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Title
信仰の量り(25)-信仰の五段階(6)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ロマ 12:3
Date
2006-06-18
<本文>
<ローマ12:3>
「 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4,500余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん、
主を信じて救われた人が多いと言っても、各人の信仰はすべて同じではありません。やっと救われただけの信仰の小さい人がいるかと思えば、すべての事に神様のみわざを体験して、神様に栄光をささげる大きい信仰を持った人もいます。各自の信仰の量りに応じて、自分の人生の中で神様のみわざを体験できる限界が変わるのです。
神様は、主を信じる神様の子どもたちが毎日ますます大きい信仰に成長することを望まれます。赤ちゃんが生まれたら、いつまでも赤ちゃんのままとどまっているのではなく、育って青年になって壮年にならなければならないように、霊的にも必ず信仰が成長しなければなりません。
これはつまり、聖徒たちが罪と悪を脱ぎ捨てて、聖なる神様のかたちに似せられていかなければならない、ということです。心が聖められて霊に入り、また、完全に神様に似せられた全き霊の人にならなければならないのです。
きょうは「信仰の量り」二十五番目の時間で、信仰の五段階について語ります。愛する聖徒の皆さんは、きょうもメッセージを心に留めて成し遂げ、神様に喜ばれる大きい信仰を持つようにお願いします。それで、いつも神様とともに歩む皆さんになられますように、主の御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、信仰の五段階の特徴は、神様に喜ばれる信仰と言いました。父なる神様の心にぴったり似せられて、父の心と御旨を推し量ることができ、その心に合わせて、すべての事に完全に聞き従うので、父に喜ばれるのです。
ところが、人が神様の聖なることと善なることについて多くを聞いて、知識的に知っているからと言って、完全に聞き従えるのではありません。霊の心に完全に変えられて、神様と一つになり、主と一つにならなければなりません。それでこそ、神様がまことに望まれる
がわかって、完全に聞き従って、喜ばれることができます。
それなら、信仰の五段階に入ると、神様の心とぴったり似せられた霊の心を成し遂げたので、もう耕作を受けなくてもかまわないでしょうか? そうではありません。霊である神様の属性が無限なように、霊の世界は限界がないので、霊にさらに深く入る過程も終わりがありません。
一房のぶどうが見事に熟すると、この世ではそれで終わりですが、霊の実はもっと大きく、もっと濃く、無限大に大きくなることができ、さらに濃い濃度に熟して行くこともできます。
たとえば、生徒たちが小学校、中学校、高等学校を経て、大学に入ると「もうこれ以上習うことがない」と言えるでしょうか? 違いますね。大学院に入り、修士、博士過程を経ても、それで学びが終わったと言えるのではありません。ある一つの分野だけ一生研究するとしても、学問には終わりがありません。
霊の世界はさらにそうです。数多くの訓練を通過して信仰の五段階に入ってきたとしても、これは無限の霊の世界へ入るための入門段階に過ぎません。
信仰の一段階から四段階までは、それぞれの段階の中でも、どれだけ成し遂げたのかを「二段階の50パーセント程度成し遂げた」、あるいは「三段階の80パーセント程度成し遂げた」などで見当をつけることができます。
しかし、五段階に入ったら、「五段階の中で何パーセント成し遂げた」、こういうふうに表現することができません。霊である神様に限界がないように、霊に入ることも、深く入るほど、さらに深い次元が終わりなく繰り広げられるからです。
ただ、説明するために、聖書にある昔の人々のうち最も大きい信仰を所有した人々を「五段階でも最高の次元に至った」と表現することはできます。すなわち、エリヤやモーセ、アブラハムのように、神様に完全に似せられて神様に喜ばれて、明らかに交わることのできた信仰の人々を言います。
信仰の五段階に入っても、このように最高の次元に至るまでは、神様が直接導かれて、霊の知識を満たしていかれます。この時の霊の知識は、この地上に属した人としては聞くこともできなくて、聞いても悟れない秘密なことであり、天国、新しいエルサレムの空間に入った時に学ぶ、父なる神様の深いことです。
信仰の五段階に入れば、たとえからだはこの肉の世界に生きていても、霊的には霊の世界に属した人になります。したがって、将来、天国の空間に入れば、学んで悟れる霊のことを、この地上でも悟っていけるのです。こういう秘密な霊の知識を悟っていきながら、ますます父を明らかに知って、父に似せられた霊の心に変えられる分、五段階でも最高の次元まで至ることができます。
愛する聖徒の皆さん、このように信仰の五段階の中でも、最高の信仰に至ると、その時はその人の生まれつきのすべての気質がすべて長所に変わります。人が信仰の四段階にいる時は、まだ「肉の痕跡」のようなものが残っていると言いました。つまり、悪だとは言えないけれど、人それぞれ生まれつきのものと、育ちながら入力したものによって、完全でない姿が見えることもあります。ところが、五段階で最高の段階に入ると、このような肉の痕跡まで消えて、ただ真理だけで満たされます。
だからと言って、すべての人の性分や心が画一的にみな同じになるというのではありません。各人の特色は多様に残っていますが、以前は肉の痕跡であり、弱点だった分野までも、むしろ長所に昇華されるのです。
たとえば、とてもおとなしくて弱い性分を持って生まれた人でも、五段階の深い次元に入ってくると、弱いところが全くなく、強くて大胆な心で満たされます。そして、本来のおとなしくて弱かった気質は、だれよりも軟らかくて愛らしい性分に、真理の中でその人の長所に変えられるのです。
大変意志が強くてとがった性分だった人も、信仰の五段階、全き霊に深く入ってくれば、綿毛のように柔和で軟らかい心でぎっしり満たされます。それで、まかり間違えば冷たく見えることもある本来の真っ直ぐな気質は、真理の中で清い心に昇華されて、この上なく清らかな香りを発するようになります。
このように、各人の性分と趣向はいろいろですが、そうしながらも皆が完全に主に似せられた、完全な人々が集まっている所がまさに、天国の新しいエルサレムです。
それで、新しいエルサレムの家は、家主の心にしたがって香りを発するようになります。あえて表札がついていなくても、各々の家から流れ出る霊の香りと光だけを見ても、すでにだれの家なのかがわかります。人ごとに生まれつきの気質が違って、訓練の中で成し遂げた心の香りが違うように、各々の家からも、家主の心から発する、多様で美しい香りが感じられるのです。
愛する聖徒の皆さん、父なる神様と主にぴったり似せられて一つになった人は、人の考えを超える霊の知識を悟るだけでなく、人の限界を跳び越える驚くべき霊のことを体験するようになります。
聖書にはこうしたことがたくさん出てきます。雨とひょう、太陽と月などの天気を動かしたり、死者を生かしたり、病気とわずらいをいやしたりします。人としては到底不可能なことが、神様に似せられたほど、神様の力が臨んだほど、十分に現せるのです。
その中でも最も驚くべきことの一つが、まさに人として死を見ないで昇天することです。皆さんが聖書を思い出してみると、このような人々の記録が所々にあります。
<ヘブル11:5>に、「 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」とあります。
また、<列王第二2:11>には、「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」とあります。
その他にも、モーセの場合も、御使いのかしらミカエルがモーセのからだについて悪魔と論じ、言い争った<ユダ(1章) 9節>の記録と、<申命記34:6>に、「その墓を知った者はいない。」という記録を見ると、彼の臨終が普通の人とは違ったことがわかります。
聖書でも明らかに、「人間には、一度死ぬことが定まっている」とありますが、それなら人として死を見ないことがどのように可能なのでしょうか? まさに、信仰の五段階で神様と完全に一つになれば、十分にこうしたこともありえます。
<詩篇82:6>に、「わたしは言った。『おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。』」とあり、また<ヨハネ10:35>に、「もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、」とあります。
こういうみことばのように、神様の律法を受けて、その戒めを完全に成し遂げた人々は、神様と一つ、主と一つを成し遂げるので、肉の世界の公義を越えて、霊の世界の公義が適用されます。
ですから、肉に属した人々が見る時は、あたかも神のように見えるほど驚くべきことを現せるのであり、肉の死さえ避けて行くこともあります。
もう少し詳しく説明しましょう。<ローマ6:23>に、「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあります。霊界の法によると、死は罪がある人にだけ臨みます。しかし、主を信じる人は信仰によって罪の赦しを得て、それで肉体では死を迎えるけれど、終わりの時は復活して、朽ちないからだを持つようになります。
ところが、信仰の五段階に深く入り、肉の痕跡まで完全に消えて、神様のご性質にこの上なく近づくようになると、このような肉体の死でさえ見ない資格を備えるようになります。
つまり、エリヤやエノクのような方は、神様をこの上なく愛して、心の罪を脱ぎ捨てて、根本に残っている肉の痕跡でさえ脱ぎ捨てました。そして、真理で心がぎっしり満たされて、神様にこの上なく似せられた人々です。
また、旧約時代に生きた人々ですが、神様と明らかに交わる中で、時になって来られるイエス・キリストを信仰で見つめたので、過去のすべての罪と原罪までも赦されました。ですから、「罪がない」と認められて、肉の死でさえ見ないことがありえました。
もちろん、かと言ってだれでも信仰の五段階の深い次元に入れば、無条件に死なないで天に上げられるということではありません。たとえ資格を十分に備えたとしても、人間耕作という摂理の中で肉の世界に生まれたので、神様はほとんどこの地上の秩序にしたがって、肉の死を迎えるようにされます。
また、使徒パウロやペテロのように、全き霊に入った後にも殉教するようにされることで、むしろさらに光栄ある報いを受けるようにされて、その血の代価を通じて、神の国が盛んに成し遂げられる礎石にされる場合もあります。
ただし、エノクやエリヤのような場合は、神様が特別な摂理の中で上げられるようにされて、また聖書に記録することで、後世の聖徒たちにそのようなことが可能だという事実を悟って慕い求めるようにされたのです。
このように、信仰の五段階で神様の心に似せられて、完全な従順を成し遂げられるということは、とても深くて霊的な次元です。愛する聖徒の皆さんはこういう世界をより慕い求めて、完全な信仰の段階にすみやかに入ってくるよう、主の御名でお願いします。
愛する聖徒の皆さん、皆さんがもう一つ覚えることは、信仰の五段階に至った人が、満ち満ちたキリストの身たけに達したとしても、はなはだしきは肉体の死を見ないほどに なったとしても、決してキリストと同じになることはできない、ということです。
子どもがいくらお父さんを愛して、努力してお父さんの姿を見習うとしても、お父さんと同じになることはできません。そのように、被造物である人として、創造主神様と主に非常に似せられたとしても、完全に同じと言うことはできません。
また、霊的な弟子とその師の関係にあっても、弟子がその師を越えることはできません。
<マタイ10:24- 25前半>に、「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。」とあり、<ルカ6:40>に、「 弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」とあります。
世の肉的な分野では、弟子が自分の師よりさらに優れた境地に至ることもありますが、霊的にはそれはできません。霊の世界は終わりがなくて非常に深い世界であり、肉の人としては到底わかりません。あたかも、深い海の中に入るほど神秘で美しい世界が広げられているけれど、水の中に入らないで外から見る時は、ただ波打つ青黒い水だけが見えるようなものです。
自分が直接霊の次元に入って悟る前には、その世界を説明することも、教えることもできないのです。知識的に聞いたことを教えるとしても、結局、自分も知らないことを言っているので、まるで目の見えない人を手引きする目の見えない人のようです。
それで、<第一コリント4:15>には「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」とあり、知識的に教える師と、霊に導き、いのちを生むようにする父とを分けて説明しています。
霊的な世界を知っていくためには、必ず神様と明らかに交わるべきで、神様が直接悟らせてくださらなければなりません。そのためには無数の祈りと断食を積まなければなりません。このように霊の世界を突き抜けていって、神様と交わって神様の心と御旨を明らかに知って悟った人だけが、十分に他の人を霊の世界へ導くことができ、他の人も霊の世界を悟るように教えるまことの師になれるのです。
弟子として師が突き抜けていった道に従って行くことは、自分が直接霊の世界を突き抜けていくこととは比べられないほどやさしいのです。しかし、これは師の限界の中でついて行くことですから、自ら霊の世界の道を突き抜けていった師を越えることはできないという意味です。
たとえば、モーセは直接神様の教えを受けたので、モーセに教わったヨシュアがモーセより霊的にさらに深く入ることはできなかったのです。
また、エリシャは師のエリヤを通してエリヤより倍の霊を受けることはできましたが、かと言ってエリシャがよりまさっているとは言えません。これは、エリヤは死を見ないで天に上げられましたが、エリシャは病気にかかって死んだことだけを見てもわかります。
私が神様に初めて出会った後、神様と明らかに交わり、その心と御旨を悟るまでは、数え切れない祈りと断食で、そしてはかり知れない徹夜で歳月を送りました。こういう歳月の中で私自身が体験しただけに、その霊の世界と信仰の次元を確証することができて、皆さんもこのような深い世界へ入ってこられるように提示することができるのです。
「十字架の道」や「霊・魂・肉」、今語っている「信仰の量り」等の内容も、そういう歳月を通して神様と交わることによって受けたみことばです。また、神様の大きい御力を受けて行うので、皆さんにもその御力を行える道を提示してさしあげるのです。
かりに皆さんの信仰が四段階程度ならば、信仰の三段階やそれよりさらに信仰が薄い魂たちは顧みて教えられます。しかし、それ以上さらに深い霊の世界には導くことができません。
皆さんがゆだねられた羊の群れを顧みる時も、「私の羊の群れ」と主張しないで、牧者と つなごうとするのも、まさにこういう理由からです。すなわち、皆さん自身の限界よりさらに深い霊の世界を突き抜けて行けるように、師の導きを受けるようにすることだから です。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、きょうのメッセージは信仰の五段階の中でも深い内容を説明したので、ちょっと難しく感じられたかもしれません。
<第一コリント2:13>に「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」とあります。
このみことばのように、霊の世界のことは聖霊の働きで悟られるべきことであり、肉の言語で霊のことを表現することもやさしくなく、いくらよく表現しても、肉ではすべて理解することはできません。
しかし、神様は皆さんがただ救われるだけでなく、霊の深い世界へ入ってきて、父の心に含まれた深いことまでも悟って知ることを願われます。世の中でも、気が合って話が通じる人どうしでは、一緒にいて対話することがとても楽しくて、近い骨肉よりさらに愛らしいこともあります。
皆さんが速く霊に全き霊に入り、神様の深みまでもわかるとき、神様の友のように親しい愛を分かち合うことができます。また、これが神様が人をお造りになった目的を完全に成し遂げてさしあげることです。
愛する聖徒の皆さんは、より切なる心で善なるものと霊のことを慕い求めるようお願いします。それで、毎日さらに深く神様と交わり、父の心と御旨を悟り、完全な愛を分かち合える皆さんになられますように、主の御名で祝福して祈ります。
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