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Title
   信仰の量り(3) - 天の御国は、激しく攻められています  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   マタ 11:12,13:31-32
Date
   2005-10-23


<本文>

<マタイ11:12>

「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」

<マタイ13:31-32>

「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエルなど、全世界と全国の3800余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。
きょうは「信仰の量り」三番目の時間です。
私たちが信仰を持って信仰生活をする理由は、救われて天国に入るためです。信仰の量りについて学ぶ理由も、結局、より大きい信仰を持って、より良い天国に入るためです。
今日の本文<マタイ11:12>に、 「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と言われました。
天国は光である神様の国です。敵である悪魔・サタンは近づくこともできない光の領域です。では、あえてだれが天国を激しく攻めて、どのように天国を奪い取る、というのでしょうか?
これは、天国に神様に敵対する者がいるとか、戦争があるという意味ではありません。救われた神様の子どもたちが、信仰によって天国に入って、全き信仰に至る過程を説明しているのです。
すべての人は罪のために地獄に行かなければならないのですが、イエス・キリストを信じると、だれでも救われて天国に行けます。しかし、敵である悪魔・サタンは、何としてでも人が福音を信じられないように妨げます。すでに主を受け入れた人であっても、惑わして罪を犯させようと、虎視耽々と機会をねらっています。聖徒は、この敵である悪魔・サタンと戦って勝ち、天国を奪い取らなければならないのです。
きょうは、皆さんがどうすれば天国を激しく攻めて、奪い取ることができるのか、そして、皆さんが激しく攻めていくべき天国とは、果たしてどんな所なのか、語っていきます。
愛する聖徒の皆さんは、みことばを通し、十分に天国を激しく攻めていくだけでなく、最も良い天国を奪い取る皆さんになられますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん。皆さんが悪い霊どもと戦って勝ち、信仰によって天国を激しく攻めていくと、さらに良い天国を奪い取ることができる、と言いました。ところが、天国が激しく攻められているのは、「 バプテスマのヨハネの日以来今日まで」とあります。
バプテスマのヨハネは、イエス様の道を備える人として、イエス様が救い主の働きを成し遂げられるように、イエス様をあかしする使命を任されました。
このように、「 バプテスマのヨハネの日以来今日まで」とは、結局、イエス・キリストの時代であり、信仰によって救われる新約時代を意味します。
では、新約時代には、どのようにして信仰によって天国を激しく攻めて、奪い取ることができるでしょうか? これを説明する前に、新約時代と旧約時代の救いの基準について、簡単に調べてみましょう。
バプテスマのヨハネ以前、つまり、旧約時代は、律法の時代です。この時代は律法の行いによって救われました。律法を一つ一つ守り行わなければならず、守れなくて罪を犯したら、罪のためにいけにえをささげて、初めて赦されました。
しかし、イエス・キリスト以後の新約時代は、「聖霊の時代」、あるいは「恵みの時代」と言います。今は律法どおり、罪のためにいけにえをささげなくても、主イエスを信じれば救われるからです。尊い血のいさおと聖霊の力で、罪が赦されて救われます。
ところが、このように「旧約は律法の時代で、今日は聖霊の時代だ」と言うと、これを大変誤解する人々がいます。つまり、旧約時代は行いで律法を守ってこそ救われるが、新約時代には罪を犯してもかまわない、と思います。口だけで「信じます」と言うと、罪を犯しても赦されて救われる、と思うのです。
しかし、これらは、間違った考えです。旧約で「行いによる救い」とは、たとえ心に悪があっても、行いだけ罪を犯さなければ、「罪がある」と定められない、という意味です。
反面、新約では、行いでは罪を犯さなくても、心に悪を抱いたことそのものが、すでに「罪」だと言われています。兄弟を憎むとすでに人殺しであり、むさぼる者は盗む者と同じ罪人です。まして、行いで罪を犯すなら、より一層大きい罪になります。
<ガラテヤ5:19 -21>に、「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。「肉の行いをする者」、つまり、行いで罪を犯す人々が、神の国を相続することはない、というのです。
その他にも、旧約や新約、聖書の所々に、行いで罪を犯す人は、神様と関係がないと、警告しておられます。本当に救われる信仰があるなら、行いによる罪はもちろん、心の悪までも捨てなければならない、ということが、今日、私たちに向かった神様のみこころです。
それでは、旧約時代より新約時代の人々のほうが、救われるのがもっと難しいでしょうか? そうではありません。
旧約時代には、人は自分の意志と努力で、罪と犯さず律法を守らなければならなかったのです。しかし、新約時代には、自分の力でなく、聖霊の御力で罪を捨てることができるからです。
<ローマ10:10>に、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。心に本当に信仰がある人は、必ず律法を守り行うようになります。聖なる神様がお父さまになる、ということを信じて、イエス様が自分の罪のために十字架を背負われたと信じるなら、当然、罪を捨てようと努力します。
聞いて知識として知っているだけでなく、まことに十字架に含まれた愛を信じるなら、神様が喜ばれるとおり律法を行って、正しい人になっていきます。
悪を行った人が善を行います。だまして盗んだ人が、正直な人になります。憤り、怒った人が、長く忍び、柔和な人に変わります。自分の人格と身につけた教養があって、行いだけで罪を犯さない水準でなく、心の罪の性質自体を捨てて、正しく変えられるのです。
人は自分の力で変えられるのではありません。イエス・キリストの血のいさおで可能になり、私たちを助ける聖霊の御力で可能になることです。
たとえば、世の人々は、タバコをやめることもとても難しい、と言います。やめよう、と何度決心しても、しばらくしてまた吸うことがどれほど多いでしょうか?
しかし、聖徒の皆さんのあかしを聞くと、前は酒やタバコの中毒だった方でも、主を受け入れてからは、聖霊の働きを受けるので、酒、タバコの臭いさえかぎたくなくなった、と言います。とても簡単にやめることができたそうです。
このように、信仰で主を受け入れて、罪を捨てようと努力していくと、聖霊の力が臨み、行いによる罪はもちろん、心にある罪の性質まで捨てるようになります。それで、ますます主に似せられた(コロサイ3:10)清い心に変わっていきます。
このように神様に助けられるので、新約時代は、信仰によって救われて罪を捨てることが、決して難しくありません。イエス・キリスト以前の旧約時代には、聖霊を受けなかったので、心の罪までは捨てることができず、したがって、天国を激しく攻めていくことができなかったのです。
もちろん、アブラハムやモーセのような信仰の人々は、将来来られる主を信じて、より良い天国を激しく攻めていきましたが、そのような人々は心がとても良い人々で、極めて少ないのです。
ですから、聖霊を受けて、心の罪を捨てて、信仰の量りに応じて、さらに良い天国を激しく攻めていける新約時代の私たちは、もっと幸いです。
愛する聖徒の皆さん。約2000年余り前にイエス・キリストが来られた時から、信仰によって救われる「恵みの時代」が始まりました。
ところが、私たちが天国を激しく攻めていくということは、単純に、地獄に行かず天国に入ることだけを意味するのではありません。天国もいろいろな段階に分けられていて、相対的により良いところがあり、だからより良い場所を慕って激しく攻めていく、ということを意味します。
もちろん、天国は、最も低い場所であっても、皆さんが想像できないほど幸せで美しいところです。罪もなくて、悲しみも、苦しみも、死もないのです。永遠に変わらない、永遠に朽ちないところ、愛と平和と喜びだけがある所です。この地上のいくら美しい自然景観も、天国の環境とは比べられず、この地上のいくら豪華な宮殿でも、天国の家とは比べられないのです。
まず皆さんが天国について覚えるべきことは、天国が私たちの目に見える天の上にあるのではない、ということです。人が宇宙船に乗って、天の上にずっーと上がって行けば、いつかは天国が見られるでしょうか? そうでありません。
天国は見えない霊の天に属していて、霊の天とは、この肉の天と次元が違う領域です。霊の天もまた、いろいろな天に分けられます。
<ネヘミヤ9:6>に、「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」とあります。
また<第一列王記8:27>でソロモン王も、「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」と言いました。
「天も、天の天も」、つまり、天が一つでないことが、聖書の所々に記録されているのです。
特に<第二コリント12:2>には、使徒パウロ の霊が、「第三の天」にまで引き上げられた、とあります。「第三の天」があるなら、当然、「第一の天」「第二の天」があり、それ以上の天も存在しうるということです。
このようなそれぞれの天については、「創世記講解」で詳しく説明しました。いろいろな霊の天の中でも、パウロが言う「第三の天」が、まさに「天国がある天」のことです。
そしてまた、<第二コリント12:4>には、「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」とあります。つまり、「第三の天」の中でも、使徒パウロ が見た場所は、「パラダイス」でした。では、パラダイスとはどんな所でしょうか?
<ルカ23:43>で、イエス様がひとりの強盗に、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われる場面があります。
この強盗は、イエス様が十字架の処刑を受けるとき、同じ場所で十字架の処刑を受けた人です。十字架にかかって死ぬ直前、最後の瞬間に彼は主を受け入れました。かろうじて救われる信仰は持ちましたが、直ちに死を迎えたので、みことばどおり生きることもできず、神の国に忠実だったことがないので、報いもありません。
このように、主を受け入れてかろうじて救われる信仰を持った人の場所が、まさにパラダイスです。天国でも最も低い段階の天国です。
イエス様が「わたしとともに」パラダイスにいます、と言われましたが、これは、主がおられる天国の場所がパラダイスにある、という意味ではありません。主はパラダイスだけでなく、すべての天国の主人なので、パラダイスに行った強盗も、主とともに、すなわち、天国にいる、ということを説明されたのです。
また、<黙示録21章>には、使徒ヨハネが見た天国の聖なる都、新しいエルサレムが描かれています。十二種の宝石の土台石がある、輝く栄光の城として描かれています。ここは天国でも最も栄えある場所です。神様の御座があり、みことばをすべて守って、心に耕して、大きい信仰を持った人々がいる場所です。
このような「新しいエルサレム」と、「パラダイス」の間にはまた、さまざまな段階に分けられた場所があります。
たとえば、「アメリカ」という一つの国の中にも、大統領がいる首都を中心として栄えている大都市があります。それより規模が小さい、中・小都市があるかと思えば、都心から遠く離れた山間地や島などもあります。
天国も、神様の御座がある新しいエルサレムを中心として、場所が分類されます。神様が私に教えてくださった時は、天国を五段階に分けて、説明してくださいました。もちろん、五段階以上に詳しく分けることも、もっと単純に分けることもできますが、私たちが最も理解しやすいように、五段階で説明してくださいました。
最も低い段階である「パラダイス」と、最も上の「新しいエルサレム」があって、その間に一天層、二天層、三天層があります。皆さんがその中のどこに入るのかは、皆さんの信仰によって決められます。
救われた子どもたちを惑わす敵である悪魔・サタンをはね除けて、血を流すまで罪と戦って捨て、真理の心に変えられるほど、より良い場所に入る資格を得るようになります。皆さんの信仰がこのように大きくてなっていくと、より良い天国に入る資格を備えるようになります。これがまさに、「天国を激しく攻めていく」ことです。
きょうの本文<マタイ13:31-32>でも、このように激しく攻めていく天国について、イエス様がたとえで説明しておられます。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
からし種は、種の中でも小さい物で、白い紙の上にペンで点をつけた大きさです。始めに救われた聖徒の信仰は、小さなからし種ぐらいにしかなりません。しかし、その種を自分の畑に、つまり、自分の心の畑に蒔いて熱心に育てると、大きくなって風雨にも揺るがない木のように大きい信仰に育つようになります。
大きい木には多くの鳥が来て休むように、信仰が大きい人は、多くの魂を抱けます。信仰が弱い人々にいのちを植えることができて、霊的に休ませることもできます。このように、心に多くの魂たちを抱けると、それほど心が大きくて広いということであり、天国ではその心が広いほど、もっと広くて良い場所にとどまるようになります。ですから、<マタイ5:5>にも、「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」と言われたのです。
愛する聖徒の皆さん。私は初信者の時から天国を慕い求めて、天国についていろいろ想像をしました。ところが、私が数え切れない祈りをささげたあげく、神様が天国について教えてくださると、以前の想像が何の意味もないことを悟りました。この地上でいくら良いこと、いくら美しくて華麗で幸せなことを想像しても、天国とは比べられなかったのです。
世の中でとても美しいところを見ると、しばしば「地上のパラダイスだ」ということがあります。ところが、天国で最も低いパラダイスであっても、この地上で最も美しいところより、はるかに美しいのです。
しばらくとどまるこの肉の世界も美しく造られた神様は、将来愛する子どもたちと永遠にとどまる天国を、どれほど美しく造られたでしょうか? しかも、一天層はパラダイスとは比べられないし、二天層は一天層と比べられないほど良い所であり、三天層と二天層は「天と地の差がある」ほどです。
ですから、神様の御座がある新しいエルサレムの栄光は、いったい人のことばですべて説明できるでしょうか? 天国では、踏んで通う道でさえ純金で、神様の御座から流れ出るいのちの水の川には、金の砂、銀の砂が敷かれています。宝石のように輝いて澄んだ水には、五色の魚が泳いで、花びら一つ、草の葉一つを見ても、その清らかさと香りはこの地上のものとは比べられないのです。汚染されることもなく、老いたり朽ちたり死んだりすることもありません。天使が皆さんを主人として仕えて、甘美な音楽と演奏を聞かせてくれたりします。
三位一体の神様と、愛する人々とともに、ことばにできない幸せを味わい、永遠にとどまるようになります。特に、新しいエルサレムに入った神様の子どもたちは、世の中のどんな権勢ある皇帝も受けられない、栄光と栄華を受けて生きます。
使徒パウロは天国のパラダイスを一度見て、大きい希望を持ち、主のために数え切れない苦しみを受けながらも、喜びでその道を歩むことができました。
皆さんも、天国について明らかに知るようになると、まことにこの地上のことがむなしい(伝道者1:14)とわかります。世の欲とむなしい情欲をすべて捨てて、ただみことばどおり自分を変えて、良い天国だけを激しく攻めるために走って行きます。
神様が天国について私に教えてくださった内容は、『天国』という本の中に詳しく書きました。『天国上・下』は、2005年現在、韓国語はもちろん、スペイン語、英語、中国語などで翻訳、出版されていて、多くの人々がこの本を通して天国の希望があふれるようになった、と感謝を伝えています。天国を慕い求める皆さんは、必ずこの本を読んでみるようお願いします。それで、天国への希望をより一層大きく持つように願います。

<結論>

愛する聖徒の皆さん。今、皆さんが天国に行くようになると、どんな場所に入れるでしょうか? 今後、パラダイスに入る信仰の一段階から始めて、新しいエルサレムに入る五段階まで、それぞれの段階について詳しく説明していきます。それによって皆さんの信仰をさらに正確に顧みることができるでしょう。
しかし、今は自分の信仰が少ない、と気を落とす必要はありません。天国の場所は、皆さんの耕作が終わる瞬間に決定されるからです。まだ信仰が小さい人でも、今から熱心に天国を激しく攻めていけば、結局は新しいエルサレムに入ることもできます。
反対に、今は一天層や二天層に入る信仰であっても、今後、心の割礼を怠るなら、むしろ信仰が後退して、結局はパラダイスに行くか、ともすると救われないこともあります。
それで、<ピリピ2:12後半>には、「恐れおののいて自分の救いを達成してください。」とあり、<第一コリント10:12>には、「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」と言われました。
愛する聖徒の皆さんは、天国を切に慕い求めて、すみやかにもっと大きい信仰を成し遂げるよう願います。歳月を大切にして、怠りなく天国を激しく攻めていき、最も良い天国を奪い取って入る皆さんになられますように、主の御名で祈ります。

 
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