世を愛する心を捨てます。
そうしないで世を愛し続ければ、それだけ神の愛とは遠ざかることを、経験した方々は知っているでしょう。磁石が鉄を引きつけるように、肉は肉を引きつける属性があります。世を愛して、世のものを求め始めると、手に入れれば入れるほどだんだんもっとほしくなるのです。「このくらいなら世のものは十分味わったから、これからは御霊に属するもので心を満たそう」、このようにすぐ気持ちの整理ができるのではありません。
理解しやすく、単純なたとえを一つ挙げましょう。テレビのドラマが好きな人がダニエル徹夜祈祷会の前に、ずっとドラマを見ていました。祈りに行く時間が近づいていますが、ドラマは興味津々と続いています。すると、今まで何時間か見たから、「もう十分だ」と気持ちの整理をつけて、簡単に家を出られるでしょうか?
そうでもできるなら、それでも幸いですが、そうできない場合が多いです。見ていたドラマがまだ終わっていないので、未練が残って「もうちょっと、もうちょっとだけ」、そうしていて祈祷会に遅れるのがおちです。全部終わって、遅くても祈りに来たとしても、祈っているうちにずっとドラマの内容が浮かびます。次のストーリーが知りたくなったり、さっき見た内容が連想されたりして、心を尽くして祈るのに妨げになります。
次の日も、続きを見るために、何としてでも時間に合わせてテレビの前に座ります。こうしていけば、祈祷会にしょっちゅう遅れて、祈りだけでなく、礼拝時間まで妨げられます。
このようなことが何回か繰り返されれば、だんだん聖霊に満たされなくなって、恵みが冷めていきます。祈りや礼拝を慕う心もなくなって、生ぬるい信仰になるのです。いくら神を愛したくても、世を遠ざけないで求め続けていけば、上から恵みと力が与えられません。心と思いと知性といのちを尽くして「どうすれば神様をもっと愛そうか、どうすればもっと聖められて忠実に仕えようか」、このようなことに生活の焦点を合わせなければならないのに、そうできないのです。
簡単なたとえとしてドラマを挙げて説明しましたが、結局、世に属するものは全部同じです。「世」には、異性であれ、お金であれ、名誉であれ、権勢であれ、人が神より愛するすべてのものが全部当たります。
ひょっとして、自分の心に恵みが前より少なくて、聖霊に満たされなくなってしまったという方がいるでしょうか? それなら、「私ははたしてどのくらい神様を愛することに集中しているのか」、また「罪を捨ててよりすばらしい天国を攻めていくために、毎日毎日全力を尽くしているのか」、自分自身をよく顧みますように。いつから、何が自分の生活の中に入り込んで、神を愛する心を奪っていったのか顧みなさいということです。

続く[16節]に「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とあります。ここで「世」とは、敵である悪魔・サタンが支配する暗闇の世だと言いました。このような暗闇の世で生きている肉の人々も、敵である悪魔・サタンに支配されています。
もともと神が人を造られたときは、人の中に霊の知識だけを満たしてくださいました。真実、愛、柔和、平和、仕えなど、このような真理の知識を教えてくださって、心に留めるようにされました。しかし、アダムが罪を犯して堕落した後に、敵である悪魔・サタンは人々の心の中に真理に逆らう知識を植えつけました。憎しみ、偽り、ねたみ、そねみ、憤り、欲、姦淫、このようなものを人の中に吹き込んでいきました。その分、神が初めにアダムに植えつけてくださった霊の知識は、だんだん人の心から抜けていきました。敵である悪魔・サタンが権威を持っている世の中で生きながら、歳月が経つほどだんだんもっと多くの肉の属性が人にぎっしり詰まりました。
このように世から出た肉の属性を、本文では三つに分けて説明しています。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」とあります。この三つについては、次の時間に具体的に調べていきます。

 
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