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金曜徹夜礼拝 メッセージ > 金曜徹夜礼拝
金曜徹夜礼拝
Title
   黙示録講解(33)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙4:4
Date
   2007-08-03


黙示録4:4

また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。

私と宣教チームは父なる神様の細やかな導きのうち、宣教日程を終えて帰ってきました。父なる神様の計画された摂理に従って、正確に導かれた時間でした。宣教について具体的な内容は、主日大礼拝と夕方礼拝の時、説明したいと思います。イスラエルに向けられた父なる神様の御心と摂理が完全に成し遂げられるように、私と宣教チームのために断食と祈りで力になってくださり、いろいろと後援してくださった聖徒の皆さんに感謝申し上げます。
聖徒の皆さん、この間は、まず将来二十四人の長老に入る人物、五人を語り、そのうち使徒パウロの信仰について簡略に説明しました。二十四人の長老に入るためには、信仰の全般的な面で当然最高の最高にならなければならないのですが、それとともに、特別に信仰、愛、忠実、善、真っ直ぐな心など、信仰の各部分を代表するほど優れていなければならないと言いました。
きょうは、この間に続き、二十四人の長老に入る人物の信仰について調べていきましょう。

まずペテロは、イエス様の一番弟子でしたが、聖霊を受ける前に、主を否定するという大きい汚点を残してしまいました。それで、一生申し訳なく、心苦しく生きなければなりませんでした。復活された主に会った後、聖霊を受けてからは、いのちを尽くして忠実になり、神様の働きを果たしたにもかかわらず、その申し訳なさは心の片隅にいつも残っていました。
それで、十字架を負って死ぬ時でさえ、あえて主のように真っすぐでなく、逆さまにつけられて死ぬよう、自ら願ったのです。最後の死ぬ瞬間にこうしてでも、何とか心の片隅に残っていた主への申し訳なさを償おうとしたのです。
それなら、はたして今日、誰がこのようなペテロの心を持っているでしょうか? 自分の罪と咎を赦してくださり、代わりに十字架につけられて亡くなられた主の恵みを一生心に刻んで、いのちを尽くすまで返そうとする人がどれほどいるでしょうか?
地獄に行くべき魂を救ってくださり、何の希望もなかったとき、まことの希望を下さった主のその大きい恵みと愛を忘れたまま、何か苦しみがあれば気を落としてしまい、はなはだしきは恨んで嘆く人々も多いのです。初めて主に出会ったとき、いのちを尽くして献身すると燃え上がった心が、時間が経つといつの間にか安易な信仰になり、楽な暮らしに安住してしまう場合も多いです。「どうすればもっと多くをささげようか」「 どうすればもっと完全にささげるようか」と考えるのではなく、「私は 一生懸命している」と満足するのです。
しかし、新しいエルサレムを慕い求める皆さんならば、「私は主をとても愛して、ペテロのように十字架を逆さまにでも負える熱さがいつも変わらないのです。毎日毎日、もっと熱くなります」と告白できますように。本当に主にあまりにも大きい恵みを受けた者として、また、赦されない罪が赦されて、主のために働ける恵みを受けた者として、主が来られるその日までいのちを尽くしてその恵みを返そうとする心が、決して変わってはならないのです。
それで将来、二十四人の長老の前に立って、その方々の信仰と比べるとき、相変わらず申し訳なくて恥ずかしいのではなく、堂々と大きい栄光と報いが受けられる皆さんになるべきではないでしょうか?
使徒ペテロは「必ず二十四人の長老に入ろう」と思ったのではなく、ただ主の恵みを返そうとする心から、最後の瞬間までいのちを尽くして主の働きをしたら、このように二十四人の長老という、光栄ある座が備えられたのです。

聖徒の皆さん、次に使徒ヨハネは、聖書に彼に関する詳しい記録があるのではないですが、 まず、彼がヨハネの黙示録を記したということだけでも、彼の信仰が十分に見分けられます。今まで何度も申し上げましたが、啓示は誰でも受けられるのではありません。それほど神様の前にふさわしい資格を備えるべきですが、その資格とは、何よりまず聖潔なのです。聖められて、きよい器になったとき、神様がその上に、御霊に感じて、また、幻と御声など多様な方法を通して、父なる神様の御心を明らかに啓示することがおできになるのです。
ところで、伝えられるところによると、使徒ヨハネは沸いている油の窯に投げ込まれても、全然害を受けずに守られたそうです。<第一ヨハネ5:18>に「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とあるように、使徒ヨハネは、神様から守られる完全な資格を備えた人でした。
その上、使徒ヨハネが書いたヨハネの手紙第一を見れば、彼が神様の愛をどれほど深い次元で悟っていたかよくわかります。彼が悟って心に実現した深い愛の次元が、御霊に感じながら一節一節に含まれています。このように聖潔の器を準備して、深い霊の次元に入った使徒ヨハネは、啓示を受けるまで、神様の前に数え切れない祈りを積みあげました。
これをよく証ししてくれるのが、まさに使徒ヨハネの「額」です。霊の目が開かれ、使徒ヨハネの姿を見た方々は、彼の額がどんな形になっているのかがわかります。ちょうど額にこぶがついているように、ぶ厚く突き出ているのが見られます。これはまさに、彼が祈っているうちにできた一種のたこのためです。
使徒ヨハネが啓示を受けるために祈ったと言われているパトモス島の洞窟に行くと、いつも同じ姿勢で祈ったので、手をついたところに跡があります。また、長い間そのように祈りながら、額が壁に当たり、額には徐々にたこができて、結局、ぶ厚くなったのです。これはまさに、使徒ヨハネが啓示を受けるために、どれほど長い歳月を耐え忍びながら、神様の前に自分を従わせていったのかをよく物語る証しなのです。
それで、終わりの時について明らかに啓示したヨハネの黙示録、この尊いみことばを引き下ろせたのです。これを通じて、数多くの人々が終わりの時に目を覚まして信仰生活ができるようにしたのですから、使徒ヨハネの報いがどれほど大きいでしょうか。

次に、ダビデの信仰はどうでしたか?
<使徒の働き13:22>を見ると、神様がサウル王を退けて、ダビデを立てて王とされるとき、こう言われました。「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。」
ダビデは幼い頃から神様をとても愛しました。幼い年にもかかわらず、主なる神様の名をみだりに唱える敵の戦士ゴリヤテに向かって単身で進み、彼を殺してイスラエルに勝利をもたらします。神様を愛するので、自分の命を少しも惜しまず、このように堂々と進んで戦ったのです。
ところで、今日、神様を信じていると言いながら、自分にひょっとしてでも不利益が来るのではと、信仰を隠したり、堂々と出られなかったりする場合があります。神様の御名が汚される時も、知らないふりをします。神様のみことばに逆らうことについても、適当に妥協して、ついて行ったりします。
しかし、ダビデは、神様の御名をなぶるゴリヤテを黙って見ていたのではありませんでした。ゴリヤテがいくら体の大きな勇士で、ダビデ自身はまだ幼い少年であっても、神様の御名に頼って、大胆に出て行って戦いました。神様はまさにこのようなダビデを通して、みこころと摂理を成し遂げて行かれたのです。
その上、ダビデはすべてのことを神様だけに頼りました。自分の思いや人の方法を働かすよりは、すべてを神様にお聞きして、神様のみこころと命令に従ったのです。幼い頃から戦場で成長してきたダビデでしたが、戦争をする時も、自分の経験と知識に頼るよりは、全面的に神様にだけ頼りました。他のこともいちいち神様に聞き、方法を求めたのです。
もちろんこのようなダビデも、神様の前に罪を犯して、大変神様の怒りを買ったことがあります。ですが、ダビデは直ちに悔い改めて立ち返り、しかも神様の前に、確実にそうしたのです。自分の罪をすぐ認めて悔い改めたし、そのために払わなければならない代価も、へりくだった心でよく受けていったのです。
この他にも、ダビデは王の身分にもかかわらず、神の箱を運び上ったことを喜んで、民の前で踊りました。人を見るのではなく、主なる神様の前に喜ばれるなら、自分の地位や体面などは何の問題にもならなかったのです。
はたして今日、国の指導者になった人が、人々の目や自分の体面などを考えずに、このように神様の前に栄光を返して喜びになれる人がどれほどいるでしょうか?
<ガラテヤ1:10>に、「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」とあるように、私たちはただ神様に喜ばれなければなりません。
そのためには、どんな状況、どんな環境でも、神様のみこころを追い求めなければならないのです。まさに、ダビデはこのようにすべてに、神様に喜ばれる道を選んだのです。
また、ダビデは「善」の分野でも、本当に優れていたことがわかります。ダビデはただ善と恵みだけを施したのに、自分をそねんだサウル王がしつこく自分を殺そうとしたとき、サウル王が殺せる機会が二回もあったにもかかわらず、むしろ相手を感動させる善の行ないを見せます。これにサウル王も感動を受けます。
皆さんもこのような心になりさえすれば、父なる神様は当然練られて整えられて、新しいエルサレムの尊い座に導かれるのではありませんか?

聖徒の皆さん、次に、預言者サムエルは、生まれて乳離れしたら、直ちに祭司長の手に預けられて、聖殿で育ちました。幼い頃から世と区別されて、ただ神様の前にささげられた人生を送りました。
神様はすでに幼いサムエルについて、<第一サムエル2:35>に、「わたしは、わたしの心と思いの中で事を行なう忠実な祭司を、わたしのために起こそう。わたしは彼のために長く続く家を建てよう。彼は、いつまでもわたしに油そそがれた者の前を歩むであろう。」と言われました。
そして、<第一サムエル3:19>では「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。」と言われるほど、サムエルは神様から完全に認められました。また、神様は民がサムエルにすることが、すなわち主なる神様にすることだと言われるほど、サムエルは神様の代わりに立てられた神の人であり、預言者でした。
そして、サムエルは一生を神様のみこころに従って、自分に与えられた使命を忠実に果たしました。このように一生を神様の前に忠実と献身と従順をもって生きたサムエルを、神様は二十四人の長老に入れて、耕作を受けた人々の手本になるようにされたのです。

愛する聖徒の皆さん、こうして二十四人の長老に入る使徒パウロ、ペテロ、使徒ヨハネ、ダビデ、サムエルに関して、彼らの信仰がどうだったのかを簡略に説明しました。これからは二十四人の長老に入る七人をさらに説明していきましょう。
その方々は、エジプトの統治者になったヨセフ、ダニエル、そしてダニエルの三人の友だち、シャデラクとメシャクとアベデ・ネゴ、また、新約のピリポ執事とステパノ執事です。この方々は、はたしてどんなところを認められて、二十四人の長老に入ったのでしょうか?

まずヨセフは、十七の幼い年に、彼をねたんでそねんだ兄たちによって、遠い異国に奴隷として売られて行きます。それも初めは、兄たちに殺されるところだったのに、ヨセフはやっと死だけは免れて、代わりに商人に奴隷として売られたのです。
だがヨセフは、こういう状況でも絶望せずに、自分の居場所で誠実と正直を見せて、周りから認められる地位にまで上がりました。
ところが、思いがけず再び濡れ着を着せられて、今度は深い監獄に入れられてしまいました。肉で見ると、もうその人生が終わったようでした。深いどん底に落ちたように、もうより良い人生への可能性が見つけられない、絶望的な状況に置かれてしまいました。
しかし、そのような状況でも、神様に対するヨセフの信仰はさらに固くなりました。神様が自分の人生を導かれる、という確固たる信仰で、ただ善と真実をもって、自分の人生に最善を尽くしました。そして結局は、神様の摂理によって当時、最強の大国と言えるエジプトの統治者になる栄誉を受けるようになります。
ところで、ヨセフの信仰がさらに輝いたのは、このような状況で、以前、自分を他国に奴隷に売ってしまった兄たちに再び会った時からです。肉的に思うなら、兄たちのそねみ、ねたみによって、ヨセフは死の谷を越えながら、13年という長い歳月を送らなければならなかったのです。ところが今は、兄たちを殺して生かせる権勢がヨセフの手にあるのです。
しかし、ヨセフは怨みを晴らそうとしませんでした。自分たちが過去に行なった悪い行ないのため、罰を受けるのではないかと恐れる兄たちを、むしろ善良な言葉で慰めて、最後まで兄たちとその子どもたちまで守ってあげて、善をもって対したのです。
今日、はたしてこのヨセフのように、練られる時も信仰を信実に守って、善良な心で行なっていく人がどれほどいるでしょうか? 自分に少しだけの苦しみが来ても、「神様はなぜ私にこういう試練をくださるのだろうか」とつぶやきを吐き出す人々がどんなに多いでしょうか? また、自分にほんの小さい不利益や悔しいことが生じても、それが我慢できず、仕返ししようとするこの頃の時勢で、自分を殺そうとして、結局は異国に奴隷に売って、あれほど長い年月、苦しみを与えた人々を、ヨセフのように心から完全に赦して、この上ない善で対してあげる人がどれほどいるでしょうか? もちろん、彼らはヨセフの兄ではありますが、厳密に言うと、自分とは母も違う、腹違いの兄だったのに・・・。
聖徒の皆さん、今日は、多くの人々が善良に生きるならむしろ損をすると思っています。しかし、本当にヨセフのように心の全き善を実現して、ただ善だけを行なっていくなら、公義によって働かれる神様は決して損するようにされず、むしろ必ず祝福として返してくださるのです。

次は、ダニエルと三人の友だちの信仰について調べてみましょう。
彼らはどんな状況でも、すなわち、死の脅威の前でも決して妥協しない、信仰の真っ直ぐな心を見せてくれました。これは必ずしも、大きい試練の前だけで妥協しない信仰を見せるという意味ではありません。彼らの信仰ならば、いくら小さくてささいなことでも、神様のみこころから外れることならば、少しの未練もなく果敢に断ち切れるのです。
したがって、彼らの信仰と比べて、皆さん自身ははたしてどれほど妥協せずに、真理にあって守り行なったかを顧みなければなりません。今まで皆さんは「しなさい、してはならない、守りなさい、捨てなさい」というみことばを無数に聞いて、そのとおりに生きようと決断も何回もしたでしょう。それなら、その決心をどれほど守ったでしょうか? 「私はみことばに従って生きたくても、状況が良くないから、とうてい私の願うままにはできない」と、妥協してしまったのではないでしょうか? 「私がこのようにつらい状況だから、神様もこのくらいは理解してくださるだろう」と、適当に妥協する道を選んだのではないでしょうか?
今すぐ、火の中、あるいは獅子の穴に投げ込まれるような火急の状況でも、信仰を捨てずに、ただ真理のみことばを守り行なう人でこそ、まことに天国でもそれくらいの栄光の座に入れるのです。

次に、ピリポ執事は、信仰と聖霊とに満ちて、初代教会の七人の執事のひとりに選ばれた人です。彼は主のしもべでもなく、長老でもなかったのですが、使徒に劣らない大きい御力を行なった記録が聖書のあちこちに出てきます。
サマリヤの町で汚れた霊につかれた人、大ぜいの中風の者や足のきかない者をいやしながら、福音を宣べ伝えるとき、群衆はしるしを見て、主を信じたとあります。また、聖霊に働きかけられて荒野に行き、そこを通っていたエチオピヤ人の女王の高官に福音を伝えたことも見られます。神様の働きをすることにおいて、自分の思いの中でしたのではなく、ただ聖霊の御声とつかさどり、導きを明らかに受けていったことがわかります。
そして、<使徒の働き21:9>を見ると、ピリポ執事は自分だけが信仰が良かったのではなく、「この人には、預言する四人の未婚の娘がいた。」と書かれています。子どもたちまでも真理の中でどのように育てたのか、よく物語っています。
このように、ピリポ執事については、聖書のあちこちに断片的な記録だけが残っていますが、その短い記録だけを見ても、彼がどれほど信実な神の人だったのか悟れます。何よりも彼を通して神様の御力が現れて、それで新約時代に御力を行なった、幾人しかいない人に入ったとは、彼が神様の前に認められるふさわしい人だったことがわかります。
このように、この地上で執事であっても、その霊と魂が神様の前にふさわしかった時は、天では長老の列に入り、二十四人の長老の栄誉までも得られるのです。

次は、ステパノ執事もやはり、たとえ執事ではありましたが、彼を通して神様の御力が大きく現れました。
<使徒の働き6:8>に、「さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」とあるように、ステパノ執事を通して大きい不思議なわざとしるしが現れました。また、続く<10節>に、「しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。」とあるように、ステパノは御霊に感じて動かされ、満たされて、みことばの権威が伴いました。
ところで、皆さんがステパノ執事を通して、自分の信仰を顧みる分野は、彼の優れた「善の心」です。彼は自分に石を投げつけて殺そうとする人のために、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りながら、息を引き取ったのです。死の前までも自分よりは、悪を行なう人々に向けられたもどかしい心を表しているのです。
しかし、ステパノ執事がこのように善良だからといって、決して大胆でなかったりおとなしくて弱かったりしたのではありませんでした。自分を殺そうとして囲んで、気勢をあげて威嚇してくるユダヤ人の前でも、少しも屈したり恐れたりせずに福音を宣べ伝えて、ついに殉教する大胆さを持っていました。今死んでも、充分に主のふところに堂々といだかれる霊的な大胆さがあったからです。
皆さんもこういう大胆さを持つなら、皆さんの前に妨げられることもなく、そのような皆さんを通して神の国がどれほど大きく拡張されていくでしょうか?
次の時間には、私たちのように、今の時代を生きている人々のうち、二十四人の長老に入る人物について調べていきましょう。

愛する聖徒の皆さん、聖書には、どんな人々が新しいエルサレムに入り、そのうちどんな人々が二十四人の長老にまで入るのか、彼らの信仰について詳しく記しておきました。したがって聖書は、天国へ行く道を明らかに提示してくれる教科書であると同時に、新しいエルサレムにも、二十四人の長老にも、どうすれば入れるかを教えてくれる道案内の役割をしています。皆さんがこのような事実を信じるなら、神様のみことばであるこの聖書をどれほど愛するでしょうか?
たとえば、皆さんがしばらくしたら大変重要な試験を受けることになり、その試験のすべて問題が、ある本一冊から出るとしましょう。それなら、皆さんはその本をどれほど大事にして尊く思うでしょうか? たぶん寝る時も、万が一にも誰かがその本を持っていかないように、ふところに必ず抱いて寝ようとするでしょう。しばらく席を離れる時でも、必ずそばに持っていて、時間さえあれば見ようとするでしょう。
このように、皆さんも神様のみことばを愛して、このみことばをいつも聞いて、それに思いを潜め、心に霊の糧としなければなりません。本当に新しいエルサレムを慕い求めて、それに二十四人の長老を慕い求める方ならば、きょうのようなみことばを聞くとき、ただ一度聞いて流してしまってはいけません。「彼らの信仰はみな知っている」というのではなく、みことばを聞きに聞いて、皆さんの信仰と比べて、今は本当に変えられた行ないを通して、彼らの信仰に似せられていかなければならないでしょう。
そういう時、新しいエルサレムが遠いところではなく、まさに皆さんの心に実現されるようになります。そのような人が結局は、将来、新しいエルサレムに入れるのです。きょうのみことばを心に刻み、皆さんの信仰が必ず変えられた姿になり、新しいエルサレムを、また天国の高い序列までも激しく攻めて行かれますように、主の御名で祝福して祈ります。

 
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