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Title
   信仰の量り(1) - 肉の信仰と霊の信仰  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヘブ 11:1-3
Date
   2005-10-02


<本文>

<ヘブル11:1-3>

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトなど、全世界と全国の3600余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。

イエス・キリストを救い主として迎え入れた私たちは、信仰で罪の赦しを得て救われました。霊である神様が生きておられるという事実と、天国と地獄が存在することも、信仰で知ることができます。私たちが救われて天国に行くのも、信仰で行くのであり、神様に祈って答えられるのも、信仰で受けることです。
このように、信仰はとても重要なものです。
ところが、多くの人々が「神様を信じる」と言いますが、信仰で神様のみわざを体験する程度は、人によって差があります。
ある人は信仰が大きくて、何でも祈ることにすぐ答えられるだけでなく、他の人のために祈ってあげた時にも、神様のみわざが現れます。
ある人は「神様を信じる」 と言いますが、問題が起こったとき、答えられない場合もあり、まったく初めから、神様に頼ろうと考えることもできなくて、世の方法を使う人もいます。
ある人々は「私は救われた」と思っているのに、深い心の底では確信がないので、来世への恐れがあります。
また、自分ははっきりと信じているようでも、なぜ聖書のみことばどおり答えられないのか、気になる人もいます。
したがって、皆さんが満たされた信仰生活をするためには、まず、「信仰とは何か」を正しく知らなければなりません。
また、救われる信仰を持っていても、人によって体験する信仰のみわざが違い、信仰の量が違うことを悟らなければなりません。
それで、きょうからは、大礼拝の時間に、「信仰の量り」について語ります。
「信仰の量り」のメッセージを通して、私たちが救われる真の信仰、答えられる霊の信仰とは何か、どうすればより大きい信仰を持てるのか、詳しく説明していきます。
これからお聞きになるみことばを通して、皆さんの信仰を顧みて、必ず霊の信仰、大きい信仰を持つように願います。それで、生きておられる神様のみわざを毎日体験する皆さんになられますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん。今から「信仰の量り」、その1番目のみことば、「肉の信仰と霊の信仰」について語ります。
信仰は何にも比べられない宝の中の宝であり、世のすべての問題を解決する鍵であります。
人の力と能力では不可能なことも、全知全能の創造主である神様には可能です。聖書には、空の太陽と月さえ止めたり、葦の海を分けたり、戦争に勝利したり、死んだ人を生かしたりなど、不可能が可能になることが、数え切れないほどあります。
このように、神様が全知全能なので、病気とわずらいのいやしも、家庭と事業場の問題の解決も、信仰さえあるなら難しくありません。
ここで重要なのは、必ず真の信仰があるべきだ、という事実です。いくら口では父なる神様を呼んで、「主よ、信じます」と祈っても、真の信仰がなければ、神様のみわざを体験することができません。
今日、教会に通う人はたくさんいますが、その中には信仰の意味さえよく知らない人々が多いのです。「信じます」とは言っても、救いの確信もなかったり、世の人と同じように、病気とさまざまな問題で苦しみ、試練、患難の中で生きていたり、祈っても答えを受けられない人々が多いのです。
私たちのイエス様は明らかに<マルコ9:23>に、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。また、<マタイ8:13>には、「あなたの信じたとおりになるように。」と言われました。
聖書に記されたみことばは、100パーセント真実であります。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われたら、本当にどんなことでもできるのであり、信仰で祈ったなら、必ず祈りの答えを受けなければなりません。
「信じます」と言って祈ったのに、答えられないなら、この時は自分の信仰が真の信仰であるのか、顧みなければなりません。
<詩篇37:4>に、「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあります。また、<ヘブル11:6>には、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とあります。
皆さんが信仰によって神様に喜ばれるなら、神様は皆さんの願いを何でもかなえてくださいます。神様に喜ばれる方法は、まさに信仰であります。
この時の信仰は、神様に認められる「真の信仰」でなければなりません。多くの人々が自分では「信じます」と言いながら、神様のみわざを見ることができないのは、その信仰が御前に認められる、「真の信仰」でないからです。
信仰にも、神様に認められて答えられる真の信仰、つまり、「霊の信仰」があり、神様が認められない「肉の信仰」があります。
愛する聖徒の皆さん。では、「肉の信仰」とはどんな信仰で、「霊の信仰」とはどんな信仰でしょうか?
まず「肉の信仰」について調べてみましょう。
「肉の信仰」とは、第一に、目で見て確認できること、自分の知識と考えに一致することだけ信じる信仰です。これは救いや信仰の問題と関係なく、世の人々も持てる信仰です。
たとえば、「このおしぼりは白いです」と言ったとき、白いことを確認した人々は、だれでもこの話を信じます。「木で椅子が作れます」と言っても信じます。自分が生まれてから今まで学んで受け入れた知識と一致するためです。
ところが、皆さんの中にある方が、幼い頃から「このおしぼりの色は白でなくて黒い」と習ってきたとしましょう。すると、その方は「これは白です」と言っても、信じられないのです。自分の持っている知識と合わないからです。
このように、自分がどういう知識を受け入れたかにより、時にはまことを偽りだと思うこともでき、反対に、偽りをまことだと思うこともできます。
ところが、皆さんが正しいとして習ってきた知識は、すべてが真理ではありません。世の中には、いくら「真理」として知られていても、歳月が過ぎれば変わるものがあまりにも多く、国と民族、地域や、個人でさえ、「真理」と思う知識や、「正しい」と思う価値の基準が大きく違います。
ただ神様のみことばだけが、永遠に変わらない絶対的真理です。
やさしい例ですが、昔は、地球は丸くなくて平たい、また、地球が太陽を回るのではなく、太陽が地球を回ると学びました。その当時の人々は、これが真理だと思いましたが、今はこれを真理と信じる人はいません。
このように、今、皆さんが学んだ知識の中でも、あまりにも多くの部分が真理でないのです。ところが、人々は幼い頃からある非真理を真理だと教わってきたら、それが真理だと堅く信じてしまいます。
こういう状態では、だれかが真理を知らせてあげても、自分の知っている知識と合わなければ、むしろその真理を非真理と考えるようになります。
今日、福音を聞いても、創造主なる神様を信じられない数多くの人々が、このケースにあたります。幼い時から「進化論」という偽りの理論を「真理」だと学んできたので、真理である「創造」を教えてあげても、信じないのです。
進化論は決して真理ではなく、人々の考えの中で編み出した誤った理論です。
いくら数千万年、いや数億万年が過ぎても、魚は陸の動物にはなれず、類人猿が人になることもできません。
しかし、それが可能だと学んできた人々は、進化論は真理だと堅く信じるのです。それで、「創造主なる神様がみことばで天地を創造された」と言うと、真理から外れている、と思うのです。
ところが、ある人々は「全能な神様を信じます」と言いながら、聖書を全幅的に信じるのではなく、自分の知識と理論に合う部分だけを信じます。
しかし、世の知識と理論に合わせようとすれば、聖書には信じられない部分があまりにも多くあります。世の中では、何か材料があってこそ完成品が出て来るのに、聖書では「何もない無の状態から、神様のみことばで天地万物が創造された」と言うので、信じられません。
また人の能力ではとうてい不可能な権能のみわざも、納得し難いのです。
ですから、不思議なみわざとしるしについての記録を読むと、それが実際にあったことではなく、象徴や比喩だと考えたり、「ペテロが水の上を歩いた」と言うと、水の浅いところを歩いた、と解釈したりします。
「薬を飲んで、手術して病気がいやされた」と言うと信じられますが、「ただ祈りを受けただけでいやされた」と言うと、何か他の理由があるだろう、と疑います。
あるいは、「昔はそのようなことがあったかもしれないが、今日では起こらない」と言ったりします。
しかし、こういう信仰は神様とは関係のないことであり、救われる霊の信仰ではありません。
真の信仰とは、自分の考えと知識に関係なく、聖書のみことば全体が神様のみことばであり、絶対的な真理である、と信じることです。

愛する聖徒の皆さん。
次に、変わる信仰もやはり、御前で答えを受けられない肉の信仰です。
ある人は心の願いに答えられるために、熱心に祈って礼拝して充満に信仰生活をしてみますが、心に願ったとおりに答えが早く現れなければ、だんだん疑い始めます。「神様は本当に生きておられるのか。私が祈るとほんとうにお聞きになるのか」など、疑いが生じると、だんだん恵みが落ちて、過去に信仰で答えられたものや、周囲の人々が答えられた証なども、「偶然の一致だった」というように疑うようになります。
<ヤコブ1:6 -7>に、「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」とあります。このように変わる信仰は、答えられる真の信仰とは言えないのです。
<マルコ11:24>に、「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と言われました。求めるものは何でも、これから「受ける」と信じるのではなく、すでに「受けた」と信じなさい、と言うことです。
病気の問題もそうです。
<第一ペテロ2:24後半>に、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあります。約二千年前、イエス様が苦しみを受けられて、私たちのすべての罪と呪いを贖われて、これを信じる私たちは、すでにいやされた、ということです。
ですから、信仰で祈りを受けたなら、もう苦しい姿でなく、希望に満ちて喜んで感謝する姿になります。
また、すぐに目に見える証がなくても、答えを受けたという信仰が変わらない時、まことに答えられる真の信仰だと認められます。

愛する聖徒の皆さん。
次に、頭だけで知っていて行いのない信仰も、死んだ信仰であります。
神様のみことばを知っていることと、信じることは別です。神様のみことばは頭ではなく、心で信じられるべきであり、そうする時は、みことばどおりに聞き従う行いが伴います。
しかし、頭でだけ知っている信仰は、行いが伴わず、こういう知識的な信仰は、神様の御前で「霊の信仰」と認められることも、信仰の実を刈り取ることもできません。
たとえば、神様は「人は種を蒔けば、その 刈り取りもすることになります。」とおっしゃいました。これは健康や物質、すべての分野に当てはまる霊界の法則です。
聖書に出てくるツァレファテのやもめは、神様の命令に信仰で従って、長い日照りの中で、最後に残った一食の糧を、預言者エリヤに差し上げました。人の思いを働かすと、とうていあげられない、命のような糧ですが、信じたので行いました。
その結果、このやもめは、日照りが終る時まで、「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」という祝福を受けました。三十倍、六十倍、百倍に祝福される、神様のみわざを体験したのです。
ところが、肉の信仰を持った人々は、こういうみことばを聞いて頭では知っていますが、実際に難しい現実にあうと、行えないのです。生活費が足りないようなら、十一献金を完全にささげられず、各種献金をささげることを惜しむようになります。
神様に蒔くと祝福で返されることを本当のこと信じるなら、惜しむはずがないのに、頭でだけ知っているので、行いが伴わないのです。
ですから、いくら「祝福を与えられることを信じます」と祈っても、その祈りの実を刈り取ることができません。
また、病気の問題もそうです。
たとえば、皆さんががんになったとします。皆さんのお父さんが、世界最高のがん専門医であり、皆さんを治してくれる能力があるとしましょう。皆さんがお父さんの実力を本当に信頼するなら、お父さんのところに行くでしょう。他の医師を訪ねて行くはずがありません。
同じように、父なる神様が全知全能であることを本当と信じるなら、ある病気にかかったとき、父なる神様に求めばよいのに、何のために世の方法を使うのでしょうか?神様の能力を頭では知っているけれど、心では信じられないので、人に頼って世の方法を使うのです。
このように信仰のない姿をご覧になるとき、神様はどれくらいさびしいでしょうか?
旧約聖書<第二歴代誌16:12- 13>に、アサという王が、病気にかかって死んだ記録があります。「それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。 アサは、彼の先祖たちとともに眠った。すなわち、その治世の第四十一年に死んだ。」
「神様を信じます」と言いながら、世の中に頼ったことが、神様にどれくらいさびしい思いをさせたのかを知らせるために、聖書にこのように記録を残しておかれました。
他のみことばもすべて同じです。聖書には、「いつも喜んでいなさい」「すべての事について、感謝しなさい」「絶えず祈りなさい」「あなたの敵を愛しなさい」「仕えなさい」「すべての人と平和をつくりなさい」とあります。
こういうみことばをすらすらと暗誦しても、頭で知っているだけで行えない人は、相変らず肉の信仰ということであり、神様のみわざを体験することもできません。
<ヤコブ2:26>に、「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」と言い、行ないのない信仰は「死んだ信仰」とあります。
死んだ信仰では答えも祝福も受けられないだけでなく、救いさえ受けられないことを覚えて、必ず行いのある信仰に変えられなければなりません。

愛する聖徒の皆さん。
それでは、「霊の信仰」とは何でしょうか?
「霊の信仰」とは、先に説明した「肉の信仰」とは反対の信仰です。自分が習った知識や考えに合わなくても、神様のみことばならすべて信じられる信仰であり、一度信じたことは変わらずに信じて、神様のみことばどおり聞き従って、行う信仰です。
こういう霊の信仰があれば、無から有を創造することもでき、<マタイ17:20>のみことばのように、「この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移る」し、どんなことでも、できないことはありません。家庭、職場、事業場の問題や健康の問題など、どんな心の願いにも答えられて、権能を受けて、神様の国を成し遂げることもできます。
ところが、霊の信仰を持っているといっても、各人の信仰の量りはすべて違います。霊の信仰が大きい人は、願いを心に抱くだけでも答えられるかと思えば、信仰が少ない人は、同じ祈りの題目でも、何日も祈らなければならない場合もあります。
ところが、もし人が霊の信仰を自ら持てるならば、だれでもより大きい信仰を持つことを願うでしょう。しかし、霊の信仰は、人が願うからといって思いのままに持てるのではありません。神様が与えてくださらなければなりません。
それでは、どうすれば霊の信仰を受けられるでしょうか?皆さんが霊の信仰を受ける方法だけわかれば、どんな心の願いを持っていても、答えと祝福の道が、パッと開かれます。
霊の信仰を受ける方法については、次の時間に詳しく説明していきます。

<結論>

愛する聖徒の皆さん。今日のみことばをとおして、果たして自分の信仰が肉の信仰なのか、霊の信仰なのか、見分けてみられましたか?
もちろん、みことばを聞いて、「私は100パーセント霊の信仰を持っています」と言う方は、ほとんどいないでしょう。
かと言って、すべてが肉の信仰でもありません。多くの方が霊の信仰を持ってはいますが、その信仰の量が各々違って、100パーセント霊の信仰で全き者になるために、変えられる過程にいます。
今後、大礼拝をとおしてお聞きになる内容は、霊の信仰の量による段階について、また、小さい信仰から大きい信仰に、全き霊の信仰に変えられる方法についてのみことばです。
みことばをとおして自分を発見することによって、聞いたみことばに従って行う信仰に、自分の考えと理論に合わなくても信じられて、現実と条件に関係なく、変わらない信仰に変えていかなければなりません。
そうする時、「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われた神様の約束が、皆さんの人生にそのまま臨み、聖書に記された驚くべきみわざが体験できます。
どんな苦しみと逆境も信仰で乗り越えて、すべての祈りに答えられるだけでなく、信じない世の人々にも、神様の証をすることができます。
愛する聖徒の皆さんは、速やかに全き霊の信仰を成し遂げて、神様の喜びとなって、毎日、神様のみわざを体験して生きられますように、主の御名で祈ります。

 
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