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主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   十字架のことば(7) - なぜ、イエスは私たちの救い主となられるのか②  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   Ⅰコリ 2:6-9
Date
   2005-05-01


「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

<序論>

愛する聖徒の皆さん、
またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、
ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトなど、全世界と全国の2500余りの支教会の聖徒の皆様、支聖殿の聖徒の皆様、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆様、<日曜学校の子供の皆さん>、視聴者の皆様。
今日は「十字架の道」七番目の時間です。この間に続き、なぜイエスだけが私たちの救い主になれるのか、を説明いたします。このみことばの内容は、私たちが救われて力ある信仰生活をするのに、とても重要な核心的な内容です。例えば皆様がミカンを食べる時、他の人々がおいしいというので、「おいしいだろう。」と思うなら、何の益にもなりません。
皮をむいて、中身を直接食べてみてこそ味がわかるようになり、そして栄養分を摂取してこそ自分に益になります。
信仰も同じです。「主イエスを信じれば救われる。」と頭だけで知っていることで救われるのでもなくて、ただ「信じなさい。」と言われて、漠然と「信じます。」というのだけでは、力ある信仰生活をすることもできません。
「なぜイエス様だけが救い主になられるのか」、「イエス様を信じると言って、どのように救われるのか」、その理由を確実に悟らなければなりません。
そういう人には霊的な信仰が臨むので、敵である悪魔・サタンが惑わすことができず、伝道をする時も、それほど言葉の権威が従います。今日も語られるみことばを通して、皆様は、イエス様がなぜ救い主になられるのか、確実に悟るようにお願いします。
そして、誰が尋ねても、正確に説明できるように、このみことばを完全に霊の糧にするように願います。
それで、真にイエス・キリストの命が皆様の中にあって、その命を多くの人々に伝えるように主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆様。
罪人になった人類が救われるためには、その罪を贖ってくれる救い主が必要です。そして人類の救い主になるためには、それにふさわしい資格を備えなければならない、と説明しました。その第一の条件は、「人でなければならない。」と言いました。土地の買い戻しの法則により、アダムの親類である人だけが、人類の罪を贖う資格があるのです。
イエス様が真に人となってこの地にお生まれになったことは歴史が証しているので、第一の条件にはあてはまるのです。
次に、第2の条件は何だと言いましたか?「アダムの子孫であってはならない。」と言いました。アダムの子孫は、皆罪人なので、罪人たちの罪を贖うことはできないからです。ここまではこの前に説明した内容です。

聖徒の皆様、
それでは、なぜアダムの子孫は皆罪人なのでしょうか?
アダムの子孫はすでに生まれる時から、アダムの罪を譲り受けて生まれるためです。この話がどういう意味なのか、もう少し詳しく説明しましょう。
神様は人を創造される時、アダムとエバに命の種をくださいました。すなわち、男の精子と女の卵子が結びつき、新しい命が宿るようにされました。
ところが、小さい命の種である精子と卵子の中には、両親の気が全部入っています。両親の気立てや性質、本性、容貌、果ては習慣に関する内容まで全部入っています。
ですから、この精子と卵子で造られた子供たちは、両親の顔に似て、体形も似るようになり、気立てや習慣も似ています。
両親に憤りが多ければ、その子供たちも憤りが多くなる可能性が大きくて、両親が柔和で穏やかな性格ならば、子供たちの性格も大抵穏やかです。
ある場合は子供が幼い時父親が亡くなったのに、子供が成長するにつれ、歩き方や寝癖(ねぐせ)、食べ物の好みなどが、亡くなった父親に似ていくことも見られます。
両親だけに似るのではなく、両親の両親、つまり、おじいさんやおばあさんに似る場合もあります。このように先祖の気質が後世に伝えられて、子孫にそのままはっきり譲り受けられるようになります。
アダム以来、先祖代々伝えられた気質、習性、気立てなどが、両親の精子と卵子を通し、子孫たちにそっくり伝えられるのです。
もちろん同じ両親の子供だとしても、子供により、ある気質はちょっと強く現れたり、ちょっと弱く現れたりするなど、表面に現れる程度の差はありますが、根本的には両親の気をすべて持っています。
ところが、このように先祖から受け継がれる気の中には、罪の性質も含まれています。初めの人アダムが堕落した時から、先祖の罪の性質が子孫にも受け継がれたのです。これが、まさに原罪です。
それでアダムの子孫として生まれたすべての人は、生まれる時から、アダムの罪の性質を譲り受けた罪人になります。
<ローマ5:12>にも、「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。」とあります。        ひとりの人、すなわちアダムの罪によって、全人類に死が広がったことを説明しています。
このように人が生まれる時から罪人だと言うと、「赤ちゃんはとても純粋で清らかに見えるのに、その子供たちにどんな罪があるのだろう?」と不思議に思う場合があります。
しかし、よく観察してみると、とても幼い子供でさえ、すでに悪を持っているのがわかります。例えば生まれたばかりの赤ちゃんの中にも、両親に憤りが多ければ、赤ちゃんも特別憤りが多くなる場合があります。おなかがすいて泣く時、おっぱいを与えるのがちょっと遅くなると、顔を真っ赤にして、息が止まるほど泣きわめきます。それほど泣いている時には、お母さんがおっぱいをあげても、赤ちゃんは飲もうともせず、神経質に泣くばかりです。
「おなかがすいたと言ったのに、なぜ早くくれないのか、もう怒って飲みたくない。」という意味です。生まれたばかりで、まだ言葉が通じない赤ちゃんに、誰がこういう憤りと癇癪を教えたのでしょうか。 誰かが教えたり、植え付けたりしたのではなく、すでに初めから両親の罪の性質を譲り受けて生まれたのです。また、他の例をあげてみましょう。
幼い子供が見ている前で、お母さんが他の赤ちゃんにおっぱいを飲ませると、どうなるでしょうか?
ほとんどの子供たちは嫌がり、自分のお母さんのおっぱいを飲んでいる子供をお母さんから引き離そうとします。
「なぜ他の子供がママに抱かれて愛されて、ママのおっぱいを飲むのか」と言う心で気に食わないのです。
他の子供をお母さんから引き離そうとしても、思いのままにならなければ、お母さんに癇癪を起こしたり、たたいたりします。それでもだめだったら、結局は泣きわめきます。もし、子供に罪が全くなく、善良で清い心を持っているなら、このように反応するはずがありません。
真理は良いものを互いに分けてあげることなので、自分のお母さんのおっぱいを他の子供が分けてもらって飲むなら、嫌がるのではなく、むしろ喜ぶことです。
そうできなくて嫌がる理由は、「ママのおっぱいなので、ボクだけが飲まなければ、」という欲とそねみ、ねたみがあるからです。それなら誰がこの子供にそねみ、ねたみ、欲、癇癪、こういう罪と悪を植えたのでしょうか?
誰かが教えたのでなく、アダム以後に引き継がれた罪の性質を譲り受けて生まれたのです。
ですから<詩篇51:5>に、ダビデも、「 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」と言ったのです。
このように、すべての人はアダムの子孫であり、原罪を持って生まれたので、人としては誰も救い主になりことが出来ません。ただお一人、イエス様だけは明らかに人でありながらも、アダムの子孫ではありません。それなら、どうして、イエス様は人でありながらもアダムの子孫ではないでしょうか?
イエス様は肉的な家系ではダビデの子孫で、ヨセフとマリアを両親としてお生まれになりました。
ところが<マタイ1:20後半>を見ると、「その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」とあり、<マタイ1:23前半>には、「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」という、イエス様に関する預言のみことばが出てきます。
すべての人が原罪を持って生まれる理由は、両親の精子と卵子を通して、両親の罪の性質を譲り受けるから、と説明しました。ところがイエス様は、ヨセフの精子とおとめマリアの卵子を通して身ごもられたのではなく、聖霊によって宿られたのです。全能な神様は、人の精子と卵子が結合しなくても、聖霊の御力でいくらでも、イエス様を身ごもられるようにされるのです。ヨセフもマリアもアダムの子孫ですが、イエス様は単純におとめマリアのからだを借りただけで、聖霊の御力を通して宿られたので、罪人たちの気を全く譲り受けられませんでした。したがって、イエス様はアダムの子孫ではなく、原罪がありません。世界中で聖霊によってお生まれになった方は、ただイエス様お一人だけです。世の中で聖人と尊ばれる偉人であっても、誰でもがアダムの子孫であり、原罪を持った罪人なので、決して救い主になることはできません。したがって、ただイエス様だけが、人類の救い主になれるのです。

愛する聖徒の皆さん、
ここで必ず覚えておくべきことがもう一つあります。
たとえおとめマリアがイエス様をみごもったとしても、マリアがイエス様のお母さんにはなれないということです。もし科学技術がさらに発達して、人の精子と卵子で造られた受精体を機械で十月間育てたとしたら、その赤ちゃんがその機械をお母さんと呼ばなければならないでしょうか?そうでありません。
もちろんマリアはイエス様を身ごもるために選ばれる程、神様の前で善良で愛らしい女性でした。
そうだといっても、マリアは被造物であり、決してイエス様のお母さんになることはできません。したがって聖書にもイエス様が直接、マリアを「お母さん」と呼ばれたことはなく、時々「イエスのお母さん」とあるは、弟子たちの立場でそう記録しただけです。
例えば<ヨハネ19:26>にも、「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。」とあります。ここでも「母」と言ったのは、弟子のヨハネが記録したからであり、イエス様は「女の方」と呼ばれました。
<ヨハネ2:4>にも、カナでの婚礼の時、「 すると、イエスは母に言われた。『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』」のように、「女の方」と呼ばれます。ところがある人々は、マリアがイエス様を産んだというだけで、マリアを「聖母」と呼び、はなはだしくはその前で拝んだり祈ったりもします。
しかし、イエス様はただ神様の御子であり、私たちが拝んで祈る対象もまた、三位一体の神様だけだという事実を覚えなければなりません。

愛する聖徒の皆さん、救い主になるための3番目の条件は、「敵である悪魔に勝つ力がなければならない」ということです。
戦場で捕虜にされた同僚を救い出そうとしても、敵軍から捕虜を奪ってくる力がなければなりません。
霊的にも、敵である悪魔に属した人を救うためには、敵である悪魔に勝って、人を取り戻せる力がなければなりません。
ところが、いくら体格が良くて力が強くても、敵である悪魔に勝つことはできません。ここで敵である悪魔に勝つ力というのは、物理的な力でなく霊的な力を意味します。霊の世界での力は、罪がないことから来ます。
光が臨むと、闇が下がるように、罪がなく光の中で完全に留まる人は、闇に属した悪い霊どもに勝つ力があります。罪には原罪と自犯罪があります。原罪とは第2の条件で説明したように、アダムから引き継がれた罪の性質をいいます。自犯罪とは、生まれて育ちながら、自ら犯す罪をいいます。人々は生きていきながら、大小の多くの罪を犯します。重い罪を犯した人だけが罪人ではなく、軽い罪を犯した人も同じように罪人です。<ヤコブ2:10>に、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」とあります。多くの律法の中で一つだけを犯しても、彼はすでに罪人であります。しかも、世の中の人々は、心がいくら悪くても、行わなければ、罪人だと思いませんが、霊的には、罪を行わなくても、心に罪を抱いていることだけでもすでに罪人になります。
<ヨハネ第一3:15>を見ると、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」とあります。兄弟を心でだけ憎んでも、これは兄弟を憎み、殺した人のように罪人だという意味です。
また<マタイ5:28>には、「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」とあり、心に貪欲を持っているだけでも、盗んだ人のように、罪人になります。
このように、行いでも心でも、たった一回でも罪を犯した人は、人類を救い出せる力がありません。アダム以後のすべての人は原罪を持った罪人であり、また、自犯罪を犯して生きていきます。「私は行いでも心でも、罪を犯したことが一度もありません。」と堂々と言える人はいません。ですから誰も救い主になる資格がありません。
ただイエス様だけが原罪も自犯罪もないので、救い主になるのにふさわしい資格を備えられました。
イエス様はアダムの子孫ではないので、原罪がない、と言いました。また生まれてから十字架を背負って死なれる時まで、全ての神様の律法を守り行われたので、自犯罪も全くありません。生まれてから八日目に、律法のとおり割礼をしたことから、心でも行いでも、決して真理を外れたことがありませんでした。したがって、<ヘブル7:26>には、イエス様を示して、「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」と言っています。 また<ペテロ第一2:22>にも、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」とあります。
ただイエス様だけが聖なる方であり、悪がなく、全く罪を犯さなかった方だということです。このようにイエス様は全く罪がなかったので、敵である悪魔・サタンから人類を救い出す力があって、「罪からくる報酬は死です。」という律法の呪いにも縛られなかったのです。ですから、十字架につけられて死なれましたが、死の権勢を破って復活することができました。

愛する聖徒の皆さん、
イエス様は罪がなかったので、死の権勢を破って、罪人たちを救われただけでなく、その霊的な権威で天下のすべての物を治められました。敵である悪魔・サタンが服従するだけでなく、病、病原菌、わずらいもイエス様に従いました。悪魔につかれて苦しむ者がイエス様の前に出てきた時、イエス様が悪魔に「出て行け」と命じれば、悪魔は従って出て行かなければなりませんでした。
イエス様が命じると、病、病原菌も離れました。
目の見えない人、耳の聞こえない人、口のきけない人、歩けない人も、イエス様が命じると、完全なからだに癒されました。
また罪のないイエス様の権威の前では、天下万物も従いました。イエス様が風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた時、風がやみ、大なぎになったことが見られます。
このような霊の世界の法則は、イエス様だけでなく、イエス様を信じる神様の子供たちにも当てはまります。
<ヨハネ第一5:18>を見ると、「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とあります。すなわち、神によって生まれた神の子供たちは、神から生まれた方、主が守っていてくださるので、悪い、敵である悪魔・サタンが害を与えることは出来ません。
しかし、まず自分自身が罪を犯さないゆえに、霊的な力が与えられるので、それでこそ、悪い霊どもがあえて働かないのです。いくら神様を信じて、信仰生活が長くて、色々な使命があると言っても、相変らず罪の中で生きるなら、霊的な力がありません。イエス・キリストの御名で退ける祈りをしても、試みと艱難が離れないのです。あたかも汚いところに虫が集まるように、敵である悪魔・サタンが続いて働いて苦しめるようになります。反面、たとえ子供でも、神様を愛してみことばのとおり生きる子供ならば、その子には霊的な力があります。その子供がイエス・キリストの御名で退ければ、敵である悪魔が従って離れるようになります。
皆様が真に真理の中で生き、聖なる心と行いを成し遂げる時は、自分の人生で闇が退くだけでなく、他の人のために祈ってあげる時にも、神様の御わざが現れるようになります。私はこういう御わざを無数に体験しました。
私が神様を信じる前には、私だけでなく子供たちも、いつも病気に苦しみ、治療費と薬代が絶えず必要でした。
しかし、私が主を迎え入れてからこんにちまで、ただ神様のみことばの中に留まり、罪と関係ない人生を歩んできたので、
私自身はもちろん、家族みんなから病とわずらいがすべて離れました。神様を迎え入れてからは、家族全員が病院に一度も行ったことがなく、薬を飲んだことも一度もありません。
私が主のしもべでなかった時も、子供たちが病気にかかったりすると、手を置いて祈ってあげると、直ちに病が離れてきれいに癒されました。
また悪霊につかれた人々の場合は、霊的な権力のある人々がとても正確にわかります。
悪霊につかれた人が騒ぎ立てても、私が近づくと、恐ろしくて震えて静かになるのが見られます。
他の場所にいる悪霊を追い出すために、私が家を出発する瞬間から、すでに悪霊どもが静かになって恐れるのも見ました。
罪のない人がイエス・キリストの御名で祈る時は、病と病原菌や悪い霊だけでなく、命のないものも従います。主が風と波を静めたように、主の御名で祈るので、どしゃぶりの雨が止んだり、天気を動かしたりする事もでき、一酸化炭素中毒にかかった人に祈ってあげる時は、命のないガスも従って、抜け出ます。
火傷をした人々に祈ってあげる時は、まず熱気を退けてあげますが、この時も、熱気が直ちに従順になって抜け出すので、苦しみが消えます。
本教会の聖徒のほとんどが、このような御わざを見聞きして体験した証人です。
こういう御わざを見ても、霊的な力と権力は、ほんとうに罪がないところから始まるということがわかります。
愛する聖徒の皆さん、
今日は救い主の条件の第二と第三を説明しました。すなわち、救い主になるためには、アダムの子孫であってはならない、また、敵である悪魔に勝つ力がなければならない、といいました。
最後に第四の条件は、命まで与えられる愛がなければならない、ということです。
これについては、次の時間に語ります。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、人類の歴史上、イエス様の他には、
誰も救い主の条件にふさわしい人がいません。
皆が両親の精子と卵子を通して、アダムの罪の性質を譲り受けた罪人であり、一生の間数え切れない罪を犯して生きていく罪人たちです。
聖人と呼ばれる釈迦も、孔子も、ソクラテスも、すべてアダムの子孫として、原罪を持った人々であり、神様の前で聖なる人生を送れなかったのです。
以前、永い歳月修養して悟りを開いて、多くの人々に尊敬されたある人について、このような話を聞きました。
すでに使ったつまようじを節約するために保管しておいたのですが、彼に仕える人がそれを捨てたら、火のように怒ったそうです。それほど熱心に倹約する人だったということです。
しかし彼がその憤り一つ治められなくて、たったつまようじ一つによって、自分に仕える人の心を苦しめるなら、これをどうして正しいと言えるのでしょうか。
また最近まで世界中で崇められたある人は、長い間さまざまな病気に苦しんで、結局、死に至るのを見ました。
このように、世の中でいくら認められる人だといっても、いざ自分の罪の問題でさえ解決できず、霊的な権力がないのでは、闇を退けることができませんでした。
愛する聖徒の皆さんは、ただイエス様だけが原罪と自犯罪がなく、私たちを救う資格があることを、確実に悟るよう願います。
それで<ペテロ第一1:16>に、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と言われた神様のみことばのように、皆様も聖なる生活を送るので、悪い者が皆様に触れることもできず、ただ平安と祝福の中に留まる皆様になられるように主の御名によって祈ります。

 
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