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Title
   信仰の量り(21)-信仰の五段階(2)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ロマ 12:3
Date
   2006-05-14


<本文>

<ローマ12:3>

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4、400余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん、

「恋に落ちた人には、世のすべてが美しく見える」ということばがあります。互いに離れている時も、愛する人を思うと目がキラキラ輝き、何か良くないことにあう時も、その愛のために喜びを失わないこともあります。疲れることをしながらも、愛する人を思うと鼻歌が出てきて、相手に喜ばれる方法を研究すると、幸せな笑いを隠せないのです。それで、周りの人々が恋に落ちた人を見ると、「本当に幸せそうだ」と言って、うらやましがるのです。
ところで、私たちの神様も「私と愛を分かち合える人がいればよいのに」と切に願われました。ですから私たちを造られて、この地上で生きていくようにされたのです。
愛そのものである神様は、とても愛し愛されることを願われます。また、すべての良いものを愛する人々と共に味わいたいと思われます。
旧約聖書<ゼパニヤ3:17>に、「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」とあります。
もし、神様が皆さんに向かって このような告白をされるなら、皆さんはどれくらいうっとりするほどうれしいでしょうか? それは、全知全能な神様が皆さんの中におられて、喜びをもって皆さんのことを楽しまれるということです。皆さんが何をしようがどこへ行こうが、寝ても休んでも、何かを食べている時も、神様が皆さんをとても愛らしくご覧になって、皆さんが存在するという事実だけで神様が喜びをもって楽しまれるということです。
それで、「あの息子をどう喜ばせようか」あるいは「何をもってあの娘を幸せにしようか」と、皆さんに与える祝福を探されるでしょう。かりに全知全能な神様からこういう愛の告白が聞けるなら、その人こそ世の中で最も幸いな人です。
皆さんすべてが父なる神様からこういう愛を受けるようお願いします。そのためには、皆さんも愛されるほどの姿にならなければなりません。
きょうのみことばを通し、神様をとても愛して、神様に喜ばれる人とははたしてどんな人なのかを悟って、皆さんがまさにそのような人になられるようにお願いします。それで、神様が皆さんをご覧になるとき、「私は喜びをもってあなたのことを楽しむ」と言われ、いつも共に歩まれることができますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、きょうは信仰の五段階、その二番目の時間です。
信仰の五段階は「神様に喜ばれる信仰」と言いました。これは、父なる神様をこの上なく愛し、そのみことばに完全に従う段階を過ぎて、神様の深い心と御旨を推し量り、その心にぴったり合うことだけ行うことです。それでは、このような信仰の五段階は具体的にどんな信仰でしょうか?

第一に、信仰の五段階は、自分のいのちを捨てるまで、神様の前に完全な従順ができます。人としては不可能などんなことを命じられても、それが神様の御心なら、ただ「はい」と「アーメン」であり、自分のいのちをささげてでも、命じられたこと以上に従うのです。
もちろん信仰の四段階にだけなっても、神様のために十分にいのちがささげられます。世の中の何より神様をさらに愛するために、殉教でさえ十分できるのです。
しかし、信仰の四段階と五段階が、うわべでは同じように聞き従っていのちをささげると言っても、神様が受けられる時は、明らかに差があります。
その差は、まさに心にあります。つまり、父なる神様の御心をどれくらい深く推し量って、どれくらいその心になって聞き従ったかということです。
肉の子どもが両親に従う時も、無条件に「はい」と従う子がいるかと思えば、両親がなぜそのようなことを言うのだろうかと、その心を感じながら従う子もいます。
それで、前にこういうたとえを挙げたことがありました。仕事も持つ母親が出勤するとき、「お母さんが帰る時までに掃除をしておきなさい」と言うと、子どもによって違う反応が出ます。ある子は早く外に出て遊びたいのですが、母親に言われたのでいやいや掃除をします。ある子どもは愛する母を助けられるので、うれしい心で従い、心を込めて掃除をします。
ところが、これよりさらに善良な子は、「お母さんが仕事から帰ってくると、疲れて大変だろう、何かもっとしてあげることはないだろうか」と、お母さんの立場を推し量ります。ですから、言われたとおりにきれいに掃除をしておくだけでなく、言われていないことまで探してします。洗濯物もたたんで、 食事の準備もして 、このようにお母さんのために気を遣うのです。こういう気配りの良い子どもを見ると、親の心は、単純に可愛いという程度を越えて、いたく感心して喜ぶようになります。
神様との関係もこれと似ています。信仰の四段階では心に罪と悪がなく、神様をとても愛するので、神様が何を命じられると無条件に従う心です。しかし、父の深い心まで推し量って従うには、まだ足りないところがあります。
ところが、信仰の五段階は、命じられた通り従うだけでなく、「なぜそういうことを命じられるのだろうか」と父の心と御旨を推し量って、命じられたこと以上にあふれるように従うことができます。

愛する聖徒の皆さん、四段階と五段階の差をさらに簡単に理解するために、以前に説明した「善の段階」をもう一度思い出してみるようお願いします。
まず、相手が皆さんを憎み、何の理由もなく迫害して悪を行うとき、皆さんが少しも悪い感情や気まずさもなく相手を理解して赦せるなら、皆さんは信仰の四段階に入ったということです。心から罪の性質を根本的に脱ぎ捨てて、清くて聖められた心だからこそ、このような善の段階に入ることができます。
ここでさらに高い次元の善を成し遂げると、相手が何の理由もなく悪を行うとき、赦すだけでなく、むしろ善で返すようになります。善良な話と行いによって悪い人も感動を受けるようになります。
実際、主を信じるという数え切れない人々の中でも、こういう善を持った人を探すことはやさしくありません。信仰の五段階の入り口や、少なくとも信仰の四段階でも深く入った時でこそ、このような行いが現せるのです。
ところが、神様が神様の子どもたちに望まれる善は、これよりもさらに高い次元の善です。つまり、自分に悪を行った相手も愛して、自分のいのちまでも犠牲にして与えられる愛と善を成し遂げることを望まれるのです。
こういう愛と善を心に成し遂げる時でこそ、父なる神様の心を推し量って、完全な従順ができます。イエス様が罪人のためにいのちを渡してくださったように、神様の御心を完全に成し遂げられるのです。
<ピリピ2:6-8>に、「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とあります。
イエス様は何の罪もない神様の御子でしたから、十字架にかけられる必要がありませんでした。それでも神様の御心に従い、喜んで十字架にかけられて死なれたのです。
この時、イエス様は単純に神様をとても愛するので、神様の御心に無条件に聞き従われたのではありません。それは信仰の四段階でもできる従順です。
イエス様は単純に行いだけで従ったのではなく、父なる神様の深い心と御旨を知って、父の心を抱いて完全に従うことにより、その摂理を成し遂げられたのです。死にかけている魂たちへの父の愛をまことに切々と感じられたので、イエス様は同じようにその愛の心を抱いて、いのちを尽くして父の御旨を成し遂げられたのです。
その残酷な十字架の苦しみにあわれても、イエス様は「苦しい」「つらい」と言って、自分の立場を考えたのではありません。滅びの道へ行く魂たちを憐れみ、自分を釘づける者のために、むしろとりなしの祈りをささげられました。
また、イエス様が受けられる苦しみにより、痛み悲しまれる父の御心をまず考えました。それで、十字架で亡くなられる最後の瞬間までも、イエス様は父を慰めようと、今後救われる無数の魂たちと父が受けられる栄光について申し上げて、感謝の告白をささげられたのです。ですから、神様がこういうイエス様をご覧になって、どれくらい感動を受けられたでしょうか?
それで<ピリピ2:9-11>に、「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とあります。
またイエス様については、「わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と言われ、神様の喜びの心を表されました。
父なる神様は私たちもイエス様のように、父の心を深く悟ることによって完全に従えることを願われます。ところで、こういう従順を成し遂げるためには、意欲だけが先んじてできるのではありません。前にも説明したように、まず父なる神様に似せられた心を成し遂げなければなりません。
<ピリピ2:5>に、「 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とあるように、イエス様の愛と善が皆さんの中にも臨んでこそ、イエス様のように完全な従順ができるのです。
愛する聖徒の皆さん、信仰の五段階は清い心の器の中に、完全な霊の実が豊かに満たされた状態だと言いました。
信仰の四段階でも、罪と悪を脱ぎ捨てた分、清い心の器が準備されたので、父なる神様のみことばに従うことは従います。しかし、自分の中に霊の実が結ばれた限度の中だけで、父の心を推し量ることができます。
かりに忠実の実は100パーセント近く結ばれたけれど、自制の実は40パーセントほど結ばれた霊の人がいるとしましょう。この人は父が何かを命じられるとき、忠実の分野ではあふれるように忠実な者になり、父の心を喜ばせることはできますが、自制の分野では、自分が成し遂げた40パーセントしか父の心と御旨を悟ることができません。それだけ父の心にぴったりと合うように成し遂げられないこともあります。
したがって、信仰の五段階に入って、すべての実が100パーセント完全に結ばれる時でこそ、父の心の深みまで明らかに悟って完全に従うことができます。
このように霊の実が結ばれた差について、たとえで説明するなら、皆さんがぶどうが熟していくところを想像してみればもう少し簡単に理解できるでしょう。
まず、ぶどうの花が落ちたところに、初めは小さい粒のようなものができて、実が結ばれそうな兆しが見えるのです。これがまさに信仰の三段階です。心から罪と悪を脱ぎ捨てるほど、小さいけれど御霊の実が結ばれる兆しが見えるのです。そうするうちに、夏が深まるほどぶどうの粒は大きくなって、濃い紫色に染まり始めます。
ところが、ぶどうの粒100個があるならば、この100個の粒が同時にすべて同じ大きさと同じ色に熟すのではありません。同じ房に結ばれたぶどうの粒であっても、熟す速度がそれぞれ違って、大きさが違います。緑色がたくさん残っている小さい実もあって、ほとんど紫色になった大きくてふっくらとした実もあります。
このように、御霊の実が結ばれても、その実の中でもあるものはさらに立派で、あるものはちょっと劣る、そういう状態がまさに信仰の四段階です。愛の実は立派だが、自制の実はちょっと弱かったり、忠実の実は立派だが、柔和の実は弱かったりすることもあります。
ますます多くの日が経って、風雨を勝ち抜いて、日差しを受けてぶどうの粒一つ一つが完全に熟すると、すべてがよく熟した紫色に染まり、大きくふっくらした実として中身が詰まります。
このように、すべての御霊の実が100パーセント、完全に結ばれるようになると、ついに信仰の五段階に入るのです。このようにすべての御霊の実が100パーセント満たされるようになれば、この人はあらゆる分野で完ぺきな調和が遂げられます。
主への熱さと火のような情熱がありながらも、必要な時点で正確に物事をはっきりさせるので、自制できる能力があります。綿毛のように柔和で柔らかいようでいて、一方では獅子のように大胆でおごそかな権威もあります。すべての事に他人の益を求めて、相手のためにいのちも与えられる愛があるけれど、私的な心に全くならずに、正確な父の公義の中で従って行きます。「人の思い」は少しも働かさず、100パーセント聖霊の御声を聞いてつかさどりを受け、神様の御心を明らかに見分けて、完全にそのみこころを敬って従うのです。すべての分野で父なる神様の心に完全に似せられたまことの子どもになり、キリストの満ち満ちた身たけにまで達したということです。
信仰の四段階と五段階の差について、アブラハムを通して、もう一度たとえてみましょう。
アブラハムの場合は、初めて神様が召された時から、彼にはただ「はい」と「アーメン」だけがありました。神様が「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と仰せられたとき、アブラハムはどこへ行くのか、目的地も知らないまま無条件に出ていきました。
ところがこの時、アブラハムは神様を信頼して心で従う信仰を持っていたけれど、そのように命じられる神様の心を深く理解したのではありませんでした。しかし、生まれ故郷を出て、長い間の訓練を受けながら、神様とより親しい交わりを続け、神様の心と御旨を明らかに悟るようになりました。
それで人としては耐えにくいような大きい試みに直面した時も、完全な信仰の行いで神様に喜ばれました。その試みとは、まさに自分のひとり子イサクを神様に全焼のいけにえとしてささげることでした。
これは肉の思いを働かすなら、とうてい聞き従えないことです。長い間、相続者が得られなくて、百歳になって得た大事な息子がイサクです。このように可愛い息子を家畜のようにほふり、部分に切り分け、火によって焼かなければならないのです。
しかもこの息子は、神様が約束された約束の子です。はっきりと神様は「イサクを通し、アブラハムの子孫が無数に多くなる」と約束されました。
この時、自分なりに信仰があるという人々でも、「とても私の手で息子を殺すことはできない」と思う人がほとんどでしょう。また「愛の神様がどうして、このように恐ろしいことをさせられるのか?」「しかも神様がはっきり、イサクを通して跡を継ぐと約束されたのに、なぜ彼を殺しなさいと言われるのだろうか?」と、あれこれ疑問を持つようになります。
しかし、まさにこの試みを楽々と通過することによって、アブラハムは信仰の五段階に入りました。
<ヘブル11:17-19>に、「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」とあります。
この時、アブラハムは神様を愛するので、無条件に従ってイサクをささげただけではありません。神様の深い心まで悟れたので、イサクを全焼のいけにえとしてもささげても、全能なる神様がよみがえらせることもでき、彼を通して神様の摂理を成し遂げられるという事実を悟って、完全に従ったのです。
まさにこのような信仰を認められた時点から、神様はアブラハムをこの上なく喜ばれて、「神の友」とまで呼んでくださいます。
<ヨハネ15:13-15>に、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」とあります。
このように,父のみことばに従っていのちまでささげられて、父のみこころを深く悟るアブラハムだったので、「神の友」と呼ばれることができたのです。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、真実な友だちとは、時には兄弟よりも親しく心が分かち合える存在です。互いに心のうちを話して秘密がなく、いつも一緒にいることを願い、すべての良いものを分ち合おうとします。
神様も友と認められるなら、ことばだけで友と言われるのではなく、実際にも友として対してくださるのです。
信仰の父アブラハムだけが神様の友になれるのではありません。アブラハムの信仰を見習い、神様に喜ばれるなら、皆さんもだれでも神様の友になれて、友だちのように共に歩むこともできます。
神様が皆さんの心にあるすべてを聞かれて、祈ることごとに直ちに答えられて、皆さんが行く所ごとに、とどまる所ごとに、祝福が臨むようにされます。世の中のどんな人より、さらに栄華なる尊い人生を生きることができます。
愛する聖徒の皆さんは<ホセア6:3前半>に、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」とあるように、すべての事に神様の善なる心と御旨を推し量ろうと努力するようにお願いします。
すみやかに聖められて、その中を美しい霊の実でぎっしり満たして、神様の心を明らかに悟る皆さんになられますように、主の御名でお願いします。
それで、父なる神様が皆さんをご覧になるとき、大変愛して、喜ばれて、「あなたは私の友だ」と称してくださいますように、主の御名で祝福して祈ります。

 
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