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金曜徹夜礼拝 メッセージ > 金曜徹夜礼拝
金曜徹夜礼拝
Title
   黙示録講解(44)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 7:1-10
Date
   2007-11-16


[黙示録7:1-10]
この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、
[中略]
その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

本文[1節]に「この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。」とあります。
「この後」とは、[6章]まで説明した事が起きた後のことを言っています。「四人の御使いが風を堅く押え」とは、手で風を握っているという意味ではありません。御使いたちが風をつかさどる権威を与えられて、風が吹きつけないように防いでいるという意味です。
風だけでなく、地球の気候と空の太陽、月、星が動く法則もみな、御使いが神様のみこころに従って実行していくのです。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押えたとは、地球の東西南北全域に、すなわち、全世界に風が吹きつけないようにしていたということです。
世のどこへ行っても、ほんのわずかな風もない所など、皆さんははたして想像できるでしょうか? すぐに空気が濁って息苦しいでしょう。
人の知識と思いを働かせるなら、全世界の風を吹きつけないようにすることなど、どうしてできるのかよくわからないでしょう。しかし、霊の空間を開いて調節するなら、このように風を吹きつけないようにすることも、いくらでも可能です。
聖徒の皆さんは、今まで霊の空間を利用して繰り広げられる神様のみわざを、数えきれないほど体験してきたので、これらのことについてさらに簡単に理解できるでしょう。
たとえば、厚い黒雲が空全体をおおっていても、神様が霊の空間に通じる門を開いて、その雲を霊の空間の中に吸い込ませるなら、あっという間に晴れた空が現れます。反対に、雲や雨が必要ならば、この時も霊の空間を開き、他の地域にある雲を一瞬必要な地域に移せばよいのです。
雲だけではありません。大きい台風が来るとしても、神様が働かれるなら、霊の空間を開き、その台風を吸い込ませることができます。それで、霊の空間の中で、その台風を消滅させることも、あるいは台風の勢力を弱めた後、また肉の空間に送り出すこともできます。
もちろん、そのたびに最もふさわしい公義の法則に従って、どんな方法で行なわれるのかが決められます。つまり、台風をいつも消滅させるばかりではなく、時によっては勢力を弱めたり、時にはしばらく押さえておいて、進路だけを変えたりすることもあります。
このように風も、神様が望まれるなら、いくらでも吹きつけないようにすることができます。だからといって、こういうすべての現象を神様が直接かかわって起こされるのではありません。本文のように、御使いが神様に命じられて、つかさどっていくのです。
それでは、このように風が完全に吹きつけないとき、この地上ではどんな現象が起きるでしょうか? 台風のように、あまりにも激しい風が吹いても大変ですが、反対に風が全く吹きつけないなら、これは地球全般に非常に深刻な問題を起こします。
何よりまず、地球全体に空気と海水の循環が起こらなくなります。熱帯地方で温まった空気が寒い地域に移動し、反対に寒い地域の冷たい空気が暑い地域に移動するので、地球全体の温度が調節されて、維持されます。また、海の暖流と寒流が循環し続けるのも、地球の温度を調節する役割をします。
ところが、風が吹きつけないなら、空気も海水も移動できず、そのままとどまります。結果的に暑い所はますます暑くなって、寒い所はますます寒くなります。砂漠地域はだんだん拡大していき、極地の氷もだんだん広がり、結果的には人が住める地域が減り続けるのです。
また、風が吹きつけないなら、海でできた雲が陸地に移動できないから、内陸地方には雨がほとんど降らず、海岸地方にはよく雨が降るようになります。工場地帯や排気ガスがひどい都市は、新鮮な空気が新しく供給されないから、ますます汚染はひどくなるばかりで、結局、息をすることも難しくなってしまうでしょう。このように、風が吹きつけない時のいくつかの状況だけを考えてみても、これがどれほど深刻なことなのかわかります。
[6章]までで調べたように、この時は世の中が戦争と自然災害によって、そうでなくても環境が汚染されているのです。こういう状況で風まで吹きつけないのですから、その分、環境汚染はさらに悪化して、人が住みにくい状態になってしまいます。
ところが、本文に御使いが風を吹きつけないようにしたということは、単に肉的な風だけを意味するのではありません。本文の風の二番目の意味は霊的な意味で「患難と戦争」です。つまり、風を吹きつけないようにしたとは、七年患難に入ってから地球のあちこちで起きた多くの戦争と患難が、ほんのわずかな時間ですが、しばらくは鎮まるように見えるという意味です。
続く[2節]にあるように、神のしもべたちが神の印を押されるしばらくの期間は、地球の終末を促す災いがしばらく鎮まるのです。
[2-3節]に「また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。『私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。』」とあります。
人と人との間で何かの契約をするなら、それを確証する「印」を押します。それで「印」には「約束」の意味があります。
本文に「神の印」とありますが、ヨハネはあえて「生ける神の印」と言って「生ける」という表現を入れています。これは、神様が本当に生きて働かれるので、神様が約束して印を押されたことは必ず現実として現れるということを強調しているのです。
次に、神の印を持った御使いが「日の出るほうから上って来た。」とあります。ある人々はこの「日の出るほう」を説明するとき、それは東方のある特定の国や地域を指していると言いますが、霊的にはそういう意味ではありません。「日の出るほう」とは、この地球上のある特定の地域ではなくて、まさに霊的に神様の御座がある所を意味しています。
御使いが神の印を受けるなら、神様がおられるところ、言いかえれば、神様の御座から受けて来なければなりません。それでは、なぜ本文では、神の御座から受けてきたと言えばよいのに、このように日の出るほうから受けてきたと表現したのでしょうか?
これにはひと言で説明できない、複合的な意味が含まれています。まず、霊的に「日」とは、昼間、明るさを意味し、世が回っていく基点になります。つまり、日が昇ることを基準にして、一日24時間、四季と二十四節気、年数などが決められるのです。
このように太陽が世のすべてが回っていく基点になるように、神様は世のすべての基準になられて、人類の生死禍福をつかさどる方であられます。このように神様がすべての万物の基準になられることを説明するために、神様の御座がある所を本文では「日が出るほう」と表現したのです。
次に、神様の御座を「日が出るほう」と表現したのは、神様がどこにでもおられることを意味しています。神様は霊の世界におられるけれど、この肉の世界のどこにでもおられて、天地万物をつかさどられるという意味です。
聖徒の皆さん、皆さんが世界のどこへ行っても「日が出るほう」が見られます。韓国でも、中国でも、アメリカでも、どこからでも、東方を見れば、まさにそこから日が出るのです。アフリカの奥地や南米のどんな深い山の中でも、日が出るほうが探せます。
このように、神様も世のどこにでもおられて、天下万物と人の子らをつかさどられるのです。このように「日が出るほう」という一節の中にも、いろいろな霊的な意味が含まれています。
そして、このように日が出るほうから御使いが上ってきましたが、この御使いが登場した理由は、まさに神様の救いの摂理を宣べ伝えるためです。つまり、全人類が滅びていく七年患難の中でも、最後にもう一度救いの機会を開いてくださるための神様の摂理が残っている、ということです。
この御使いが風を堅く押えている御使いたちに、大声で叫んで言ったということは、彼にそれほど大きい権威があることを表しています。数えきれない御使いたちの中でも、はっきりした序列があって、それぞれの使命によって威厳と権威が違います。ところが、神の印を直接持ってきた御使いならば、まるでこの地上では王の親書を伝える使者のような地位で、それほど大きい権威が伴います。
続く[3-5節]に「『私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。』それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人」とあり、イスラエルの十二の部族から十四万四千人もの印を押された神のしもべたちが出て来ます。
愛する聖徒の皆さん、ここに出てくる十四万四千人の神のしもべたちについては、ヨハネの黙示録の中でも本当に説明が難しい内容です。この時は、すでに救われる信仰がある聖徒たちはみな上げられて七年婚宴に入ったのに、また神のしもべたちが登場しています。しかもその数が少ないのでもなく、イスラエルの十二の部族からそれぞれ一万二千人ずつ、計十四万四千人もの、たくさんの人々が出て来るのですから、人の頭では理解できないことです。
それで、これについてのいろいろな憶測と間違った説明が出て来たりします。ある者は七年患難の時に救われるイスラエル人の数が十四万四千人だと言ったり、ある者は七年患難の時に殉教して救われる数が計十四万四千人だと言ったりします。
しかし、これは人の思いでは決してわからないし、説明することもできません。ただ御霊に感じて、聖書を記すように働かれた神様が解き明かしてくださってこそわかります。
それでは、この十四万四千とは、はたしてどんな人々でしょうか? ひと言で言えば、彼らは七年患難の間、特別な使命を受けて、神様の救いの摂理を果たすしもべたちです。救いの望みが全部絶たれたような絶望の時代に、もう一度救いのことばを宣べ伝えて、落ち穂拾いの救いの摂理を果たすことが、まさにこのしもべたちの使命です。
七年患難に落ちた人々の中には、心が頑なで主を受け入れなかったのではなく、主について全く聞いたことがなかったり、または、主について誰かがちゃんと伝えてくれなかったりしたので、主が受け入れられなかった人々がいます。
たとえば、イエス様について全然聞けない環境で生まれて育った人々もありえます。イスラム文化圏の中でも、とても孤立していて外部の環境に接することができなかった地域ならば、そこには一度も福音を聞いたことのない人々もいるでしょう。その人々の中にも、ひょっとして良心が正しくて、福音を聞きさえすれば主を受け入れそうな人がいます。
また、イエス様について聞いたことはあるけれど、なぜイエス様が救い主であるのかについて、明らかに説明してくれなかったために、主を受け入れなかった人々もありえます。
神様が定められた人間耕作の期限はすでに終わりましたが、憐れみ深い神様はこういう人々にも、もう一度救いの機会を与えようと望んでおられるので、十四万四千人の伝道者を立てられるのです。農夫が落穂1本でも最後まで大切に拾うように、神様は最後までひとりでも多くの魂を救うために、この地上を探りに探られるのです。
聖書には、このような使命を受けた伝道者たちがイスラエルの各部族から出ると記されていますが、これは必ずしも肉的にイスラエル人だけを意味しているのではありません。このイスラエルの十二部族の霊的な意味や数字の12の霊的な意味については、次の時間に説明します。
きょうの本文で言われる「イスラエルの十二の部族」とは「神様に選ばれた人」という霊的な意味を表す表現です。彼らは全世界の各民族の中で以前は神様を知らなかった人々であり、もちろんその中にはイスラエル民族も含まれています。
彼らは以前はイエス様についてよく知らなくて、信じる機会がなかったので、七年患難に落ちた人々です。あるいは、イエス様について聞く機会があったとき、正しい良心で漠然として信じられたけれど、心が弱いのでその瞬間に決断して主を選べなかった場合もあります。
しかし、目の前で携挙を見て、七年患難を迎えると、この人たちは正しい良心によって神様のみことばがまことであることを悟ります。知識としてもキリスト教について知っていて、現実に目の前に繰り広げられることがみことばと正確に合うの見ると、神様を信じて主を受け入れるようになります。
このように十四万四千人の印を押された人々が主と福音について悟ると、それから彼らは命をかけて人々に福音を伝えます。自分が救われるだけでなく、何としてでもひとりでも多くの魂を救おうと、自分が悟った神様のみことばを証しして、福音を宣べ伝え、結局、死を迎えるようになります。
ところで、彼らは福音宣教を嫌う者たちによって殉教する場合もありますが、ひどい自然災害と戦争の中で死を迎える場合のほうが多いのです。ところが、これも神様の恵みです。七年患難の時はあまりにも苦しいので、その中から救われるなら、実際、なるべく早く肉のからだを脱ぐほうがむしろ祝福だと言えるのです。
そして、彼らに印を押すというみことばには、神様が彼らに特別な恵みと力を与えられるという意味も含まれています。今日、聖霊の時代には、神の子どもたちが救われたしるしとして、心に聖霊によって印を押してくださいます。しかし、七年患難の時はすでに聖霊が呼び戻された時代なので、心に印を押すのではありません。それ以上聖霊様が助けてくださることもなく、ただ自分の意志で殉教しなければならないのです。
ところが、本文の十四万四千人は神様の摂理の中で立てられたので、たとえ聖霊が呼び戻されたとしても、神様が彼らに特別な助けを下さるのです。七年患難の深刻な災いの中でも、彼らが神様のみこころを成し遂げる時まで、すべての環境と条件で勝利が得られるように、神様が守るという約束として印を押してくださるのです。
このように神の印を押された人々があちこちに行って福音を伝えるとき、遅まきながらこれを聞いて主を受け入れる人々も多いのです。
本文[9節]に「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」とあります。
「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が」と表現するほど数多くの人々が十四万四千人の伝道者に伝道されて、救いの道に入るのです。まだ心にわずかな正しい良心があって、その時でも福音を聞いてイエス様を受け入れる人々がこの地上に残っているのです。
このように遅まきながら福音を聞いて受け入れた場合も、ある人々は殉教の過程を経なければならないのですが、彼らのうち多くの人々はほとんど自然災害と戦争によって死ぬようになります。そして、いっそこのように死ぬことが七年患難の中ではむしろ祝福だと言えるのです。遅まきながら福音を聞いて信じるようになったのに、苦しみに打ち勝たなければならない殉教を通してではなく、幸いにも七年患難の災いによって死ぬので、相対的に平安に救いの恵みを受けるのです。
だからといって、皆さんが万が一にもこのメッセージを聞いて「たとえ七年患難に落ちても、必ず殉教してやっと救われるのではなく、こんな方法もあるんだな」と安易に思っては絶対にいけません。
今、このように七年患難の間に主を信じて、その災いの中で自然災害や戦争などによって死んで、それでも救いに至る人々は、以前に主を信じると言いながら殻のような信仰生活をして、この地上に落ちた人々とは違います。ほとんどが以前はイエス様について聞いたことがなかったり、福音について正しく知らなかったりしたので、または信じられる証拠がなくて、心から信じられなかった人々です。
一方、主を信じると言って、明らかな信仰の証拠を見ながら信仰生活をしたのに、相変わらず殻のような信仰生活をしたので、結局この地上に落ちた人々は、そのように簡単に救いに至ることはありません。こういう人々はほとんど「殉教」という過程を通して、以前の自分の罪の代価を徹底的に払ってやっと救われるのです。
聖徒の皆さん、それではこのように七年患難の中で救われた人々が将来天国でとどまる場所はどこでしょうか? まず覚えるべきことは、十四万四千人の伝道者たちと彼らから福音を聞いて主を受け入れた人々とでは、その場所が違うということです。
十四万四千人の場合は、彼らが拷問や迫害で死のうが、福音を伝えていろいろな災いで死のうが、神様はその死を殉教と認められます。神様をとても愛して、命までささげた信仰の四段階として認めてくださるのです。ですから、将来彼らが入る場所は三天層です。
しかし、十四万四千人の伝道者の言葉を聞いて救われた数えきれない人々は、ただ救われた次元です。それで、信仰の一段階の天国の場所、パラダイスに入るようになります。
このメッセージを聞いている皆さんの中に、ひょっとしてまぎらわしいと言う方もありえるでしょう。「以前に説明された時は、七年患難に落ちた人々はいくら苦しんで殉教をしても恥ずかしい救いで、パラダイスでも区別された端に入ると言われたのに、なぜ今回は殉教したので三天層に入れると言われるのだろう」と思うこともありえるでしょう。また、「七年患難の時は拷問があまりにも残酷なので、殉教して救われる数が極めて少ないと言われたのに、きょうはなぜその数が極めて多いと言われるのだろうか」とも思うかもしれません。
しかし、まぎらわしいことはありません。前にも少し説明をしましたが、七年患難の中で残酷な殉教を遂げてやっと救われてパラダイスに入る人々は、殻の信者のことを言います。七年患難の前にすでに福音を聞いて、自分なりには信じているつもりで教会に通ったけれど、まことの信仰がなくて、世と妥協して生きて、この地上に落ちた人々です。
しかし、この十四万四千人の印を押された人々は、その心と状況が全然違います。以前は神様を知らなかったけれど、正しく生きていて、神様がまことの神であることを知ってからは命をささげられる心を持っている人々です。すべてをご存じである神様が、ふたりの証人とともに、終わりの時に用いられるために備えられた神様の使者です。ですから、彼らが命を尽くして福音を伝える使命を終えるとき、神様は聖霊時代に殉教した人々と同じように、三天層に入る資格を与えてくださるのです。
彼らが三天層に入れるもう一つの根拠が[黙示録14章]にあります。これについては次の時間に続いて調べましょう。

愛する聖徒の皆さん、きょうは「十四万四千人」の神のしもべたちについて語りました。七年患難の中でも、最後までひとりでも多くの魂までも救おうとされる父なる神様の、この上ない愛の摂理を説明しました。
まして、このように愛の豊かな神様が、七年患難が来る前には、どれほど多くの救いの機会を与えようとされているでしょうか。また、よりすばらしい天国を激しく攻めて行けるように、いつも真理の中に導いて行かれるのです。
したがって、皆さんは[第二コリント6:2]に「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」というみことばを必ず心に留めますように。そして、大いなる神様の愛と憐れみをいつも覚えて、神様をもっと愛して愛される皆さんになりますように。それで、きょうもまめに花嫁の備えをして、花婿なる主が私たちを連れに空中に来られるとき、必ず喜びをもってともに携挙にあずかる皆さんになりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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