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Title
   信仰の量り(19)-信仰の四段階(8)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ロマ 12:3
Date
   2006-04-30


<本文>

<ローマ12:3>

「 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4、400余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん、

愛の神様はイエス・キリストを受け入れた神様の子どもたちに、とても尊い救いの恵みを下さいました。罪によって地獄に行くしかなかった魂たちに永遠のいのちを与えられ、天国に入れるようにされたのです。
それだけでなく、神様は神様の子どもたちがこの地上で生きる間も、霊の信仰で求めさえすれば、何でも求めることに答えてくださいます。<マタイ8:13>に、「あなたの信じたとおりになるように。」と言われたように、健康も物質も与えられ、家庭の平和や名誉も信仰どおりに下さいます。すべての事が栄えるようにされて、大小のすべての問題一つ一つに、御父の前に求めさえすれば、細やかな愛で答えてくださいます。
ところが、なぜ時には「私は熱心に求めたのに、答えられなかった」という人々がいるのでしょうか? この教会で信仰生活をされる皆さんは、神様のみことばの中でその解答を簡単に探せるでしょう。口だけで「信じます」と告白するからといって、それが信仰ではありません。信仰のあかしがなければなりません。
つまり、神様のみことばをどれくらい信実に守るのか、心からどれくらい罪と悪を捨てたのか、これがまさに信仰があるというあかしであり、信仰を量る尺度になります。
それで、神様に似せられた聖なる子どもになるほど、信仰がより大きくなり、信仰が大きくなるほど、さらに簡単に答えられて、さらに多くの祝福を受けるようになります。
聖霊を受けて救われた神様の子どもだといっても、その信仰が足踏み状態だったり、むしろ退歩したりするなら、神様のみわざを体験しにくいのです。信仰生活をしていても、あかしがあまりありません。問題が起きても、答えられる信仰が簡単に与えられないので、初めは少し祈ってみても、すぐあきらめて、結局人の方法を使うようになります。
ですから、皆さんが救われて、信仰の一段階になったら、熱心に神様のみことばを聞いて行い、信仰の二段階、三段階にすみやかに入らなければなりません。そして、完全に神様のみことばの中にとどまり、信仰の四段階以上に入る時でこそ、神様のまことの子どもとして、何でも大胆に求めて答えられるのです。
ついに信仰の五段階に入ると、皆さんの心に抱いた願いまで神様のほうでまず答えてくださいます。ですから、すべての事に神様のみわざを体験して、食べるにも飲むにもただ栄光を現わすようになります。
きょうは「信仰の量り」十九番目の時間で、この間に続き信仰の四段階について語ります。愛する聖徒の皆さんは、きょうもみことばを通し、神様の前で「信仰がある」と認められる、まことの神様の子どもになられるようにお願いします。それで、祈ることはすべて答えられて、常に神様の祝福にとどまる皆さんになられますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、信仰の四段階に入った人は、心の罪と悪を捨てた霊の人であり、清い心の器が準備された人です。
しかし、ただ清い器が準備されただけでは、まだ完全だとは言えません。ただ心に悪がない状態でとどまるのではなく、心が完全な善でぎっしり満たされなければなりません。清い器の中に霊の内容物がぎっしり満たされて、真理の実が豊かに結ばれなければなりません。
そうする時、肉の痕跡も消えて、完全に主に似せられた全き霊の人になります。ことばと行いが主のように完全であり、すべての事に周りの人に恵みと徳を与えて、神様の最も喜ばれることが見分けられて、そのまま行うようになります。
<エペソ4:13>に、「 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあります。
また、<エペソ4:15>には、「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」とあります。
このようにキリストの満ち満ちた身たけにまで達するためには、霊の人々も訓練を受けるようになります。それなら、信仰の四段階から五段階に入るために、霊の人々が受ける訓練とはどんなものでしょうか?
三段階以下では、練られるとき、人の罪と悪により敵である悪魔が訴えて、サタンの権限の下で練られるように神様が許されるようになります。しかし四段階からは、練られても敵である悪魔・サタンの手に渡されて練られるのではありません。神様が直接練られて、心に残っている肉の痕跡まではいでくださり、完全な実で満たされるようにされます。神様がつかさどられる中で整えるべきことは整え、植えるべき真理は植えていかれるのです。
たとえば、旧約聖書<ヨブ記>のヨブは、正しく、神を恐れた人でした。しかし、心の悪まで捨てたのではなく、信仰の三段階の終わりに当たる人であり、神様の戒めを知っている限り熱心に守り行いました。
ところが、このヨブの深い心の中には神様に対する恐れがありました。「もし私に災いが来ればどうしようか?」という不安な心がいつもありました。
<第一ヨハネ4:18>に、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」とあります。
父なる神様の心を知らなくて父の愛を信頼できないために、このように心に不安と恐れがあるのです。恐れがあるという自体が、すでに完全な愛でなく、霊の心を成し遂げられなかったことがわかります。
ですから、ヨブが練られる時は、サタンが神様の前で彼を訴えて、神様が許されたので訓練が始まりました。ばく大な財産と子どもたちを一瞬にして失い、全身に悪性の腫物ができて苦しむようになり、妻はヨブを呪って離れてしまいました。
初めはヨブもよく忍耐して、神様の前で正しく行っているようでした。しかし、訓練の苦しみがますますひどくなり、自分の忍耐できる限界を越えると、ついに深く隠されていた悪が明らかにされ始めます。その悪が一つ一つ口からあふれ出たのです。
自分を生んだ両親を恨み、一緒に論じ合った人々を無視して悪を現わします。結局、「私は間違っていないのに、災いを下す神様は正しくない方だ」と、神様に敵対することばまで出すようになります。
行為的にはとても正しかったヨブでしたが、このように自分にも悟れないほど深く隠された悪があったので、この悪によりサタンがヨブを訴えて、災いをもたらすことになりました。
もちろん、聖徒がただ心に悪があることだけで災いにまであう、ということではありません。たとえ罪と悪を捨てられなかったとしても、それぞれの信仰の中で努力していっている時は、神様が災いにあわないように守ってくださいます。
しかし、ヨブは特別な場合です。このような試練を通して、ヨブの心の中に深く隠された悪が明らかにされてこそ霊に入れるので、神様はサタンの訴えを許されたのです。
ヨブはこの訓練を通して自分の悪を発見するようになり、徹底的に悔い改めて深い心の悪まで捨てました。行いだけで義を行う三段階の信仰でなく、心の罪と悪まで捨てて、四段階の信仰になると、この時からは前に比べて倍の祝福を受けました。
このように三段階のヨブが受けた訓練も、神様が許されて、彼を変えようとされた祝福の訓練でもあります。しかし、これはサタンに渡されて受けた訓練であり、神様が直接働かれる信仰の四段階の訓練とは違います。
敵である悪魔・サタンの権威は闇に属した権威なので、人に罪と悪がある時でこそその人を自分の権威の下でつかさどることができます。四段階に入った霊の人には、すでに罪や悪がないために、サタンが災いや病をもたらすことができないのです。
時には信仰の四段階で受ける訓練が、三段階の訓練と似ているように見える時もありますが、その訓練の過程や結果には明らかな差があります。
たとえば、ヨセフは訓練中でもいつも神様が共におられて栄えましたし、それを周りの人々も感じられました。神様が燃える炎のような目で彼を守られて、心をさらに完全に変化させて行き、肉的にも将来エジプト全土を支配する資格を一つ一つ備えるようにされたのです。
また、アブラハムが異邦人の地にいて訓練を受ける時も、いつも人々に尊重されて、無視されたり蔑まれたりしたことはなかったのです。さらに周辺の異国の王たちであっても、アブラハムを恐れるほどでした。
このように、信仰の四段階の訓練は神様がその人を保障されて栄えるようにされる中で、直接訓練されるが、完全になるために許される訓練です。
以前に、わが教会の主のしもべの中のひとりにも、全き霊に入るための訓練があることを、神様があらかじめ知らせてくださったことがあります。これはある罪と悪によるものではなく、その人が数多くの主のしもべと羊の群れの頭になれるように、大きな器を作られるためだと言われました。
その後、この主のしもべに来る訓練は、病気や災いのようなものではなかったのです。与えられた使命を果たしながら、教会的に大きい責任を担わなければならないこと、そうしながら魂たちと神の国のために、とても痛み悲しんで忍耐することが、まさにその人に与えられた訓練でした。とうてい理解できない人にも会って、理解できないことも体験するけれど、そうしながらも耐え忍ばなければならなかったのです。
また、さらに多くの魂たちを抱けなくて、より大きく、さらに多く栄光を返せない自分の足りなさを発見するので、大変痛み悲しむ時間も持つようにされました。
神様は罪を脱ぎ捨てた人々であっても、このような訓練を通し、真理の実が完全に結ばれるようにされて、全き霊の人々に変えて行かれます。
聖徒の皆さん、三段階と四段階の訓練の差をもう少しよく理解できるように、ダビデの例を通して説明します。
ダビデがまだ霊に入る前、王になった後に一つ罪を犯したことがありました。自分の過ちを隠すために、ウリヤという神様の民が異邦人の手に殺されるように仕向けたのです。これは罪を犯したことであり、明白な悪行です。
それで<第二サムエル12:14前半>に、預言者がダビデを責めるとき、「あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、」と言ったのです。
このことばどおり、ダビデは主の敵、つまりサタンに訴えられて、それからとても大きい訓練にあうようになります。バテシバが産んだ子が死んで、他の息子アブシャロムが反乱を起こしたため、いのちをおびやかされて追われなければなりませんでした。しかも民たちが見ている前でそばめたちをアブシャロムに奪われる恥も体験しました。
もちろん、ダビデは預言者が責めた時にすでに悔い改めていましたが、罪を犯したことに対しては、サタンの訴えを通し、試練と患難にあわなければならなかったのです。
このような訓練を通して、ダビデはより一層徹底的に低くなって、神様の前にふさわしい心に変えられました。これは霊に入る前のことであり、罪による訓練だったので、サタンの手に渡されて、ダビデに直接災いが臨んだのです。
ところが、長い歳月が流れた後に、霊に入ったダビデに神様はまた違う訓練を許されました。ダビデの心が動いて、イスラエルの人口を登録するようになったのです。人口を登録するということは、つまり戦争に出て行ける軍隊を調べることです。
ところが、このようにダビデが人口を登録すること自体が、わずかな間とはいえ、神様だけに頼らずに人の力に頼ろうとすることになってしまいました。
これを悟ったダビデは直ちに悔い改めましたが、すでに大きい訓練の道に入ってしまったのです。全イスラエルの地に疫病が下され、あっという間に七万人が死んでしまいました。
ところで、聖書でこのようなみことばを読むとき、ある人々は単純にダビデの高慢のために神様が懲らしめられただけだ、と思う場合があります。
しかし、皆さん一度考えてみるようお願いします。もし、このように軍隊の数を数えたことだけで大きい高慢の罪になり、災いにあって全国に疫病が下されるほどならば、はたして皆さんの中で、神様の前に大胆に生き残るほどの人がどれくらいいるでしょうか?
実際、これは王として十分に行いそうなことであり、ダビデが悪い意図を持ってしたことでもありません。ですから、人の立場で見るとき、「王が罪を犯した」と罪に定めるほどのことではありません。
しかし、完全である神様のほうでは、「あなたは完全に私にだけ頼らなかった、あなたは高慢だ」と仰せになれるのです。人のほうで見る時は悪とは言えないけれど、完全である神様のほうでご覧になるとき、「高慢」と言われることもあるという意味です。
まさにこういうものが、以前に説明したように、聖められてからも残っている「肉の痕跡」に当たるものです。それで神様は、この肉の痕跡さえなくして、ダビデを完全にするためにこの訓練を許されたのですが、実際、民に疫病が下された根本的な理由は、民自身の罪によって、神様の怒りを買ったためです。
それで、この事件を記録した<第二サムエル24:1>にも、「さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は『さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ。』と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。」とあり、神の怒りがイスラエルに向かって燃え上がったことがまず言及されているのです。
とにかくダビデは、自分の行いがきっかけになって民が死ぬのを見ながら、大変痛み悲しみ、自分の完全でない分野を悟り、徹底的に立ち返るようになりました。
このように、神様は民を懲らしめながら、ダビデへの訓練を重ねてなさったのです。それで訓練を受けたのですが、サタンがダビデに患難を与えたのでもなく、直接災いにあったのはダビデではなかったのです。むしろこのことがあって、神様はダビデの祭事を受けられたので、イスラエルの災いが終わり、相変らず彼を保障しておられることを見せられました。
このように、霊の人の訓練は決してサタンに渡されてではなく、神様が直接導いて働かれるのです。
もちろん、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めるサタンは、聖められた霊の人に対しても、何としてでも訴えることを探そうとします。それで、時にはサタンが悪い人々を操り、霊の人を苦しめて災いをもたらすように見えたりします。
しかしこの時も、その結果を見ると明らかに神様が許された訓練であり、神様がつかさどられる訓練であることがわかります。結局は神様が働かせて益としてくださるので、必ず祝福として返ってくるのです。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、三段階では自分の足りなさを発見して心の訓練を受けるとき、まかり間違えば自分の姿に対して気を落としたり、ますます肉の思いを働かしたりします。それで、むしろ祈りを休んでしまったり、使命も果たさずに放っておいたりする場合もあります。
しかし、霊の人は自分の足りなさを発見して、いくら痛み悲しんでも、最後まで勝ち抜くので、父の心を痛めることはありません。
そうだとしても、四段階の訓練が三段階より軽いとか簡単に勝てるという意味ではありません。大学入試と中学校入試では、問題の水準そのものが違うように、当然四段階の訓練のほうが三段階の訓練より大きいのです。
信仰の四段階では自分の完全ではない姿を発見したとき、神様をとても愛するために、その愛が大きいほど痛みも強く感じられます。「愛する父の前で私がどうしてこれしか成し遂げられなかったか?」「私がもっと完全でもっと大きい力があるならば、もっと大きく神の国を成し遂げられるはずなのに、もっと大きく栄光を返せるはずなのに」
こういう申し訳ない心がどれくらい押さえつけるのか、これは霊に入ってきて直接体験してみない人は、共感しにくい痛みです。何かの試練・患難や肉体の苦しみにあうよりも、より一層心が重く押さえつけられるのです。
そうだからといって気を落として座り込むのではなく、そうする時でこそより切に叫んで求め、より一層熱心に自分を献身させていくのです。
<第二コリント11:28>に、使徒パウロが主のために受けた数多くの苦しみを挙げたあげく、このような告白をしています。「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」
福音を伝えるために受けた使徒パウロの苦しみは、決して軽くはありません。ヨブの試練がいくら大きかったとしても、使徒パウロはこれよりより大きい苦しみを数えられないほどたくさん受けました。
しかしパウロは、そのすべての苦しみより、むしろ「日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」というのです。この告白一つだけでも、パウロが受けなければならなかった心の訓練がどれくらい重かったかを十分に察することができます。
しかし、四段階の訓練がいくら大きくて重いとしても、いざ訓練を受けている本人たちはそれを苦しいと言わないのです。心に悪がないほど、そして神様を愛する心が大きいほど、いくら大きい苦しみにも十分に勝つ能力があるからです。訓練により痛み悲しみ、大変な重荷を負っても、深い心の中では喜びと感謝が絶えず湧き上がるのです。
聖徒の皆様は何のために悩まれるでしょうか? 何を食べるか、何を着るか、心配されるでしょうか? でなければ、憎しみ、ねたみ、そねみ、憤り、姦淫などの罪と悪が捨てられなくて、悩んで痛み悲しんで求めるでしょうか? 現実的な困難と迫害のために、涙で祈られる方がいらっしゃるでしょうか?
しかし、父なる神様をまことに愛するなら、どんな事も重荷になりません。こういう肉のことはすみやかに脱ぎ捨てて、「どうすれば父にさらに喜ばれるのか? どうすれば父のさらに深い心を悟り、完全に聞き従えるだろうか?」こういう題目で悩んで祈るようになります。
愛する聖徒の皆さんは、毎日、信仰と愛と希望が増して、この地上のすべての日々をただ喜びと感謝で勝利するようお願いします。
また、父を愛して父に喜ばれるために父が報いてくださる愛と慰めのうちに永遠にとどまる皆さんになられますように、主の御名で祝福して祈ります。

 
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