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Title
   信仰の量り(15) - 信仰の4段階  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ロマ 12:3,ヨハⅢ1:2
Date
   2006-02-12


<本文>

<ローマ12:3>

「 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

<第三ヨハネ1:2>

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4、000余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげるすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。
ほとんどの場合、愛する子どもには何でも惜しまずに与えようとするのが親の心です。
ところがいくら子どもを愛するといっても、無条件に子どもが願うままには与えません。幼い子どもがいくら泣いて駄々をこねても、鋭い刃物やマッチのような危険な物を持って遊ぶように放っておくことはできません。悪い友達と付き合って誤った道に陥った子どもには、お小遣をたくさん求められても、あげにくいのです。その金をどこに使うのか、信じられないためです。
しかし、子どもが成長しながら、常に礼儀正しく育ち、親の信頼を得ているならば、どうでしょうか? 両親に能力さえあるなら、子どもが求めるとおり、いくらでもお小遣もあげて、してほしいといわれることもしてあげようとするでしょう。
神様の心も親の心と似ています。全知全能な神様は、子どもたちが求めることは何でも答えられることを願われるし、また十分おできになります。しかし、皆さんが求めることを何でも答えられるためには、まず、皆さんが神様に信頼される子どもになるべきです。
<第一ヨハネ3:21-22>に、「 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」とあるように、光の中にとどまり、暗やみと関係のない子どもにならなければなりません。
きょうは「信仰の量り」十五番目の時間で、この間に続き、信仰の四段階に入った霊の人々にどんな祝福が臨むのか語ります。
きょうもみことばを通し、完全に戒めを守って神様の前に喜ばれることを行い、信頼を得る子どもになられますように願います。それで、父なる神様が愛する子どもたちのために備えられたすべての祝福が、皆さんにあふれるまで臨みますよう、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、人が聖霊を受けて信仰を持つと、信仰の一段階、救われるための信仰になります。そして、神様のみことばを聞いて学び、熱心に行おうと努力し始めると、信仰の二段階に入るようになります。信仰の二段階では、時々みことばを破って真理に逆らう行いをする時もありますが、三段階では、それ以上真理に逆らう行いは出てきません。十分に神様のみことばどおり生きることができます。しかし、努力してみことばどおり行えるとしても、心の罪の性質まですべて捨てたのではありません。
心に残った罪の性質まで脱ぎ捨てて聖められるなら、この時からは信仰の四段階です。このような信仰の四段階に至ると、神様を、主をこの上なく愛するので、何の条件もなく愛して、世のどんなものよりも主をさらに愛するようになります。また、信仰の四段階に入れば、たましいに幸いを得ていて、御前に霊の人だと認められるようになります。
<第三ヨハネ2節>に、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」というみことばのように、霊の人はすべての点でも幸いを得、また健康である祝福を受けるようになります。
まず健康の祝福を受けて、病気や事故とかかわらない人生になるだけでなく、何でも大胆に求めるとおり答えられて、他の人のために祈ってあげる時も、神様のみわざが現れると説明しました。
また、信仰の四段階、霊に入ってくると、物質の祝福も豊かに臨みます。<申命記28:1- 14>の約束のみことばも、まさに霊に入った人に臨む祝福です。
<2節-6節>に、「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」と言われました。
また<12節>には、「主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。」とあります。
私は、主を受け入れていやされる前には、とても貧しかったのです。長い間病気で働けなかったので、生活費も稼ぐことができなくて、治療費が次々とかかったので、借金だけがますます増えました。
そうするうちに主を受け入れて、健康をとりもどしてからは、夫婦が熱心に働いてお金を稼ぎましたが、以前の借金があまりにも大きくて、元金どころか利息を返すこともギリギリでした。
そうするうちに私が霊に入った日から、物質の祝福を受け始めましたが、たった数ケ月で、その多かった借金をすべて返すほど収入が入ってくるのでした。
もちろん、霊に入る前に練られた期間も、必要なことを求めると信仰のとおり供給してくださり、一回の食事も欠けることはないようにしてくださいました。
しかし、霊に入った時点からは、まるで水を注ぐように祝福を注いでくださいました。<ガラテヤ6:7>に、「 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とありますが、神様は必ず蒔いた通りに祝福を与えられます。しかも一つ蒔けば一つだけ返してくださるのではなく、豊かな恵みの中で、あふれるまでに返してくださいます。
<ルカ6:38前半>に、「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」とあります。
器に穀物を入れるとき、押しつけ、揺すり入れて、ぎゅうぎゅうと押し込んで山盛りにすると、適当にいれて器の上を平らにした時と比べて、二倍程度は入ります。
このように、霊に入る前にも、信仰で蒔いて求める時は、二倍以上の祝福は与えられます。世の中の人々は、いろいろな事故や病気にあって、いつどんな損失をこうむるのかわかりません。ところが主の中で信仰で蒔くとき、予想していなかった損失をこうむることもなく、蒔いた通りに二倍以上の祝福を受けるなら、それも少ない祝福ではありません。
ですから一、二度蒔いて終わるのではなく、いつも信仰で蒔いていく人々ならば、常に増えていく神様の祝福を受けられます。
ところが信仰の四段階、霊に入ると、二倍以上だけを刈り取るのではありません。<マタイ13:23>に、良い地に蒔かれた種は、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ、と言われましたが、これは単に霊の祝福だけでなく、物質の祝福にもあたるみことばです。
良い心、つまり、霊に入った人は、一つを蒔いても30倍以上刈り取り、一歩進んで信仰の五段階、全き霊に入ると、60倍も、100倍も刈り取るようになります。肉で見ると祝福を受けるほどの道がなくて、特別な技術も才能もない人であっても、霊に入りさえすれば、祝福が臨む道を神様があらかじめ備えられて、そちらへ導かれるのです。
また、霊の人が受ける祝福は、その人と一緒にいる人々にまで臨みます。アブラハムと一緒だったロトが祝福を受けて、その持ち物がとても多くなったのと同じです。
<創世記12:3>で、神様はアブラハムに「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と約束されました。
もちろん、祝福の権威と呪いの権威が完全に臨むためには、全き霊に入らなければなりませんが、信仰の四段階、霊の人になっただけでも、一緒にいる人々に祝福が臨みます。
しかし、いくら霊の人と一緒にいても、その人自身が神様の前にふさわしくないなら、その人には祝福が臨まないことが神様の公義であることを覚えなければなりません。
愛する聖徒の皆さん、次に皆さんが霊に入ってくると、他の人を伝道しやすくなり、家庭の福音化もたやすく成し遂げられます。
<使徒の働き16:31>に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とあります。ひとりがクリスチャンらしく主を信じれば、それによって本人とその家庭まで救われる、というみことばです。
また<使徒の働き10章>に、御使いが百人隊長コルネリオに現れて、使徒ペテロを招くように指示します。この時も<使徒の働き11:14>に、「その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます。」とあり、御使いはコルネリオだけでなく、その家族が全部救われる祝福を約束しています。
するとコルネリオは親族や親しい友人たちを呼び集め、ペテロを招き、その時そこに集まったすべての人が福音を聞いて、聖霊を受ける恵みを体験しました。このようにコルネリオの一言でその親族や友人たちまでがすべて集まり、救われたことを見ると、コルネリオが普段、どんな生き方をしていたのか、十分推し量ることができます。普段一言を言っても、どれくらい真実で善良に言って、その行いがどれくらい美しかったでしょうか?
皆さんがコルネリオのように敬虔な人になるなら、家族と友だちなど、周りの人にどんな事を言っても信頼を得るようになり、そのことばにも力が加えられるのです。こういう人が伝道をすると、伝道することばも無視できないのです。
ですから、家族の救いのために祈る方々は、自分がどれくらい仕えと犠牲の手本になったのか、まず顧みるよう願います。まだ霊に完全に入ってこなかったとしても、このように皆さんが霊に入ってきている分、それで周りに恵みと徳を与えた分、家族が信仰の中に入っているはずでしょう。
ついに皆さんが霊に完全に入ってくると、その時はその分、霊的な権威が伴うために、家族だけでなく、だれかに伝道する時も敵である悪魔が妨げることができなくなります。
本来、「生きた者」として造られたアダムは、すべてを支配して従わせて治める権威がありました。その権威によって敵である悪魔・サタンも、アダムが守るエデンの園には近づくことができなかったのです。
アダムが罪を犯して肉に堕落した後に、人はこのような霊的な権威を失いましたが、皆さんが霊に入ると、この権威をまた回復することができます。ですから、伝道する時もサタンのしわざを遮って、さらに簡単に相手の心の扉を開けることができます。
愛する聖徒の皆さん、次に皆さんが霊に入るなら、聖霊に明らかに働きかけられて、完全に従うので、すべての事に栄える道にだけ導かれるようになります。
もちろん、三段階の信仰の岩に入っただけでも、真理を悟って神様のみことばの中で行っていく段階ですから、聖霊に働きかけられて、ほとんど栄えるようになります。
しかし、心自体が真理で満たされて、全幅的に神様にゆだねて頼る、そのような段階にはまだ至っていません。この時は聖霊の働きを受けるのですが、少しでも肉の思いが残っている分、100パーセント働きを受けるとは言えなくて、時々混同する場合があります。
たとえば、聖霊に働きかけられてあることを始めても、難しい問題にあうと、確信が揺れたりします。「私は本当に聖霊の働きを受けたのだろうか? でなければ私の思いから出たことなのだろうか?」――こういう疑問が生じる場合もあります。
しかし、信仰の四段階は心そのものが完全に真理に変えられて、みことばが完全に生活化されています。努力して真理で行う次元でなく、心そのものが真理に変えられているので、行いも自然に真理だけが出てくる段階です。この時は聖霊の働きも正確に受けて、聖霊の働きに完全に従うだけです。
また、あることを成し遂げるために、一度信じて祈ったら、その祈りが答えられる時まで、揺るがない信仰で忍耐します。
このように従順だけの人ならば、神様が明らかに働きかけていかれるだけでなく、知恵が足りない時は知恵を、悟りが足りない時は悟りを下さいます。
開拓以後今日まで、本教会を導いてくるとき、私は一瞬も自分の能力や知恵に頼ったことがありません。完全に神様を信じて祈り、ささいなこと一つまでも聖霊の働きに従っていったし、その過程でどんな苦しみにあっても、神様により頼む信仰が揺れることがなかったのです。
そうする時、神様がすべてを全幅的につかさどられ、あることを成し遂げるとき、一つ一つまでも摂理の中で正確に働いてくださることを常に体験できました。
霊の人が完全に神様にゆだねて行う時は、ひょっとして瞬間的な間違いで神様の御心とは違った道に行っても守ってくださり、その前に悪い人が掘っておいた落とし穴があっても、神様が直接介入なさいます。強権的にでも働かれて他の道へ回るようにされるか、あるいは穴をふさいでしまわれるなら、それでよいのです。でなければ、その穴に落ちるように見えても、むしろそれを働かせて益としてくださいます。
ですから<申命記28:7>に、「主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。」とあるように、いつも勝利して栄光をささげられるだけです。
また<13節前半>に、「主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」という約束どおり、どこに行っても認められる位置に上がれます。
<ダニエル1:20>に、「 王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった。」とあります。
ダニエルと三人の友だちは、異邦人の国に捕虜になっても、完全に神様の戒めを守りました。ですから、神様が大きい知恵と悟りを下さって、王に認められるようにされ、その大きい国でもかしらになれるように高めてくださいました。
しかも計略にかかり、火の燃える炉に投げ込まれたり、飢えたししの穴に入るようになったりした時も、頭の毛も焦げないように守ってくださったのです。
聖徒の皆さん、霊に入った人が受ける祝福は、一つ一つすべて説明することができません。しかし、この地上で受けるものよりさらに大きい祝福は、永遠な天国で受ける栄光です。
天国で信仰の三段階が入る二天層の生き方と、信仰の四段階が入る三天層の生き方とは、十分「天と地の差」と言えるほど、その栄光と幸せの次元が全然違います。何よりも信仰の三段階以下の人々は、天国に入るとしても、主の顔を拝見することができません。
<ヘブル12:14>に、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めるためには、信仰の四段階には至らなければなりません。心の罪をすべて捨てられずに霊に入れないなら、救われて天国に入ることはできると言っても、愛する主と父なる神様の顔さえ永遠に拝見することができないのです。その栄光の輝きによって、あえて目を上げて見ることができないのです。
それで、新しいエルサレムに住む人々の他には、特別に新しいエルサレムに招かれても、そのままでは入れないのです。新しいエルサレムの十二の真珠門を天使が守っているからでもありますが、もし守らないとしても、新しいエルサレムの光のため、入るなどとうてい思いもよらないのです。
天国では場所ごとに霊の体の光が違うため、特別に新しいエルサレムの祭りに招かれても、その光の差を克服するように備えられた、新しいエルサレムの衣を借りて着なければなりません。しかし着替えても、とても申し訳なくて、あえて栄光の主の顔に目を向けようとすることができません。昔の皇帝の前に出た民が、恐れ多くてあえて頭を上げられなかったようにです。
しかし、三天層の人々は、全家を通じて忠実な者になることには少し足りなかったとしても、心が聖められたので、主の顔を拝見することができます。
この一つだけ考えてみても、聖められた人とそうではない人との栄光がどれくらい違うのか、簡単にわかります。
その他にも、皆さんが天国について、少なくとも三天層以上に入ってこそ想像できることがたくさんあります。
それでは、霊に入った人が天国でははたしてどんな祝福を受けるのか、その詳しい内容は次の時間に語ります。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、世の中の人々は何かが思うとおりにならなければ、おもに他人のせいにします。環境のせい、条件のせいにして、気を落としてしまいます。
しかし実は、すべてのことは自分にかかっています。まず自分が霊に変わると、周りの人々が変えられて、神様が働かれて環境、条件も変わるようになります。自分が光に変えられると、闇は自然に退くので、もつれた問題があっても、平和と栄えに変わるのです。
ところが霊に入るとは、神様の働きをして、力を大きく現して、多くの人々の前に栄光を現すことだけではありません。
皆さんの状況の中で、すべての事に仕えて低くなり、相手の益を求める気配りができ、日常生活でささいな一言、行い一つでも美しくて善良に成し遂げること、これが霊に入った人のあかしであり、光と塩になって神様に栄光を帰することです。
冷たく傷つける言葉、ぶっきらぼうな言葉つき、真理に逆らう無益な話をした人が、へりくだって感動的な真理の話をする時に、周りの人々に感動を与えるようになります。
また、自分の益を求めて自分の立場で義を言い張っていた人が、相手を抱いて相手の益を求めてあげる時に、人々に認められ、愛されるようになります。人々は心から皆さんを愛するようになり、「私の妻が、夫が、あるいは私の両親や私の子どもが、主を信じてあのように変わったんだな」と言い、伝道をしても皆さんの願うとおりに聞いてあげようとします。
このように皆さんが変えられると、人だけが感動を受けるのではなく、神様も感動を受けられるので、皆さんのために働いてくださいます。ですから、すべての不可能が可能に変わり、すべての事に答えと祝福が臨むようになります。
愛する聖徒の皆さんは、すみやかに心の罪の性質まで全部脱ぎ捨てて、聖なる清い心を成し遂げるよう願います。
それで世の光と塩となり、すべての事で神様に栄光をささげて、毎日、神様の祝福を体験して生きる皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。

 
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