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黙示録講解 メッセージ > 黙示録講解
黙示録講解
Title
   黙示録講解(18)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 2:18-29
Date
   2007-03-16


<黙示録2:18-29>

また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』


きょうは七つの教会のうち、四番目のテアテラ教会について語ります。
テアテラ教会は、主にあっての行いと愛、信仰と仕えと忍耐などについて、近ごろの行いが初めの行いにまさっているから称賛されましたが、同時に恐ろしい非難のみことばも聞きます。
教会の中に預言者だと自称している女イゼベルをなすがままにさせていたので、教会が罪で染まったからです。イゼベルはひどく偶像を拝む異邦の女性として、イスラエルのアハブ王と民を惑わして偶像を拝むようにして、いろいろな悪い行いで神様に立ち向かいました。
それでは、テアテラ教会が非難された内容は具体的に何だったのでしょうか?
<20節後半節>に、「わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」とあります。ここで「偶像の神にささげた物を食べさせている」という文字の意味は、偶像の前に供え物としてささげた物を食べるという意味です。
ところが、事実このみことばは、偶像の祭壇にささげた物を食べること自体より、それを食べる時に伴ういろいろな罪を戒めるみことばです。つまり、聖徒たちが異邦人の宗教儀式に参加して、彼らの偶像礼拝を認めたり同調したりして、さらに進んで偶像崇拝者の淫らな行いにまで参加することが、もっと大きい問題だったのです。
<使徒の働き15章>を見ると、使徒会議で、異邦人のうち福音を受け入れた人々に、偶像に供えて汚れた物と血と絞め殺した物と不品行とを避けるように勧めたことがわかります。この時も、偶像に供えて汚れた物を避けるように言ったのは、偶像の供え物を近づけると、結局、偶像礼拝やそれにつながる罪に陥ることもあるからです。
事実、<第一テモテ4:4>に「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」とあるように、偶像を拝む祭事に参加したのでなければ、偶像の前に置いた物を食べたからといって、それ自体を必ずしも罪に定めることはできません。たとえ偶像の前に置いた物でも、すべての食物は神様が下さったものですから、聖徒が信仰で食べれば大丈夫です。
ところが、<第一コリント8:7>に「ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。」とあります。つまり、信仰の中で大胆ではない人が「偶像にささげた物を食べると罪」だと思っていながらそれを食べると、これは自ら罪だと思っていることをわざと行うので、自分の良心を汚すようになるという意味です。
さらに<第一コリント8:10>に、「知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。」とあるように、もし、信仰のある人が偶像の宮で一緒に食べるのを信仰の弱い人が見ると、「信仰のあるあの人も偶像にささげた物を食べるから、私も大丈夫だろう」と、自分も気楽に食べる場合があるかもしれません。
しかし、真理がよく見分けられない信仰の弱い人の場合には、信仰をもって食べるのではないので、良心が汚されることもあり、まかり間違えば一歩進んで偶像に仕えることに参加さえするという、より大きい罪を犯すこともありうるのです。したがって、本人は偶像にささげた物を食べるほどの信仰があっても、もしそれによって信仰が弱い兄弟につまずきをもたらせるなら、自分も食べないことが正しいのです。
ところで、本文にある不品行や偶像にささげた物を食べる行いは、実際に肉的な行いだけを意味するのではありません。霊的な意味の不品行と偶像にささげた物を表しているのです。神様の子どもたちが神様より他のものをもっと愛したり、神様が最も忌み嫌われる偶像に仕えたりすることが、まさに霊的な意味の不品行なのです。また、聖徒たちを誘い、世の快楽に陥るように真理に逆らうものを追う人々と一緒に飲み食いして、彼らの行いに参加することが、まさに偶像にささげた物を食べることになります。
テアテラ教会は、イゼベルをなすがままにさせることで、このような霊的な不品行と偶像礼拝を教会の中に受け入れたので、主から非難されているのです。特にテアテラでは、前にも説明したように、職業ごとに労働組合が発達していて、その労働組合によっていつも偶像礼拝の誘惑がありました。
同業者たちみなが、事業の繁栄と発展のために偶像を拝むのに、そこに参加しないと彼らから嫌われたり、迫害されたりすることもあります。ひどい場合は、組合から追い出されて、生計がおびやかされることもあるでしょう。
ところで、ある人がこういう状況で悩んでいるのを見て、信仰の兄弟だという人が来て、このように惑わすとしましょう。「偶像を心で信じるのでもないし、ただ頭だけ一度下げれば、みんな楽になるのに、あえてそんなにひとりだけ目立つことはね・・・神様は愛だから、生計が立たなくなるのに一度お辞儀をすることくらいは理解してくださるだろう?」と言ったり、「そんなに我を張って、平和を破るなら、周りの人々に変に見えるし、むしろ神様の栄光をさえぎって、福音を伝える道もふさがれるよ。伝道のためにも、今度一回ぐらいは頭を下げる知恵もなけりゃ?」と近づいて来たりするのです。
このように神様の御名をみだりに唱えて、神様の御心に逆らうように惑わすとき、真理が見分けられない人は、まかり間違えば惑わされることもあります。
今日もこのようなことがたびたび起きます。たとえば、職場や家庭で偶像に仕えるところに参加すると、「私は神様を信じている人なので、お辞儀をすることはできません」と言うとします。すると、ある人々は迫害する場合もあり、ある人々は甘い話で惑わす場合もあります。「これは偶像を拝むのではなく、互いに和合と親睦をはかる方法だけだ」と言ったり、「先祖に祭事をすることは、偶像礼拝でなく、わが民族の良い伝統だ」と言ったりするのです。今日は、はなはだしきは主のしもべが羊の群れにこのように誤りを教える所もあります。
しかし、神様は何と言われているでしょうか? 最も代表的な戒めである十戒でも「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。どんな形をも造ってはならない。 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」と言われ、<第一コリント10:20-21>に「いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。」とはっきり言われました。
このような御心がわかったので、ダニエルの三人の友だちは、火の燃える炉に投げ込まれるかもしれないのに、決して妥協しなかったのです。「私は神様だけが唯一の神だと堅く信じるけれど、今回は命がかかった問題だから、たった一度だけ偶像の前に頭を下げても、神様が理解してくださるだろう」と言ったのではありませんでした。
まして、火の燃える炉に投げ込まれることでもないのに、一瞬の利益のために神様のみことばを破って、霊的な不品行と偶像にささげた物を食べる行いに陥るなら、これは決して受け入れてはいけないことです。
また今日では、教会がもっともらしい名分を立てて、偶像に仕える異教の宗教団体と交わり、互いに祝福を祈りあう場合もあります。そうすることが、偏狭でない寛容な心で、人類全体の利益、あるいは国家の利益を求める善良な心のように言うのです。
しかし神様は、神様の教会が偶像を崇める宗教団体と手をつなぐことを決して喜ばれません。異教の神の記念日に祝賀メッセージを送ったり、聖殿の中に偶像礼拝者たちを引き込んだりすることは、聖なる神様を冒とくすることです。
ところが今日、神様を信じてイエス様を救い主として仕えているという人々が、このようなことに先立つ、残念なことがあります。まさに主がテアテラ教会に下さったみことばの中には、このような人々へのメッセージが含まれています。これは、次に時間にもう少し詳しく説明しようと思います。

聖徒の皆さん、ところでこのように聖徒たちを惑わしたイゼベルは、「預言者だと自称している」とあります。仮に誰かが聖徒たちに、「私と一緒に神様を立ち向かおう、罪を犯そう」と直接言うなら、信仰が少しでもある人は当然その人を警戒して遠ざけるでしょう。
ところが、表面では神様のみことばをもって正しい振る舞いをしながら、「私も神様と交わる預言者だ、神のしもべだ」と言って近づく時は、正確に真理で見分けられなくて、たびたび惑わされる人々がいます。
しかし、本当に神様の預言者ならば、その人には必ず神様がともにおられる証拠が伴わなければなりません。善と愛、犠牲と仕えと柔和などの御霊の実、光の実が結ばれているはずであり、何よりも神様が保証される権威と能力と御力までも現れるはずでしょう。ですから、まことの預言者は、自ら「私は預言者だ」と言わなくても、聖霊に働きかけられる人々は、その実を通してその人が神の人だということがすぐわかるのです。
一方、イゼベルのように、預言者だと自称しているけれど実はそうでない人は、真理で見分けるなら、その正体が明らかにされます。
<申命記18:22>に、「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」とあります。
それだけでなく、預言者だと自称するにせ預言者は、悪い話で人を非難してさばき、罪に定めたり、嘘を作り出して自分の益を求めて聖徒たちの仲に争いを起こしたりするなど、いろいろな策略と企みで、教会が乱れるようにして、聖徒たちを苦しめるのです。聖徒たちを教える時も、神様を愛するように導くのではなく、世のもの、肉的なことを植え付けて、自分に肉的に従うようにしていきます。
ですから、このような人と一緒にいるなら、自分も知らないうちに真理に逆らうようになります。したがって、教会の中には、イゼベルのような人は決して受け入れてはならないし、にせ預言者に惑わされて一緒に罪を犯すこともあってはなりません。
もちろん、主のしもべの立場では、従わない羊の群れ、牧者を試みる羊の群れでも、愛でいだいて忍耐して導かなければなりません。しかし、教会の中にサタンの会衆を受け入れたり、聖徒たちを惑わして死に導くイゼベルのような人々が教会の中で勝手に活動するように放っておいたりすることは、愛ではないことをよく悟らなければなりません。
イゼベルのように、教会が乱れるようにする人がいるならば、どうすべきなのかは、すでに何回も説明をしました。
<マタイ18:15-17>に、「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」とあります。
このように決められた順番によって行うべきです。そうして相手が悔い改める時は赦して、過去の過ちをおおってあげなければならないのですが、最後まで立ち返らない時は、そのような人が教会を妨げて神様の栄光を遮るように放置してはいけません。しかし、この時も必ず「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなかった」主の心で行わなければなりません。
続く本文<21節>に、「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。」とあります。
人が神様の前に罪を犯して過ちをしたとき、直ちに懲らしめられるのではありません。神様は明らかに悔い改める機会を下さいます。講壇から出るみことばを通してでも、聖霊の働きを通してでも、自分の罪を悟って悔い改めて立ち返るように、機会を下さるのです。
しかし、このように悟る機会を下さるにもかかわらず、相変わらず心を頑なにして立ち返らないなら、その時からサタンに訴えられて、懲らしめが臨むようになります。この時も、初めから苛酷な懲らしめが臨むのではありません。軽い懲らしめから始まりますが、このように懲らしめられても立ち返らないなら、ますます強い懲らしめが来るようになります。
イスラエルの民がエジプトから出たとき、エジプトに下された十の災いもそうでした。初めはナイルの水が血に変わって飲めなくなり、全領土、家の中、食器の中にまでカエルがはいあがる災いが臨んだりしました。ところが、こういう災いもとても苦しくて辛いものですが、それでもその被害が致命的だったり、復旧できないほどだったりではなかったのです。
ですから、この程度でパロ王が立ち返ったら良かったのに、彼は災いが来るとしばらくは立ち返るようでも、災いがおさまるとまた神様の御心に逆らい、だんだんもっと大きい災いにあうようになります。腫物や激しい疫病など病気の災いにあったり、ひょうの災いとイナゴの災いにあったりして、財産にも致命的な損失をこうむります。
これらの災いにあっても立ち返らなかったので、パロ王の初子から臣下と民としもべ、はなはだしきは家畜の初子に至るまで、みな死ぬようになります。それでも悔い改めなかったので、結局、葦の海に葬られてしまいました。

愛する聖徒の皆さん<箴言3:11>に、「 わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。」とあります。
神様の子どもたちが神様の御心から離れて行うと、何よりまず聖霊が嘆かれるので、心から平安がなくなり、苦しくて悩むようになります。また、神様はあれこれのことを通して悟れる信号を送ってくださいます。それでも悟らないときは、やむを得ず懲らしめを許されるのです。病気や事故でケガをしたり、家族や職場の問題が起きたり、財産を失ったりします。
ところが、こういう懲らしめも、結局は神様の愛であることを皆さんもよくご存じでしょう。「 だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子である」というみことばのように、皆さんが神様の愛する子どもだから正しい道を歩んで祝福の中にとどまるようにしようと、真理から離れた時は懲らしめられるのです。過ちを犯したのに懲らしめがないならば、これは神様と関係がない人という意味なので、むしろこのほうがもっと恐ろしくて震えることです。
したがって、自分の過ちで懲らしめられる場合、恐れで気を落としたりあきらめたりするのではなく、心の底から感謝して、すみやかに立ち返る賢い聖徒にならなければなりません。そうする時、憐れみ深い神様はすべてを赦して、患難と災いからも救い出され、また平安の中で守ってくださるのです。しかし、最後まで立ち返らなければ、結局、この地でも自分が行ったとおり刈り取り、終わりの日には永遠の死の審判を受けるようになります。
続く本文<22節>に、「見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。」とあります。ここで「病の床に投げ込もう」とは、悔い改める機会を得ても立ち返らなかった悪い者について、主が怒りを燃やして 彼を大きい試練と患難の中に投げ込まれる、という意味です。
一般に「床」とは、人々が安らかさと暖かさを感じて、その中に入って休みたいところです。しかし、本文は「病の床」です。これは霊的に決して安らかで休息の場所でなく、イゼベルが忌み嫌うことを行う場所であり、神様から御顔を背けられて捨てられたところを意味します。
時には、罪を犯す人にすぐに災いが臨まないので、罪を犯しても相変わらず幸いを味わっているように見えることもあります。それで、ある人々は「神様が本当に生きておられるなら、あんなに悪を行う人をなぜ放っておかれるのだろうか?」とつぶやく場合もあります。
しかし、<詩篇37:1-2>に「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。」とあり、<10節>には「ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。」とあります。
このように、しばらくは悪者がいくら栄えているように見えて、床にいるように平安に見えるけれど、定められた公義の線を越えると、あっと言う間にさばきが臨みます。ひょっとして、生きている間はさばきが臨まないで平安で栄えるように見える時もありますが、この時も、結局は永遠の死の地獄の火に投げ込まれるので、決して栄えたと言えないのです。
これらの事実が悟れない人々には、イゼベルが投げこまれた床が病の床とは知らず、安らかでかっこうよく見えるので、惑わされてその中で一緒に罪を犯す場合があります。こういう人々について、「また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。」と言われたのです。
それでは、ここで「大きな患難」とは何でしょうか? それは、救われなくて地獄に落ちる最後の懲らしめを意味したり、または、生きて主の再臨を迎える人にとっては、天に上げられなくて七年大患難に落ちることを意味したりします。
ところで、ひとりが罪を犯した結果が単純に個人的な災いの次元にとどまるのではなく、より大きく現れる場合があります。第一に、国のかしらが罪を犯すので、国全体に試練と患難が臨む場合があって、第二に、教会のかしらである主のしもべが正しく立てないので、教会全体があう試練と患難があります。第三に、家庭や個人が過ちを犯すとき、家族全体や個人に臨む試練と患難があります。
イゼベルの場合はこの三つ全部に当てはまりました。国の母として立てられたイゼベルが、夫の王と臣下と国民まで罪を犯すようにさせ、また、異邦の神に仕える人々を国の宗教指導者に立てました。ですから、国全体に三年半も雨が降らない大きな災いが臨み、イゼベル個人も、結局は悲劇的で惨たらしい終末を迎えてしまいました。
韓国の歴史を見ても、国家的に大きな患難があった時には、同じ原理が適用されたのです。政治家の間に党派戦いが極みに達すると、これによって民の間にも葛藤が強まり、民心が荒れるなど、混乱と悪で満ちました。
このようなことを見ると、国の戦争や大きな災いも、偶然に起きるのではなく、公義の法則によって起きることがわかります。したがって、世の中でも教会でも、人が任された務めが高くなって、かしらになるほど、それに従う責任も大きくなることを悟らなければなりません。かしらの人が目覚めて祈る時にその組織がうまくいくのであり、仮に試練が来ても、すみやかに退くようになります。
続く<23節>に、「また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」とあります。
神様は燃える炎のような御眼で、すべての人の心の奥深いところまで探っておられるので、誰も決してだますことができません。イゼベルのような人やその行いに参加する人には、必ず公義の中でさばきが臨みます。「この女の子どもたちをも死病によって殺す。」という警戒のみことばも、公義の中で臨む懲らしめや災いを意味します。
だからといって、これが必ず子どもたちに何かの懲らしめや災いが臨むことだけを意味するのではありません。自分が犯した罪の実として、夫や妻など愛する家族に災いが臨むこともあり、あるいは生活の苦しみや病気の苦しみなどが臨むこともあります。このようなさばきを通して神様の公義が現れ、神様は人の行いはもちろん、心と思いとまでも探られる方であることをすべての人が明らかに知るようになります。
ところで、このように災いにあってから、ようやく神様は探られる方だと悟ってはいけません。皆さんに万が一にも神様の前にふさわしくない、真理に逆らう心や行いがあるとき、神様はその愛する子どものためにいろいろな方法で働かれて、自ら悟れるように助けてくださいます。講壇で伝えられるメッセージを通して正確に指摘してくださる時もあり、聖書を読んだり説教テープを聞いたりしているうち、自分を発見して悟るようにされる場合もあります。時には、全く思いもしなかった人の口を通して、自分の姿を悟らせてくださる時もあります。
皆さんが聞く霊的な耳を持っているなら、神様は皆さんの心と思いまでも探られて、愛する子どもたちを細やかに導いてくださる方だということがいつも感じられます。<箴言15:3>に「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。」とあり、<詩篇139:3>に「あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。」とあるとおりです。
したがって、皆さんはただ光の中を歩み、すべてを探られて明らかにご存じである神様の前に大胆でいられますように。<24節>からは次の時間に調べていきます。

愛する聖徒の皆さん、世の裁判では裁判官の誤った判決によって無念にも苦しむ人がいるかと思えば、罪を犯しても刑罰を免れる人もいます。また、裁判官がいくら正しい判決を下そうとしても、人の深い心の中まで探れないので、表面に見える行いだけで判決を下します。
しかし、<箴言16:2>に「 人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。」とあるように、全知全能の神様はすべての人の言葉と行いを探られるだけでなく、思いと心、深い心の底まで明らかにご覧になります。
そして、各人に対して探られた内容を天使に一つ一つ記録させて、最後の審判の日にはその記録に従って、善であれ悪であれ、すべての行いに応じて報いてくださいます。一瞬、悪い感情をいだいてにらむ瞳一つまでも神様の前では隠せないし、一方、誰も見ない所でした小さな善い行いも、審判の日には明らかにされます。
皆さんはこれを本当に心に信じるでしょうか? 本当に信じるなら、皆さんの言葉と行いは、また、心と思いはどうあるべきでしょうか? 皆さんを担当する天使が皆さんについて記録している天国の本には、はたしてどんな内容が記されているでしょうか?
<第一ペテロ3:10-12>に「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」とあります。
したがって、皆さんはささいな一言、行い一つでも、毎日善なる父なる神様に似せられていく光の子どもたちになられますように。これからは、将来主がまた来られる時まで、天使たちが皆さんについて記録する本に、ただ善い言葉と行いと思いと心だけが満ちあふれるように願います。
それで、各人の行いに応じて報いてくださる神様が、この地上でも、将来天国でも、皆さんに祝福と報いと栄光で返してくださいますよう、主の御名で祝福して祈ります。

 
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