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主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   良い実  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ルカ 8:15
Date
   2004-11-21


[序論]
今日は一年の収穫に感謝する心をもってささげる収穫感謝主日です。
2004年も私たちに祝福をくださり、霊・肉に多くの実をおさめさせた父なる神様に、すべての感謝と栄光をささげます。
また、各種の穀物と果物、野菜などで講壇を美しく飾ってくださったすべての方々にも感謝を申し上げます。
愛する聖徒の皆さん、
下の壇を満たした豊かな收穫物を見る時、皆様の心も満たされて幸せになるでしょうか。
中身がぎっしりしていてふっくらとした穀物と、みずみずしくて香りの良い野菜、きれいな色で見事に熟した果物などは、ながめるだけでも心を豊かにします。
今日収穫感謝礼拝に出てこられた皆様も、父なる神様にとってこのように豊かな喜びと幸せになられるよう願います。
父なる神様は勤勉な農夫のように、大事な実を結ぶために人間を耕されます。
私たちがよく耕されていくと、御父を喜ばせる信仰と、父に似た善と愛、真実、義の実、光の実、こういう実を結ぶようになります。
そうすると、これをご覧になる父なる神様は、とても喜ばれるのです。

愛する聖徒の皆さんは、この一年も豊かな恵みの中で、霊と肉とに美しい実を結ばせた御父に、衷心から感謝する一日になられるよう願います。
[詩篇50;23]に、「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」と言われました。
この御言葉のように、皆様の感謝の香りを喜んで受けられた父なる神様が、今後も皆様のすべてを守ってくださり、救いと祝福と栄光の道に導かれるように、主の御名で祈り願います。

[本論]
愛する聖徒の皆さん、
また映像を通し、礼拝をささげる全国のすべての皆様、支教会の皆様、支聖殿の皆様、光と塩宣教会の皆様、飲食業宣教会の皆様、全世界でインターネットを通して礼拝をささげるすべての聖徒の皆様、そして日曜学校の子供の皆さん、
今日、収穫感謝節礼拝を通して、まず、皆様が覚えなければならないことは、神様の恵みに感謝と栄光をささげなければならないということです。
「私たちのすべての人生が父なる神様の愛であり、全てのものが父なる神様の恵みです。」 過ぎた時間を省みる時、皆様に信仰があって希望があるならば、このように感謝の告白が自然に出てくるでしょう。
永遠に死ななければならない罪人たちを、ただ神様の恵みでイエス・キリストの血潮で救ってくださいました。 それで私達は、以前は朽ちることを求めながら、闇の中に生きるしかなかったのに、今は永遠な天国を望んで生きるようになりました。
また、世の多くの事件と事故の中でも、神様の中で生きる皆様は、一年間平和と平安の中に留まるように神様が守ってくださいます。
このように救われて神様の子供とされた恵みだけでも感謝することなのに、皆様はさらに大きな恵みをこうむりました。
終わりの時、神様のご摂理を成し遂げられるために、あちらこちらから皆様を呼び集めて、神様の御心の中で使われようと、今日まで練って来られました。
聖書66巻の御言葉を親しく説き明かしてくださるので、罪について、義について、さばきについて、明らかに悟らせました。
これを通して、皆様は罪と悪を脱いでしまって、神様に似た聖められた子供に変えられてきました。生きておられる神様の御力を見て聞いて体験するので、皆様の信仰が日ごとに成長することが出来ました。
どこででも聞けない霊界の隠されたことを聞くので、霊の世界と、父なる神様の御心について、とてもはっきり悟るようになり、天国を本当に望むようになりました。
その中でも最も美しくて幸福にあふれる新しいエルサレムを慕って攻めるようになりました。 耐え難い程の心の痛みに遭ったり、理解できない苦しみに遭ったりしたこともありましたが、神様は限りのない愛と恵みの中で十分信仰で勝つ力をくださいました。
常に神様が共におられる証を見せてくださり、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与えて下さるように、時にしたがって必要な全てのものを供給されて、この祭壇と皆様を成長させてこられました。

ところで、特別に今年・2004年には、本教会の歴史の中で大きい変化の線を引くような恵みの時間がありました。
父なる神様は、何人かの先立つ人々だけでなく、皆様のすべてが霊の人になることを願われます。一部だけが新しいエルサレムに行くのでなく、すべての皆さんが良い天国に入ってくることを願われます。
それで2004年には特別な悔い改めの機会を与えられたので、自分を発見して悟る人はみな、また悔い改めて立ち返る人はみな、霊的に詰まっていた分野がすがすがしく空くようになりました。
以前は自ら悔い改められなかった罪までも、悔い改めの霊をくださり、罪の垣を壊せるように導かれました。また、罪であることを知っていながらも、「私がこうしたらいけないのに。」と言いながらも、捨てられる力がなかった人も、捨てられるように力をくださいました。 以前は発見できなかった非真理を発見して変えられる恵みをくださいました。 こうして皆様の中で多くの方が、霊の速い流れに乗るように許されました。
このような愛を明らかに悟った方ならば、大いなる感謝と感激で胸を膨らませて今日ここに出てこられたはずです。

愛する聖徒の皆さん、
2番目に、皆様が悟らなければならないことは、このように言葉で言えない恵みと愛をくださった御父の前にどう報いるかということです。
多くの方が衷心の賛美と祈りをささげて、感謝のいけにえをささげます。 与えられた恵みと愛に報いるために、足がすりへるまで、伝道して家庭訪問する方々もいて、力をつくして奉仕する方々もいらっしゃいます。
これらすべてのことがみな大事で、神様が喜んで受けられることですが、父なる神様が最も願われることは、まさに皆様の心に結ばれた霊の実です。
御霊の九つの実、愛の章(第一コリント13章)の実、八つの幸いの実、光の実などの霊的な実を結んでいく時、最も喜ばれます。

ところが、同じく聖潔の御言葉を聞いても、人々が心に結ぶ実はすべて違います。実際、農業をしてみても、最上品の穀類出てくるかと思えば、それより至らないものもあって、殻だけで、中身のないものが出てきたりもします。
霊的にもそうです。同じ時間に神様の御言葉を聞いて信仰生活をしても、ある人は比較的短い時間に霊の実を豊かに結び、権勢と力が従うのに、ある人は長い時間が経っても変わりにくいのです。

では、その理由は何でしょうか。
[ルカ8章]の種を蒔くたとえを用いて説明できます。
「種を蒔く 人が 種蒔きに 出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に 踏みつけられ、 空の鳥がそれを食べてしまった。 また、別の種は岩の上に落ち、生え 出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。また、別の種はいばらの真中に 落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを 押しふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
このたとえは、まさに人の心に真理の種が蒔かれた時、実る過程についての御言葉です。
道ばたのような心を持った人は、真理の御言葉を聞いたと言っても、それが信仰として心に受けられません。 御言葉のとおり行おうとする考えもまったくできないのです。
種が岩の上に蒔かれたような心は、御言葉を聞く時は喜びで受けますが、根を下ろせないと言っています。
信じようとして、御言葉のとおりに行ってみようとしましたが、ある苦しみがくると、すぐ信仰を破ります。
いばらの真中のような心は、信仰があって信仰生活をよくしているようですが、心配・憂いにしばられて、世の中の良いものに心を奪われて良い実が結べません。
次に今日の本文[ルカ8:15]に、「 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」とあります。
神様の御言葉をただ「はい」と「アーメン」で心に受けて変わらずに行う人が、まさに良い実を結ぶ良い心です。速かに聖められて深い霊の世界へ入れます。

それでは、皆様は「私は果たしてどういう心なのか。」自ら悟ってみるよう願います。
ある人は御言葉を聞いても、まったく真理の種が心に蒔かれません。
例えば礼拝時間に御言葉に恵まれるのではなく、あの説教者の説教は上手かどうか、評価しようとする人がいます。 真理を講壇で教えても、自分の考えに合わなければ、説教者が違ったと裁きます。 またある人は、御言葉を聞く時は、「私もより良い天国に行きたい。」、「私も聖められて祝福を受けたい。」と思うけれど、世の中があまりにも良くて、神様の御言葉のとおりに生きることができません。 真理の御言葉を聞いて変えられようとはしますが、霊的に耳が遠くて、御言葉が悟れない人もいます。
たとえば、私が説教する時、「キム執事様という方がこれこれしかじかのことで不従順でありました。」と言ったら、良い心を持った人は、御言葉の中でキム執事様を思い出すのではなく、直ちに自分を省みます。「私は果たして従順な人だったのか、私が従順でなかったのは何があるのか。」など、省みながら、その瞬間にも熱心に変えられようと努力するのです。もし自分について悟られるものがあると、その場で心に留めて変えられる時まで祈っていきます。

ところが、ある方は全く自分とは関係ないことのように、「キム執事様がそうだったんだ。」と忘れてしまいます。
「キム執事様がなぜそうだったのか。だから祝福されないんだな。」という人もいます。
本当に座って礼拝をささげたとは言いますが、その心には真理の種が蒔かれていないのです。 こういう方々は、自分に直接当てはまる御言葉を聞いても、心の奥から悟るのが難しいのです。 また、恵まれた時は充満な信仰生活をするのに、試練や苦しみが来ると、すぐ顔が暗くなって自分の席も守れないなど、信仰生活の起伏が激しい人もいます。
ある人は御言葉の中で自分の姿を悟れば、「今後は必ず変えられよう。」と繰り返し決心しますが、時間が過ぎて見ると、相変らず本来の姿にとどまって、恵まれた内容でさえ記憶できない場合もあります。
こういう一つ一つがすべて良い地の心とは距離が遠いのです。実際、初めから良い地だけでなされた人を捜すことは易しくありません。

ところで、良い実をおさめるためには、皆様がどんな心の畑から始めたかも重要ですが、「自分の心をどう開墾していくのか」がもっと重要です。
自分の心の畑がどうなのかを発見して、足りないところを満たして変えさせるために、最後まで努力することが大事です。
いばらを抜いて石を取り出すように、怠ける心と変わる心、憤り、高ぶり、世の中の欲など、罪悪を取り出します。
そして善と愛と真実、こういう真理の種を蒔いて、実を結ぶ時まで忍耐します。言い換えれば、絶えず自分を省みて、断食しながら祈るので、変えられていかなければなりません。
いくら良い地だといっても種を蒔かなければ、またよく耐えて育てなければおさめることはできません。
しかし、ちょっと足りない心の畑だと言っても、絶えず努めて神様に頼っていく時は、必ず豊かな収穫を収めるのです。

愛する聖徒の皆さん、
3番目に、皆様が記憶しなければならないことは、「よく 耐えて、実を結ばせるのです。」ということ、すなわち、実を結ぶまで変わらずに耐えて真実で行っていくべきだということです。
自らは一生懸命したのに、自分の実が不十分だと思われると、失望してしまう人々がたくさんいます。 「私は一生懸命努力したのに、このくらいしかできないのか、これしかならない人なのか、」と思います。 しかし、これは真の信仰ではありません。失望するということは、神様に頼ったのでなく、結局自分に頼ったことを表すものです。 私が断食して、私が祈って、すなわち、自分の力でしようとしたので、思い通りに行かなければ、失望してあきらめるのです。
真に神様に頼った人は、目の前に現れた現実が自分の考えと違った時も失望しません。 そのなかで神様のご摂理を発見しようと思い、最後まで神様に頼り、善を行います。
また、[ローマ5:3- 4]に「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」と言われたように、もし苦しみや悩みがあると言っても、最後まで忍耐して希望を生み出していきます。

ダニエルが21日間変わらずに祈られたのは、初めから21日が過ぎると、答えられるという約束を受けたからではありません。仮りに21日が過ぎても答えられなかったら、40日でも、100日でも変わらずに、求める心でした。 必ず答えてくださる神様を信じたので、最後まで忍耐して求められました。
また、ヨセフが13年も苦しみの歳月を送りながら、失望しなかったことも、信実な神様を信じたからです。
神様の時を待ちながら、変わらずに忍耐して善を追い求めた時、ついにはエジプト全国で王の次にまで高められる大事なうつわに変えられたのです。
神様はこのようによく耐えて実を結ばせる人を良い心、善良な心だとおっしゃいます。
皆様が良い実として出てくる過程も同じです。
[ガラテア6:9]に「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」と言われたように、私たちが信仰で蒔いて育てたことは、神様が必ず実を結ばせてくださいます。
ただし、実を結ぶまでどれくらいよく耐えて、真実な信仰を示すのかによって結果が変わります。
愛を成し遂げるために昨日まで祈って断食してきたのに、今日また再び憎しみを発見したと言っても、変わらずに信じて祈れば良いのです。
人が自ら変えられて聖められることはできないけれど、明日でも、あるいはすぐに今夜でも成し遂げられる神様の御力を信じて求めます。
[マタイ19:26]に、「イエスは彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。』」と言われた通り、神様の恵みと御力、聖霊の助けを求めるのです。
多くの方々が2004年を通して体験されたように、以前は悔い改められなかったことを悔い改められるようになり、捨てられなかったことを捨てるようになったのも、神様が働かれたので可能になりました。
また一年間、神様が霊の速い流れに乗らせたので、以前に数年間で成し遂げてきた以上に、速かに変えられることが出来ました。
今後もこのような恵みと御力に頼り、より一層善と真理の御言葉を守って行くことに努めて、よく耐えて良い実を結ばせる皆様になるように願います。

[結論]
愛する聖徒の皆さん、
[マタイ3:12]に、「 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」とあります。
この御言葉のように、主が麦と殻とを分けられる時に、皆様はどちらの側に立つのでしょうか。 麦と殻とは裁きの瞬間に突然決められるのではなく、今からすでに皆様が選んだ結果によって分かれるのです。
同じように、中身が満たされた一等品になるのか、でなければ、それに及ばない実を結ぶのかということも、今、皆様の選択にかかっています。

ところで、こういう御言葉を聞く時、皆様が父の御心を深く感じられるよう願います。
時にある方が神様の御心に外れて行う時、私の心は昼にも夜にもその方を思い出して哀れむ心で御父の前で求めます。
そうするうちにその方が悔い改めて変わるのを見ると、涙が出るほど有難くて感謝して、心の大きな重荷をおろすようになります。
また、まだ完全なものではなくても、変わらずに真理に向かって歩む人を見ると、とても愛らしくて「私があの人に何をしてあげようか。」と思うようになります。
牧者である私の心がこうならば、愛の神様の御心はどうでしょうか。
こういう御父の心を思っても、霊の実を豊かに結ぶ皆様にならなければなりません。しかも来年以降に、もっと大きく現れる神様の御わざを果たすためにも、皆様は必ず霊の働き人にならなければなりません。
神様の国はことばにはなく、力にあるので、「真に霊の人であってこそ、実を出せるだろう。」と皆様自らが感じるようになります。
少しでもこういう霊的な流れから離れたり、はずれたりする方が皆様の中には決していないように願います。 皆様が努めながら、よく耐える時、神様は必ず恵みをくださり、全能な神様の力強い御手で皆様を助けてくださいます。
このような恵みと能力の中で皆様のすべてが尊い実として、霊へと全き霊へと入るように願います。
それで[黙示録21:24]に、「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。」と言われたように、将来新しいエルサレムでも、皆様の尊い実を持って父の御座の前で栄光をささげられるように、主の御名で祈り願います。

 
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