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黙示録講解 メッセージ > 黙示録講解
黙示録講解
Title
   黙示録講解(10)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 2:8-11
Date
   2006-12-15


<黙2:8-11>

また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』


主を信じている人や信じていない世の人でも、生きていきながらあれこれの苦しみにあったりもします。ところで、原則的には、たとえこの世ではいろいろな苦しみにあっていた人でも、主の中に入って来るようになると、神様が守ってくださるので、あらゆる苦しみが離れるはずでしょう。
しかし、実際には、主を信じている人々の中でも、相変わらず苦しみにあう場合があります。ただ、主を信じている人々の経験する苦しみと、この世の人々が受ける苦しみとは違います。うわべでは似ているようでも、主の中に入って来て経験する苦しみは、それを信仰でよく通過して出て来たとき、結局たましいに幸いを得るようになり、天にも報いを積み重ねる過程だからです。
先週申し上げたように、主を信じている人が経験する苦しみには二つの種類があります。
第一に、主を信じるがゆえに受ける苦しみです。暗やみのこの世の中で、光であられる主のみことばどおりに生きるために受けなければならない、あれこれの苦しみがあります。
たとえば、信じていない家族や周りから受ける迫害があり得るし、学校や職場などで真理のとおりに生きようとすると、信じていない世の人々から受ける苦しみや迫害などがあるのです。このような場合は、そのあらゆる苦しみや迫害がかえって受けている人に報いと祝福になります。
それで、このような事実を信じていた使徒たちは、自分たちが主の御名のために迫害されることだけでも感謝しました。<使徒の働き5章>には、使徒たちが主の御名のためにむちに打たれたり、牢に入れられたりするなど、いろいろな苦しみにあう内容が出てきますが、<41節>には「そこで、使徒たちは、御名のために(すなわち、イエス・キリストの御名のために)はずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」と書かれています。ですから、使徒たちは主の御名のために苦しみにあう時も、それがつらいとか恥ずかしく思ったのではなく、かえって喜んで感謝して喜びおどったのです。
聖徒の皆さん。ある場合には、皆さんの側では主を信じるがゆえに苦しみや迫害にあっているとは言っても、実際としては、皆さんが賢くないがゆえに、あえて受けなくてもよい苦しみや迫害を自ら招く場合もあります。
妻が賢くなく行うことによって、信じない夫が、妻が教会に行くことをねたんでそねむようにさせたりもします。時には、皆さんが自制できないで、言うべき言葉と言ってはいけない言葉を見分けられないことによって、教会と牧者が不当にののしられるようにさせたりもします。また、信じていない家族が反発心を引き起こすように言ったり行ったりもします。このような場合は、主を信じているから受ける苦しみや迫害と言うよりは、皆さんが少しだけ賢く善良に行うなら、いくらでも受けないこともあり得ることなのです。
ところで、このような場合とは違って、敵である悪魔・サタンに働きかけられる人々によって、神の人たちが受ける苦しみと迫害があります。まさに旧約と新約の信仰の昔の人々と神の人たちが、神様のみこころと摂理を成し遂げるために受けなければならなかった苦しみと迫害なのです。かりに今日、そのような苦しみと迫害を受けながら、主の福音を宣べ伝えなければならないのであれば、はたして大胆に出て行って伝える人々がどれだけいるでしょうか?
さて、本教会には、今後、時になると、まさにこのような苦しみと迫害を顧みないで、福音を宣べ伝えなければならない使命があります。もちろん、今までも本教会は福音を伝えるために、多くの苦しみと迫害を受けたこともありました。しかし、そんな時であるほど、本教会による世界宣教の摂理は、さらに大きく成し遂げられてきたことがわかります。
そして、このような摂理のうちの一つとして、本教会には北朝鮮宣教を成し遂げなければならないという、重大な使命が与えられています。このような北朝鮮宣教の使命を果たそうとすると、当然、主の御名のためにいろいろな苦しみと迫害を受けるようになるでしょう。
そのため、主がスミルナ教会に下さるみことばの中には、本教会に与えられた北朝鮮宣教の使命を成し遂げることにおいて、必ず心に留めなければならない内容が込められています。特別に、北朝鮮宣教に備えている方々は、今後、皆さんが経験するようになる状況が、このスミルナ教会に下さったみことばの中に込められていることを悟り、一つ一つのみことばをよく糧とされますよう願います。
本教会が北朝鮮宣教の働きを実際に成し遂げると、苦しみや迫害はもちろんであり、時には殉教にまで至らなければならない状況にあうかもしれません。しかし、そのようにしたとき、皆さんに授けられる天の御国の報いは実に素晴らしいのです。
また、皆さんを迫害する人々を憎んでのろうのではなく、<ローマ12:14>の「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」というみことばのように、そのような人々のためにでも祝福して祈ってあげられる心であれば、その心はどれだけ善良なものでしょうか? 使徒パウロはそのような心を耕し、主のために受ける迫害と苦しみをかえって喜びと感謝で受けたので、天の御国でもそのように高い地位に至ることができたのです。
したがって、北朝鮮宣教を成し遂げなければならない本教会の主のしもべと聖徒たちも、まさにこのような心となり、どんな苦しみや迫害であっても充分喜びと感謝で勝ち抜くなら、皆さんに授けられる天の御国の栄光と称賛もやはりとても大きいのです。
したがって、皆さんは真理を追い求めるために、主の御名で受けるどんな苦しみがあるとしても、心の底から喜んで喜びおどるよう願います。そのような方々に、父なる神様が天の御国でだけでなく、この地上でも豊かな祝福で報いてくださいますよう、主の御名で祝福して祈ります。

聖徒の皆さん。ところで、このように主の御名のために受けるようになる苦しみとは違って、自分が真理の中に生きられないので、サタンに訴えられて来る苦しみがあります。
もちろん、主を信じる前にも、この世で生きながら、敵である悪魔・サタンから多くの試練や患難にあいます。しかし、その時はなぜ自分に、そのような試練や患難が来たのかも知らないまま、敵である悪魔のえじきになって生きていました。しかし、主を受け入れて神様の子どもになった後に、主にあって経験するようになる試練や患難は、この世で受けた試練や患難とは違います。
それでは、どう違うのでしょうか? 私たちがイエス様を救い主として受け入れ、神様の子どもになると、<ピリピ3:20>で言われたように、私たちは天の御国に国籍を持つ天国の民になります。そして、この時からは、天の御国の国籍を持つ者として、天の御国の法に従わなければなりません。
ところが、仮にこの法から外れるようになると、その時は敵である悪魔が訴えるようになります。敵である悪魔の立場では、この世の罪と悪の中で悪魔の子どもだった人が主を受け入れて神様の子どもになったことによって、自分の子どもを奪われたので、何としてでも再び取り戻すために血眼になっています。それで、どのようにしてでも訴える口実さえあれば、それをもって訴えて、試練や患難をもたらすことによって、困難を経験するようにして苦しみにあわせるのです。
ところで、このように試練や患難を経験している人々の中に、たまにある人は自分の過ちのゆえに試練や患難にあいながらも、これを誤解して神様が試練を下さるのだと思っている人々がいます。
しかし、決してこのような誤解があってはいけません。わが神様はだれかを誘惑なさるお方ではありません。<ヤコブ1:13>の「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」というみことばのように、神様は私たちに試練や患難をお与えになる方ではありません。
それなのに、皆さんが試練や患難を受けるのは、<ヤコブ1:14>に「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」とあるように、自分の欲に引かれておびき寄せられ、誘惑されるからです。すなわち、欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されて、神様の法にそむいて罪を犯すからなのです。
私たちがこの地上でも法にそむくことが罪であり、その罪ゆえに罰を受けるように、神様の法にそむいた時も、それによる代価が与えられるのです。わが神様は子どもたちにただ良いものだけを与えようと願われますが、人のほうから神様の御前に罪を犯すことによって、サタンが訴える口実になってしまうのです。
この時、神様は公義の神様なので、いくら神様の子どもであっても、罪を犯すなら守ってくださることができず、結局、罪を犯しただけ、敵である悪魔は神様の子どもたちに試練や患難をもたらすのです。
しかし、このようなすべては、結局、神様の愛だと知らなければなりません。<ヤコブ1:15>には「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあり、<ローマ6:23>には「罪から来る報酬は死です。」とあります。罪の結果は、結局、死なのです。
ですから、このように罪を犯して、罪に向かっている子どもを放っておくなら、どうなるでしょうか? そのような子どもを放っておくことが愛でしょうか? 愛の神様は、子どもたちが罪によって死に向かっているのを黙って見守っているだけではなく、懲らしめてでも悔い改めて立ち返れるように、サタンの訴えによって、試練や患難をお許しになります。
このような神様の愛について<ヘブル12:5-6>には、「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」と書かれています。
したがって、皆さんに試練や患難が来た時は、まず自分を顧みて、これは主を信じるがゆえに来たものなのか、あるいは、皆さんが罪を犯したので来たものなのかをよく調べなければならないでしょう。
それで、自分の過ちによって来たものであれば、すみやかに誤っているものを捜して悔い改めて立ち返ることによって、主の祝福の中に再び入って来るべきです。神様のみことばは絶対的なので、皆さんが真理である神様の法の中にだけ生きるなら、決して悪い者は皆さんに触れることができないのです。あらゆる試練や患難も退いて、かえってすべてのことが栄える祝福が臨むようになります。
したがって、皆さんに試練や患難が訪れて来るなら、かえってそれを通して自分を発見して変えられることができて、その上祝福まで受けられる機会なのですから、いつも喜んで感謝できるのです。
次に<9節の前半節>で、主は苦しみだけではなく、「あなたの貧しさとを知っている。」とも言われましたが、それでは貧しさはどうして来るのでしょうか?
私たちが神様を信じて主の中に入って来るようになると、日増しにたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康なはずなので、物質の祝福もやはり受けなければなりません。
ところが、かえって反対に主の中に入ってきて、物質の貧しさにあう場合があります。主を信じていなかった時よりもっと熱心に働いて、誠実に働くにもかかわらず、職場で迫害を受けたり、不当な待遇を受けたりする場合もあります。また、主日を完全に守れない状況で、主日を守るために職場を辞めたり移したりしなければならない場合があります。これによって来る物質の貧しさがあり得るのです。
しかし、このような貧しさはほんのしばらくの間だけであり、主を信じることによって経験する貧しさを、主がどうして長く放っておかれるでしょうか? 職場で相手がいくら自分を迫害しても、自分のほうからさらに善で、光で対していくなら、結局、相手もその前で頭を下げるようになります。
わが光と塩宣教会の会員たちや職場生活をされる聖徒たちの中には、このような経験をされた方々がたくさんいます。それで、結局、主が下さる祝福によって、貧しさではなく、あふれる祝福として戻って来るのです。
ところで、このような理由からの貧しさではなく、自ら願う貧しさもあります。
私の場合は、事実、一年中、私のために使うお金はほとんどありません。私にある物質は何としてでも集めて、神様の御前にささげるよう努め、救援するよう努力したら、自分のためには一年になっても、靴下一足も買わないのです。あのありふれたジャジャンメンやチャンポン一皿も、私はあまりにももったいないので食べられず、一年に一、二回食べたらたくさん食べたほうなのです。
さて、必ずしも私のようでないとしても、わが聖徒たちの中には十分味わうことも、楽しむこともできる地位にいるにもかかわらず、神様をとても愛して、神様の聖殿を愛するので、自分のために使うものをほぼ使わずに集めて、最善を尽くして神様の御前にささげる方々がとても多いのです。ですから、このような場合は、主を愛するがゆえに自ら感謝をもって貧しさにおかれているのです。
しかし、わが神様はどんなお方でしょうか? このように、神様を愛し、教会を愛している方々をそのままにしておかれません。もちろん、天の御国に比べられないほど大きな報いとして積み重ねられていますが、この地上でも必要に応じて提供してくださり、たましいに幸いを得ていて健康の祝福として報いてくださいます。ですから、このような人に主は「――しかしあなたは実際は富んでいる。――」と言われているのです。
愛する聖徒の皆さん。<第二コリント8:9>には、「あなたがたは、私たちの主イエス·キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」と書かれています。
イエス様は創造主なる神様の子として、最も富んでおられるお方にもかかわらず、馬屋でお生まれになり、家畜の飼葉おけに寝かせられて、この地上で生きる間、時には飢え、寝床もなく荒野で眠られるなど、私たちの貧しさを贖ってくださることによって、私たちをあらゆる貧しさののろいから解放してくださいました。したがって、主を信じている私たちは決して貧しいことがあり得ず、かえって富んで神様に栄光をささげなければなりません。
しかし、神様の子どもになったからといって、無条件にみなが富むようになるのではありません。<申命記28章>には、神様のみことばによく聞き従い、そのみことばを守り行うとき、はいるときも出て行くときにも祝福されて、かしらとならせ尾とはならせない祝福、貸すであろうが借りることはない祝福を下さると約束されています。
したがって、皆さんがもしかして試練や患難や、あるいは、貧しさにおかれているのであれば、ひょっとしてみことばの中に生きていないのではないかを顧みるよう願います。特に、神様の憎まれる罪を犯して、神様との間に罪の隔ての壁があるなら、それを崩さない以上は、皆さんがいくら努力しても栄えないのです。
しかし、そのように栄えないことが、結局、自分を顧みて悔い改めて立ち返らせる祝福だと知らなければなりません。それで、皆さんがまことに神様のみことばの中に生きて光の中にとどまるなら、その時は試練や患難と貧しさが来るはずがなく、たとえ主の御名のためにしばらくの間受けるとしても、結局、すべてのことが退いて、もっと大きな祝福が臨むようになるのです。
しかし、その何よりも救われた神様の子どもたちには、永遠の天国が備えられていて、たましいに幸いを得ているだけ、この地上でもすべてのことに栄える祝福を受けられるのですから、これはどれだけ富んだ者でしょうか? このように富む祝福を思いきり味わう皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
続く<9節の後半節>には、「またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」とあります。「ユダヤ人」とは、もともと神様の選民として、選ばれた人々を言います。したがって、今日は、主を信じている人々が霊的な意味のユダヤ人になるのです。
ところで、きょうの本文には「ユダヤ人だと自称している」、すなわち、自分を指してユダヤ人だと言う人々であると言われています。ユダヤ人なら、神様を信じている人々であり、神様から選ばれた人々ですが、イエス様の当時を見ると、このようにユダヤ人だと言っていた人々が神の子であるイエス様がわからず、かえって迫害して逆らい、結局、十字架につけて殺してしまいました。
これは今日も同じであり、主を信じていて教会に通っていると言いながらも、神様の働きをそしっている人々がいます。自分たちの考えと合わないからといってさばいて罪に定め、そねんでねたむので憎んでいる人々もいます。このような人々をどうしてわが神様が、選ばれた神様の子どもだと認めてくださることができるでしょうか? 彼らが、まさにユダヤ人だと自称しているのであり、主はこのような人々から神様の働きがののしられていることも知っている、とあり、実はそうでないと言われています。すなわち、神様の子どもだと言えないというみことばなのです。
聖徒の皆さん、自分が見て、あるいは、人が見て、いくら信仰があり、義人で善良なように見えても、神様がお認めにならないなら、何の役にも立ちません。
<マタイ13:49-50>には、「この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」と言われています。
自分ではいくら神様を信じている子どもだと言っても、その人の言葉と行いが神様の子どもでないなら、その人はユダヤ人だと自称しているだけであり、終わりのさばきの日にはすべて現れるようになるのです。
ところで、このようにユダヤ人だと自称している人々は、あえて終わりのさばきの日でなくても、すでに彼らの生き方の中で実が現われます。神の人であれば、当然御霊の実を結ぶべきであり、真理に歩んで互いに愛し合って平和であり、善良な言葉と行いの実を結ばなければならないでしょう。しかし、これと反対であるねたみ、そねみ、さばき、罪に定めること、憎しみ、争いなどが現われるなら、これはだれのしわざでしょうか? まさにサタンのしわざなのです。それで、このようにサタンのしわざを受けていく人々が、二人以上が集まるようになるとき、これを指してまさに「サタンの会衆」と言います。今日、多くの諸教会がこのサタンの会衆ゆえに、いろいろな困難と苦しみを受けています。サタンの会衆についての具体的な内容については、次の時間に続けて調べてみます。

愛する聖徒の皆さん。父なる神様はすでにずっと前から、本祭壇に北朝鮮宣教への使命を下さいました。分断と朝鮮戦争の痛みを経て、すでにはるか50年以上経ちましたが、まだ北朝鮮には皆さんの両親や兄弟、親類一族が住んでいる場合があります。彼らは私たちと一つの民族なのです。
使徒パウロは<ローマ9:3>で、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と告白したように、自分の民族の救いについての切なる心がありました。もちろん、それは神様の選ばれた民への神様の切なる心を知っていたからでもありますが、使徒パウロにはこのように自分の民族への熱い愛と情熱がありました。
これと同じように、私もやはり私たちと一つの民族である北朝鮮について、特別な心を持つようになります。もちろん、全世界65億の魂たちを抱いて祈っていますが、北朝鮮宣教は終わりの時の摂理の中に入っているので、いつも心に抱いて祈っていくようになります。
神様は終わりの時の摂理のために、本祭壇を選んで用いておられますが、このような本祭壇の属したこの国と民族に対しても、神様は機会をお与えになるのです。イエス様を十字架につけて殺して、今までもイエス様を救い主として認めていない、イスラエル民族に対しても最後まで忍耐なさり、救いの摂理を施してくださるようにです。
それで、今後、時になると、神様のみこころと摂理の中で北朝鮮宣教の門が開かれて、本教会でも主のしもべと働き人たちが入るようになりますが、実際、そこに入ると、現実の状況は多くの困難があり得ます。その時すぐ現実的に近づいてくるあらゆる環境と経済的な事情などが、ここにいた時とは比べられないほど劣悪かもしれません。
また、時間が経つほど、初めとは違って迫害と苦しみがだんだんとひどくなると、「続けて残るべきなのか? あるいは、本教会に戻って行くべきなのか?」と、このような選択の岐路に立たなければならない時が来ます。そして、その選択は自由意志にかかっています。しかし、そのどんな状況でも、皆さんの心が富んでいると、周りの環境と条件は何の問題にもなりません。
ここで「心が富んでいる」とは、皆さんの心に天国の望みがあふれ、天の御国で与えられる報いを見つめて、信仰と聖霊の充満を失わないという意味なのです。<マタイ5:3>に「心の貧しい者」が出てきますが、ここで「心の貧しい者」と反対の意味の「心の富んでいる者」とは、この世の欲と自分の欲、自尊心などで心が満ちている人を意味します。
ところで、今、言っている「心が富んでいる」こととは、そのような意味ではなく、天国の望みと信仰、愛など、霊的なものでその心が富んでいることを意味しています。
このような人について<第二コリント6:10>には、「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」と言われています。それで、このように心の富んでいる人には、この地上での迫害と苦しみと貧しさなど、どんなものも決してその人を弱くすることができません。北朝鮮宣教の使命も、まさにこのように父の下さる心の豊かさが満たされたとき、結局、父なる神様のみこころと摂理を完全に成し遂げるようになるのです。
これは皆さんにとっても同じです。皆さんの心も父なる神様の下さる霊的なもので富ませてみてください。今の現実にどんな困難や苦難があっても、それは皆さんが行く道において、どんな障害物にもなれません。
したがって、皆さんはうわべだけ立派で、その中は何の中身もない殻になっては決していけません。本当に皆さんの心の中に霊的な実でいっぱいになり、主から「――しかしあなたは実際は富んでいる。――」と言われる、このような称賛を受けられますよう願います。
それで、皆さんの心が富んでいることが表に現われる姿の中でも、美しく豊かな実として出て来られますよう、主の御名で祝福して祈ります。"

 
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