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Title
   信仰の量り(12) - 信仰の4段階  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ロマ 12:3
Date
   2006-01-15


<本文>

<ローマ12:3>

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

<序論>



愛する聖徒の皆さん、また、アメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、そして、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダなどアフリカ諸国と、全世界、全国の4000余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。

数多くの人々が主イエスを受け入れて信じているとしても、その信仰は人ごとに違います。
信仰が最も少ない「信仰の一段階」は、生まれたばかりの子どものように、主を受け入れて、聖霊を受けて救われた段階です。
それより信仰が大きい「信仰の二段階」は、神様を信じるために、そのみことばどおり行おうと努力する段階です。
たびたび、みことばどおり行えない時があっても、続けて努力するうちに、ますます行える能力が大きくなり、それで「信仰の三段階」に入ってくると、ある程度安定して神様のみことばを守り行えるのです。みことばの中に含まれた父なる神様の御心と愛を、一つ一つ悟っていく分、みことばどおり行うことが難しくて負担になるのではなく、習慣のように自然に行えるようになります。
このようにみことばどおり行う人が、心にある罪の性質自体も脱ぎ捨てるなら、信仰の四段階に入るようになります。四段階に至ると、神様が本当に願われる霊の人に入門するのです。
今日は「信仰の量り」十二番目の時間で、信仰の四段階のみことばを始めます。
愛する聖徒の皆さんは、語られるみことばを通し、すみやかに霊に、全き霊に入るよう願います。それで、皆さんのすべてにおいて全能なる神様のみわざを体験して、世の中に神様の栄光を現せますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、信仰の四段階は「主をこの上なく愛する信仰」です。もちろん信仰の三段階でも、主を愛すると言えます。
<ヨハネ14:15>で、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」と言われたように、戒めを守り行うので、神様を愛する、と言えます。しかし、まだ心の罪の性質まで捨てたのではないため、「主を愛します」と告白することが少しは申し訳ないのです。
きよい心で信仰の四段階に至ると、大胆に「主を愛します」と告白でき、神様もその告白を喜んで受けられるので、愛の告白をするとき、聖霊の感動を受けるようになります。
一つの例を通して、信仰の二、三、四段階を比べてみましょう。
<第一テサロニケ5:16-18>に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。
信仰の二段階では、このみことばを聞いて知っていますが、試練・患難にあうと、思わず喜べずに不平を言い、祈りを休んだりします。
しかし、三段階では、苦しいことにあっても、みことばどおり喜んで感謝できます。もちろん三段階の入り口では、訓練があまりにも耐えにくく思われるとき、心の底から喜んで感謝できなくて、時々「なぜこんな目にあうのだろうか」と苦しむ場合もあります。しかし、すぐこういう考えを退けて、みことばどおりに感謝して喜ぶのが、まさに信仰の三段階です。
そうするうちに、三段階の中盤以上になり、岩の上にだけ立っても、こういう思いはほとんどなくなり、心から喜んで感謝できます。
ここで一歩進んで、四段階の信仰になると、はなはだしい苦しみにあって、いのちが危ないことにあっても、心の底から喜びが湧き出るようになります。
ダニエルや三人の友だちのように、何の理由もなく苦しみを受けて、火の中に投げ込まれたり、獅子の穴に投げ込まれたりされても、神様にただ感謝をもって、祈って賛美できます。すべてのことを働かせて益としてくださる神様の愛を確実に信じるので、現実はいくら苦しくて見通しがきかなくても、心は常に喜んで幸せです。神様のみことばに従うこと自体が幸せで、神様の御心を行うこと自体が楽しいのです。
三段階がみことばどおり喜んで感謝すると言っても、四段階とは差があります。
たとえてみましょう。たびたび、ある人は善良で仕える心が大きくて、相手の心に安らぎを与えることを願い、相手が何かを要求すると、全部聞いてあげようとします。
ところが、相手があまりにも無理な要求をする時は、願うままに聞いてあげても、自分は苦しみを感じて、「とても大変だ」と思ったりします。
しかし、相手をこの上なく愛する時はどうでしょうか? 自分がとても苦しくてつらい立場であっても、相手を幸せにするためなら、水火も辞しません。高価なプレゼントをしても惜しくないし、共に夜を明かしても疲れないし、寒いところでも共にいるだけなら、寒くもないのです。相手を喜ばせようとする心だけです。
信仰の三段階と四段階の差が、まさにこういう違いです。信仰の三段階でも、神様を自分なりには愛して、みことばどおり生きる力はありますが、四段階はとても神様を愛するので、喜びでそのみことばを守り行うのです。
愛する聖徒の皆さん、皆さんが少なくても信仰の四段階に入って来てこそ、神様がこの地上に人間を耕作される目的を、ある程度成し遂げたといえます。この時からはまことに神様の子どもだと言えます。
ですから皆さんも、そのように霊を成し遂げて、全き霊を成し遂げようと慕い求めて走って行くのです。
ところが、ある人々は長い間信仰生活をしても、信仰の発展があまりにも遅いのです。数年過ぎても、十年過ぎても、相変らず信仰の二段階や三段階の入り口を越えられないのです。
しかし、ある人は初めに恵みを受けて以後、みことばを聞くとすぐ決断して、罪と悪を捨てていき、すみかに霊の心を成し遂げていきます。
アブラハムのように従順だけがあって、すみやかに完全な信仰の量になる人もいて、サライのようにアブラハムと共におられる神様のみわざをいつも見聞きして、共に体験しながらも、大きい信仰が持てない人もいます。では、こういう差はどこから出るのでしょうか?
その重要な理由の一つがまさに、各人の生まれつきの心が違って、生まれつきの器、心根がすべて違うからです。人ごとに心に非真理が多いのか少ないのか、また、どれくらい良い器で大きい器なのか、心根が正しくて美しいのかは、千差万別です。
これにしたがって、みことばへの慕い求めと、聞いたみことばを心に刻むこと、そして刻まれたみことばをどう行うのかが変わります。

それでは、今から信仰の四段階の説明に本格的に入る前に、四段階を成し遂げるのに大きい影響を与える心と心根、器についてまず調べてみましょう。
まず、心とは何でしょうか?
本来、アダムの心は、神様が与えられたいのちの種と、その種を包んでいる真理の知識で構成されていました。ところが罪を犯してからは、心の真理の知識が抜け出て、その代わりに真理にさからうもの、つまり、罪と悪が詰められました。
このように心に入れられた罪と悪が、その子孫にも受け継がれ、子孫はまた、生きていきながら、新しい罪と悪を自ら心に受け入れるようになります。
ですから人の心には、先祖から譲り受けた気質の中の悪と、育ちながら植えられて作られたものすべてが全部含まれています。心の悪が少ない人は、それほど捨てることが少ないから、聖潔も速く成し遂げられるのです。

次に心根とは、最も根本に関することで、心根によって「各人が本性的にどれくらい切実に善を追い求めるのか」が変わります。
まるで磁石でも、鉄を引きつける力が強いのと弱いのがあるように、心根が正しくて善良な人は、根本的に善、完全なことを慕い求めるので、真理を聞くと、すぐ「アーメン」と言って、心を尽くして聞き従うので、すみやかに聖潔を成し遂げていきます。
たとえると、土が肥えた良い畑なら、種を蒔くと、すぐ芽が出て育ちます。良い実もたくさん結ぶことができます。
しかし、やせた土には種を蒔いてもよく芽が出ないし、実を結ぶとしても良い実ではないのです。
もちろん畑が良い地であっても、よく耕されていなくて、土が固く締まって、雑草が生い茂っているならば、種を蒔いても、すぐに良い実を刈り取ることは難しいです。
しかし、農夫が耕そうとするなら、やせた畑よりは肥えた畑のほうが、雑草やいばらを抜き取ることも簡単です。
これと同じです。ある人は、心根は良く生まれたのに悪くて苦しい環境で育ち、心に真理に逆らうものがたくさん入力された場合があります。
これは、雑草の多い畑のようなもので、練られて罪を捨てる過程が必要ですが、心根が良い人は、同じく真理に逆らうものを持っていても、聖められようとするなら、それだけさらに簡単に決断して捨てていくのです。
人の目には、悪くて荒いようですが、神様は心根の良い人は将来どう変えられるのか、ご存じですので、訓練を通して清くされて、尊く用いられるのです。
たとえば、ペテロのような場合です。人が見る時は、気が短くて叫ぶことが好きで、いろいろな短所が多いけれど、イエス様はその心根をご覧になって、ペテロを召され、結果的にペテロは、イエス様の一番弟子で、御力を現す使徒に変えられたのです。

次に器とは、人の心を入れているもの自体であり、本来の自分の姿そのままを言います。
器の材質が何か、つまり、金の器なのか、銀の器なのか、あるいは土の器なのか、これらがその心根に緊密に関わるとするなら、器の大きさは、どれくらい真理に属したものを、その中にどれほど多く入れるのかに関わります。
心根と器とは、概して緊密な関係があります。まれに、心根のほうが特別に良くて、器のほうが特別に大きい場合もありますが、ほとんどは、心根が良い人は、器もその分大きくて美しいし、器が大きくて良い人は、心根も正しくて美しい場合が多いです。
器が大きいと、気配りがそれほど豊かで、一つの真理を聞くと、その一つだけでなく、より多い分野で完全に真理で行えます。「一つ聞けば十わかる」という話のように、神様のみことばを聞く時に、文字的に制限して聞くのではなく、根本的にその中に含まれた神様の心まで理解して聞き従おうとするからです。
愛する聖徒の皆さん、器が大きくて良い人は、みことばを聞くと、その御旨を心で受けられます。こういう人はみことばをそのまま心に耕して、信仰がすくすく成長します。
しかし、ある人はみことばを心で受けるのではなく、まず頭で受け入れます。頭で考えて是非を問い、自分の思いの中で受け入れられるだけ、心に耕そうとするのです。すると自分の枠と義に合うみことばだけを受け入れるので、信仰の成長が遅くなるしかありません。
みことばをたくさん聞いて習ったとしても、むしろそれによって心が高まって、自分の義と枠がさらに固くなってしまったりします。
一つ、例をあげてみましょう。「人を自分よりもすぐれた者と思いなさい、へりくだって仕えなさい。」というみことばを頭で受ける人は、いろいろな考えを働かすようになります。相変らず心には、自分がさらにすぐれていて、相手の足りないことが見えるけれど、「仕えなさい」というみことばを聞いたので、どうすればよいのか、計算をするようになります。自分の心の中に高ぶりはそのまま置いて、表面的に相手に仕えたと言えるような行いを探します。
「この程度までしてやれば仕えると言えるだろうか? そこまでする必要はないのでは?」このようにいつも計算して考えなければならないので、どれくらいわずらわしいことでしょうか?
こうして自分の立場では熱心に仕えたとしても、相手にはむしろ負担になって、気まずく感じられることもあります。
その心自体が低くなって仕えたのではないために、仕えられる方でも相手の真心が感じられなくて、仕えられることがむしろ気まずくなって心苦しく、その人の心に宿れないのです。
神様のみことばを心で受けて、心から自分を低くしようと努力する人は、「どうすれば相手に仕えることなのか」と、考えを働かせて悩む必要がありません。
心の姿勢が低くなると、ことば一つ、行い一つが自然にへりくだるようになり、相手の立場を尊重して配慮する姿勢になるからです。
そうなると皆さんがあえて「どのように仕えるのか」と、思いの中で悩んで努力しなくても、相手は皆さんに向かうだけでも安らぎを感じて、休むようになります。
心根と器について、もう少し理解しやすいように、日常的な比喩を一つあげましょう。
両親が子どもたちに、「部屋が汚いから片付けなさい、物をどこにでも置かないで、もとの場所に置きなさい」と言うと、子どもによって反応が違います。
ある子どもは「私が汚したんじゃなくて弟がしたよ」と言って、テレビを見ているだけです。そうしながらも、「自分が間違ったのでないから、親に従わないことではないだろう」と思います。
ある子どもは、このように言われると、目に見える所の散らかした物だけを取って、よく見えない所に適当に押し込みます。そして「片付けたので、親に従った」と言うのです。こういう場合は、両親の言うことにやむを得ず従うふりはしましたが、両親の心が何かは思わずに、その心に受けてもないのです。
これよりちょっと良い子どもは、散らかした物を片付けて、きれいに掃除をします。けれども、時間がちょっと過ぎて部屋を見ると、また散らかされて汚くなっています。
このように、両親に従うこと一つだけを見ても、子どもたちの器によって、従う行いがとても違います。
かりに、両親の言うことに本当に従いたい心根であり、器が大きくて美しくて、両親のことばを心で受けるなら、どうするでしょうか? 目に見える所だけあらまし片付けるのではなく、見えない所まで、すみずみをきれいに掃除するはずです。それだけなく、その日以来、常に部屋をきれいに維持しようと努力するようになります。
「掃除しなさい、片付けなさい」ということばの裏には、見えない部分まできれいにするように願い、その時だけでなく常にきれいにしなさい、という意図があることを悟って、その旨を心で受けて従うのです。一歩進んで、家だけきれいにするのではなく、自分の習慣自体を変えて、整理整頓する人、清潔な人に変えるのです。
すべての事に同じです。皆さんの姿を一度顧みるよう願います。
普段、他の人の話を心で受けて、ささいなこと一つでも、真実で忠実に行う人は、神様のみことばを聞く時も心で受けて、すぐその御旨を敬って聞き従えるのです。
そうでなくて、自分の立場だけで考えたり、その場の叱責を避けようと目隠しだけするような人は、神様のみことばを聞く時も、同じようになりやすいのです。
たとえ心と心根、器が生まれつきのものであっても、皆さんがどれくらい善を成し遂げるために努力するのか、また、すべての事にその心をどのように大きく使うのかにより、心の器と心根が変えられるのです。そのように変えられる分、聖められる速度もますます速くなります。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、<第二テモテ2:20-21>に、「 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」とあります。
明らかに心と心根、器は生まれつきの部分が大きく、それによって聖められる能力に差があるのは事実です。
しかし、神様がこういう深い内容を知らせてくださった理由は、「私はこのように生まれたので、仕方ない」とあきらめなさい、という意味ではありません。
たとえば、高麗青磁は土で作られた器ですが、匠(たくみ)の手によって火で焼かれた結果、その価値が大きく変わります。
同じように、主にあって、訓練を通して、罪と悪を脱ぎ捨てさえすれば、どんな人でも尊いことに使われるのです。金の器であろうが、銀の器であろうが、器が大きかろうが、小さかろうが、重要なのは、自分が自ら努力して、自分の心の器をきよめていくことです。
心根がどれほど正しくて美しいのかによって、善なるものを慕い求める程度が変わり、自分のこととして受け取っていく速度が変わりますが、結局この心根というのは、心が固まったものです。
ですから、皆さんが心に善を積んで、また積んで、真理の心に固めていくなら、結局、良い心根に変えられるのです。
また、自分の生まれつきの器が小さくても、こまめに罪と悪を脱ぎ捨てるほど、さらに人に仕えるようになり、御父を愛してもっと多くのことを抱こうとするので、それだけ器が大きくなるのです。
もし、こういうみことばを知らないなら、罪を捨てるべきことも、心根と器が何かも知らずに生きていくので、生まれつきのものから大きく抜け出すのは難しいのです。
しかし、皆さんは聖潔のみことばを通して、心と心根と器が変えられるべきことを学び、また、心根と器の良い人は、同じ状況でどう行うのかを悟り、そのように行おうと努力することができます。
ですから、毎瞬、さらに善なるもの、さらに徳になるものを自ら選び、行おうと努力していく時、こういうみことばを聞いていない人より、もっと簡単に聖められます。
皆さんは、神様のみことばをさらに切に慕い求めて、みことばを聞く時、さらに器を広げて、その中に含まれた御心を完全に悟ろうと努力していかれるように願います。そうする時、神様が恵みと力を下さり、神様の御霊が皆さんを助けてくださいます。
愛する聖徒の皆さんは、このように助けてくださる聖霊の御力の中で、毎日より良い心根に、さらに尊くて美しい器にすみやかに変えられていきますよう、主の御名で祈ります。

 
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